S24 キリストは神である

聖書には私たちの常識や、思い込みと違うこと、聞いたことのないことが
いくつか書いてあります。
聖書とは以前書いたように、信頼に足る本であり、
その科学的記述、また未来への預言の成就など、人知を超えたこと、
大いに信頼に足りることが書かれています。

しかしそれなら、聖書はすべての人に受け入れられやすい、かというと
そうとも限りません。残念ながら、すべての人から受け入れられないかもしれないこともいくつか書かれています。そういう意味では聖書はすべての人にハードルが低い本ではないかもしれません。

一つはっきり知らなければならないこと、聖書が主張していることは、
キリストが神であると語っているのです。

このことばは、すべての人がああそうですか、と受け入れるのは、
もしかすると難しいかもしれません。しかし、2000年以上前から、
聖書に書かれていることであり、我々が勝手に曲げるわけにはいかないので、
そのまま語ります。そうです、聖書はキリストが神であると語っているのです。

この件、キリストが神である、ということだけでもかなり、
大きな神学的な問題ですが、長々と書くわけにも
いきませんので、ポイントだけ書いていきたい、と思います。
聖書でキリストが神であると語っている箇所を見ていきましょう。

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この箇所は、キリストの誕生を述べた箇所です。この箇所を順に見ていきましょう。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”

キリストはことばになぞられ、表現されます。
ですから、私たちが神のことば、キリストのことばをどう扱い、どう見るかは重要です。キリストのことばを拒否することは、キリストご自身を拒否することに通じるからです。

「ことばは神であった」

ここで明確にことば、すなわちキリストが神であることが宣言され、語られています。
いったいどうやって神がキリストを通して来られたのか、人間として生まれキリストが神なのか、我々には、深く考えてもわからないかもしれません、理解できないかもしれません。
しかし、聖書がそういう以上、そうなのかもしれない、と思うことは大事です。

そもそもこの地球も、動物もそして人間も創造したのは神です。
その神が人間のかたちをとってきた、としてもそれはあまり不思議なことではありません。


どのようにして、というこまかいことはわからないとしても、それは人間には不可能でも神には可能でしょう。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

我々はイエスキリストは2000年前、人として誕生したと理解しています。
イエスが人間の姿を持ち、人の肉体をもって、誕生したことは確かに事実なのです。
しかし、ここでは、初めすなわち、宇宙の初めから、この方、キリストが存在していたことが語られています。
肉体をもったキリストの生涯は33年ほどです。しかし、その期間だけが
キリストが存在していた期間ではない、霊としてのキリストは実は、初め、すなわち、宇宙の初めから存在していたことが書かれているのです。
人は霊と肉体からできています。キリストの肉体は確かに2000年前に生まれ、33年ほど、地上の生涯をすごしました。しかし、その霊を考えるなら、それは神の霊であり、宇宙の初めから存在していたことがここでは書かれているのです。

我々はイエスキリストという方を知ろうとするとき、一面、人として、
33年の生涯を送った人間的な面も知るべきですが、それはキリストの一面に
過ぎず、もう一面、神の霊として、宇宙の初めから存在しておられた、という
面も理解すべきなのです。この2つを理解して初めて神であるイエスキリストという方を理解できるのです。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

ここも2000年前に生まれた人としてのキリストのみに心が捕らえられているなら、理解できない箇所です。ここは明らかにキリストに住む霊としての神ご自身に関して語られた箇所です。その神の霊によってすべてのものが造られた、全宇宙、すべての星、地球の動物、植物、人間すべてのものがこの方によって造られたことが書かれています。

世界には2種類の存在しかありません。すなわち、創り主、(創造した方)と被造物(創造されたもの)です。星も動物も人間もみな神によって創られた存在であり、被造物です。しかし、ここでは、「すべてのものは、この方によって造られた」として、創造主、神について書かれています。そして、キリストがその創造主であることが語られています。すなわち、キリストがすべてのものを創造した神であることが語られているのです。

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

ここでも神であるキリストに関して語られています。
神であるキリスト、キリストの霊は、世界の創造のときから、存在していた、
そして、世界も世界に住む人間もこの方によって創造されたのに、
残念ながら、人間はこの神を知ろうとしないし、関心もない、
そのことが書かれているのです。

1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

神であるキリストは自分の国(自分のもの)のところへきたのに、
自分の民がそのキリストを受け入れなかったことが書かれています。

このことは事実であり、キリストは神ご自身が肉体をもってこられたのですが
しかし、民の彼への反応は拒否であり、逮捕そして、死刑判決そして、十字架の上での死刑です。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

しかし、その中でも例外的にキリストを受け入れた、すなわち、神を受け入れた
人々はに対して神のこどもとされる特権が与えられたことが書かれています。

このことは特権です。すべての人が神のこどもになるというわけではありません。しかし、我々がキリストを信じ、神の子供となります。そして神の子供なら、想像以上に大きな特権を受けるようになります。神の子となるなら、神の住む天の御国にすむようになり、神のように、永遠の命を受けるようになり、神の子供として父なる神の相続財産も受け継ぐようになります。
これらは特権なのですが多くの人はそのすばらしさに気がつきませんし、本気にもしません。しかし、私たちはこの神の約束を信じ受け取っていきましょう。

もう一箇所見ていきましょう。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

ここでは、キリストがその人としての誕生以前は神の御姿であったのに、「神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」ことが書かれています。

ですので、神が人の姿をとって下るという自分の身を下げる行い、
それこそ、王子が乞食になるような謙遜をもって、キリストは
この世に来られたのです。

しかし、このこと、キリストが来られて人のために救いの道を開くことが
人間にとっては必要なことなのであえてキリストは来られたのです。

神が人の姿をとってこられた、このことは確かに私たちの常識とは
異なるかもしれません、しかし、聞いたことのない話だから間違い、ということはないのです。もし、本当に神という全能の方が存在しておられるなら、
その方が人間の姿をもってこられる、ということはそれほど不思議なことでも難しいことでもありません。次のステップ

タイトルとURLをコピーしました