<<メシヤ(救い主)に関する聖書の預言>>
聖書の預言に関する記述が続きますが、今回は聖書の中の
メシヤ、救い主に関する預言に関してみていきましょう。
聖書は厚い書ですが、その書は大きく2種類に分かれます。
すなわち、旧約聖書と新約聖書です。そしてその違いは何か、というと
成立時代による区分です。簡単にキリスト生誕以前に書かれた聖書が
旧約聖書であり、キリスト生誕以降に書かれた書が新約聖書です。
旧約聖書には、メシヤ、すなわち、来るべき救い主に関する
預言がいくつも書かれています。その預言はキリストの生誕により、
成就します。今回はこの件に関して見ていきたい、と思います。
ちなみにメシヤということばは、旧約聖書でいう「油注がれたもの」という
意味合いがあります。そして、イエスキリストのキリストということばの意味合いこそ、
ギリシャ語でいう「油注がれたもの」という意味合いなのです。
旧約聖書の中では、たびたび繰り返して未来の日に来臨する
メシヤ、救い主に関する言及があります。
たとえば、アダム、エバがエデンの園で、敵であるサタンに惑わされ、一敗地にまみれ、
敗北したあと、その仇を討つもののように、神はサタンに対して、
「女の子孫がお前(蛇=サタン)の頭を砕く」と預言しています。この女の子孫こそ
後に起きる、メシヤを予表しているのです。
また、旧約の最大の預言者、モーセは彼が亡くなる前に
「神は私のような預言者を起こす」と預言しています。
彼、モーセこそが、荒野で多くのイスラエル人を導き、約束の
地へ導いた偉人なのですが、彼は自分の働きを
真にになう預言者がおきることを語ったのです。
この出現が預言された預言者こそ、後の日に
モーセの働きをにない、人々へ真の神からのことば、
方向性を伝える人として起きる、メシヤのことなのです。
また、イスラエルには多くの王が立ちましたが、
その中で真の王、神のみこころにかなった王として、
もっとも有名な王は他でもないダビデ王です。
そのダビデが亡くなる前、神はこの
ダビデの真の後継者、子、世継ぎが起きることを預言しました。
そしてその王座が世々に続くことをも預言しました。
この王、真のダビデの王座を継ぐものはメシヤとして、
先の日に起きることを語ったのです。
これらは一例であり、旧約聖書は繰り返し、繰り返し、
来るべきメシヤの来臨に関して述べています。
ですので、メシヤ来臨の預言、またその実際の降誕は、
聖書の中心部分といえるのです。
そのメシヤ来臨の預言に関して少し見て行きたいとおもうのです。
世の中の多くの本と異なり、聖書は未来に関して詳細で、個別の預言を
行っています。 そのうちのいくつかは実際に成就する何百年の前に書かれたものです。
このような詳細な預言の成就ということは人間レベルではありえないことであり、全知、
すなわち、全てのことを前
もって知ることのできる神の存在なしには、
理解できない事柄なのです。
<メシヤの誕生>
旧約聖書の預言者の一人であるイザヤは、「インマヌエル(神が我らとともにいます)
と呼ばれる人物が処女から生まれることを預言しています。以下のとおりです。
イザヤ”7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。”
この預言はキリストの誕生の700年も前になされたものです。
新約聖書マタイの福音書はこの預言が成就したことを以下の様に述べています。
”マタイ 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)”
そしてキリストはイザヤの預言どおり、処女マリヤから生まれてきたのです。
神はこのかねてから預言されていた救い主、メシヤの特徴を
処女から生まれる、という超自然的な生まれ方で特徴ずけており、
まさにキリストは、その預言どおり処女マリヤから生まれたのです。
マリヤへの受胎告知(メシヤがお腹に宿ることの告知)
さらに、キリストより800年も前の預言者ミカは、メシヤの誕生の場所を以下のように、
明確にベツレヘムという地であることを預言しています。
”ミカ 5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。”
この預言どおり、800年後キリストはベツレヘムの地で生まれています。以下のとおりです。
マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
このミカの預言は800年後すなわち、キリストが生まれる頃には
ユダヤの地で聖書を読む人々の間では、知れ渡っていました。
だから上記の様に、学者たちは、その生誕の地を「ベツレヘムである」として
即答できたのです。
そしてイエスはまさに、そのベツレヘムの地で生まれたのです。
どんな偉人でも自分の出生の場所をコントロールすることはできません。
ですので、私たちはこのことを通して、まさにイエスが聖書がかねてから
預言していたメシヤ、キリストであることを知ることができるのです。
<メシヤはアブラハムの子孫である>
聖書の一つの中心点は、メシヤ来臨であり、メシヤすなわち、
キリストこそ聖書の中心人物です。神は自分のひとり子(たった一人の子、
唯一の子の意味合い)である、メシヤを世に遣わすということが
聖書の中心テーマなのです。
そしてそうであるがゆえに、また他で代替のきかない、
たった一人の神の子なので、その人物を他の人と間違えることのないように、
神はあらゆる配慮をし、前もってこのメシヤ来臨の預言や予知、前触れを預言者を通し、
聖書を通して与えています。
具体的にはメシヤに関してそれは、単に神の子というだけでなく、その人物の
生誕の時、場所、生誕の特殊な事情(処女から生まれる)などが
語られています。そして、さらに神はこのメシヤに関して詳細なことを
語り、その血筋や血統に関しても前もって語ります。
彼、メシヤは、セム系のアブラハムの子孫であることが預言されているのです。
以下のとおりです。
創世記 22:18 あなた(アブラハム)の子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
日本語ではわかりずらいのですがこの「子孫」ということばは複数形でなく、
単数形で書かれています。すなわち、これはアブラハムの子孫であるひと
りの人物に関しての預言なのです。そしてその子孫に関して新約聖書では以下の様に書いています。
”ガラテヤ 3:16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。”
ですから、メシヤはアブラハムの子孫から出ること、そしてその人物が世界の祝福のもといとなることは
