<<神の存在の証明>>:神の存在は証明できる!!

 

「誰が神を作ったのか?」

そんな風に無神論者はききます。神が存在するのかどうか、

証拠を調べたものにとり、神の存在は、自明です。であるがゆえに聖書は、

以下の様に語ります。

 

”詩篇14:1 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。”

 

無神論者を公言している人々は神が彼に与えてくださる常識を否定し、彼の

信じている理論を守るために、「誰が神を作ったのか?」との質問には誰も答えられないと思い込んでいます。この質問は彼にとり、神の存在を否定するライセンスとなる、と考えているのです。

 

多くの人が「神の存在を証明することも、また存在しないことを証明することもできない。それは信仰の問題だ」と語ります。

 

しかし、神の存在とは信仰とはかかわりがありません。

その理由は以下です。

 

たとえば、私たちが、何か建物、国会議事堂の様な建物を見るとします。

その建物を建設した人が存在することをどうやって知ることができるでしょう?我々はその建設した人を見ることも聞くことも、触ることも匂いをかぐこともできないのです。その場合はその建設された建物自身が建設した人が存在することの証拠となるのです。

 

建設者が存在していることに関しては目の前に存在する建物がもっとも有力な証拠となるのです。我々が建設者が存在することを知るのに信仰は必要ありません。ただ、必要なのは見ることのできる目ときちんと働く脳です。

 

同じような深遠で知的な原則が絵と画家の間に適用できます。

もし、我々がたとえば、モナリザの様な 絵を見たとき、

どうやってその絵の画家が存在することを知ることができるでしょうか?

絵そのものが画家が存在することの完全な証拠となるのです。

実際問題、我々は画家が存在することに関して、絵が我々の目の前に

存在する以上の有力な証拠を持ちません。

 

我々は画家が存在することに関して信仰を持つ必要はありません。

我々にとって必要なのは見ることのできる目と考えることのできる脳です。

このように物事は子供でも理解できるように単純なのです。

このような単純さにおいて問題があるのは、自分は知的であると自称する人々です。この地上においてどのようなものでも作られたものにはそれを作った人がいる、この建物/建設者、絵/画家の原則を神の存在に関しても適用できます。

モナリザ:絵の存在はこれを描いた画家の存在を証明する

 

我々が神によって創られた動物や植物を見るとき、我々はどうやって創造した方、神の存在を知ることができるでしょうか?我々は神を見ることも、聞くことも、触ることも匂いをかぐこともできないのです。どうやって神が存在していることを知ることができるでしょうか?

 

それは、創造されたものを通して、何の疑いもなく、創造した神が存在することを知ることができるのです。私たちは、創造する方なしに被造物である動物や植物を得ることはできないのです。我々は創造者である神の存在の証拠として目の前にある被造物(神によって創られた存在)である動物や植物以上のものを持つことができません。ですから私たちが創造者である神を信じるのに信仰は必要ありません。我々が必要なのは、見ることのできる目と考えることのできる脳だけなのです。

 

聖書はこう語ります。

 

“ ロマ1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。”

 

被造物すなわち、神によって創られた動物や植物や人間のすばらしい能力を通して、それを創造された神の目には見えない力や、性格を知ることは可能であり、はっきりと知ることができる、被造物を見ながらそれを創られた方の存在を否定する人には弁解の余地がない、それが聖書の語っていることなのです。