聖書の中で、約束されており、そしてその約束どおり、キリストはアブラハムの子孫、血筋の中で
うまれてきたのです。そして、まさに今、彼を信ずるものには、このキリストは世界の
祝福のもといとなっているのです。
<ユダ族の子孫>
さて、聖書はメシヤの血筋に関してアブラハムの子孫すなわち、イスラエル民族の子孫であることを語りますが、それに留まらず、さらに細かい、詳細な預言を行なっています。イスラエルには12の部族があるのですが、聖書はメシヤは、その中のユダ部族の下で生まれることを預言しています。
以下のとおりです。
”創世記49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。”
この箇所では王権はユダを離れずとして、王であるメシヤが、ユダ族から生まれることが預言されています。
そしてその預言どおりメシヤであるキリストはユダ族の生まれとなりました。
以下のとおりです。
”ヘブル7:14 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。”
<メシヤはダビデの家系に生まれる>
そしてさらにさらに細かく聖書は未来に来臨するメシヤに関して詳細な
預言を語ります。ユダ族の中にも多くの家系がありますが、ダビデ王の家系は
その中で有力な家系です。そして聖書はメシヤがダビデの子孫として生まれることを
預言しているのです。以下のとおりです。
”2サムエル 7:12 あなた(ダビデ)の日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。”
ここで神は王であるダビデに対して彼に一人の世継ぎの子が生まれることを預言しています。これは、ダビデの家系に生まれる後の日のメシヤに関する預言なのです。
そして、このことは成就し、キリストはダビデの家系の中で生まれてきました。以下のとおりです。
”マタイ1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。”
ダビデ王
<先遣者が遣わされる>
このように来るべきメシヤに関して人々が決して間違うことのないように、
神は前もってその生誕の場所、さらに詳細な家系に関して語りました。
そして、さらにその上に、このメシヤの来臨を人々が決して間違えることのないよ
うにと、そのメシヤ来臨の前に先遣者が遣わされることをも預言しています。
神は微に入り、細に入り、このメシヤの来臨を人々が間違えることのないように預言
しておられるのです。以下の記述を見てください。
”イザヤ書 40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。”
ここでは、先遣者が「荒野で呼ばわるもの」と書かれています。そして、
彼が主、メシヤのために道を備え、道そなえをし、先遣することが預言されているのです。
そしてこのことは700年後、成就します。メシヤであるキリストが公の働きに着く前に
先遣者であるバプテスマのヨハネという人物が神によって送られてきたのです。
彼は当時の有名な預言者でした。そして彼自身は自分について上記のイザヤ
書のことばを引用し、自分はメシヤ来臨の前に神によって遣わされた先遣者である、と
語ったのです。以下の記述を見てください。
”マタイ3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。”
このように聖書はメシヤ、キリストの来臨に関して明確な間違えのない
方法で、前もって預言していることがわかります。これは、何故でしょうか?
それは、イエスキリストという特別な人物の登場の裏には、人間的なこと、
彼が優れた宗教者だとか、話がうまいとか、カリスマ的な能力がある、
などといった、ことにとどまらず、人知ではコントロール不可能な、神の
遠大、ずっと昔から、歴史のはじめからの計画があることを私たちが
理解するためなのです。
これらの聖書の預言とその成就は、ベツレヘムで生まれたキリスト個人では
コントロール不可能なのです。誰が自分の生まれる場所をコントロールしたり、
選んだりできるでしょうか?それは無理です。聖書が淡々と語り、
また、淡々と間違いなく成就するこれらの預言が語ることは一つです。
すなわち、私たちの歴史を治めるひとりの神がおられ、その方の
計画の中でメシヤ、キリストは生まれてきた、ということなのです。
キリストは神の計画の中でこの世に送られてきた方であり、
神の祝福はこの人を通して私たちの上に来るのです。
私たちは神の方法を尊重し、神の意図を尊重すべきなのです。
バプテスマのヨハネとキリスト
<メシヤへの拒絶>
このようにして、神が長い間計画し、また前もって預言した上で、
来臨したメシヤ、キリストなのですが、その来臨の結果は喜ばしいこと
みなに受け入れられるものではありませんでした。逆に人々はこの
メシヤを、非難し、彼につまずき、誤解し、最後には彼を十字架で殺
してしまったのです。彼は当時のユダヤの宗教指導者からは誤解され、憎まれたのです。
そしてこのことをも聖書は預言し、以下のように語ります。
”詩篇118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。”
ここで聖書はメシヤが家を建てるものたちすなわち、ユダヤの家、国を建てるような
国の中心的な人々からは捨てられ、憎まれ、評価されないようになることが預言されています。
このことは成就し、メシヤ、キリストは我々がよく知っているように、ユダヤの
宗教指導者からは捨てられ、尊重されず、逆に訴えられて十字架の死を迎
えたのです。そして、新約聖書はこのことは聖書の預言の成就であることを語
ります。以下のとおりです。
”1ペテロ2:7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、
2:8 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。”
ここでペテロはキリストこそ、この家を建てるものたちが捨てた石であることをかたっています。
そうです、この預言、メシヤが民の中心的な人々に捨てられるとの預言も
まさに聖書の語るとおり成就したのです。
さて、この辺でメシヤ預言の1は終わり、後は2に続きたいと思います。
この様な記述で、日本人にはあまり親しみのない、聖書、そして
その中で書かれた未来への預言、またその正確な成就、ということが少しでも
ご理解いただけたでしょうか。
これらのこと、すなわち、聖書の中で、何千年も前から預言が行なわれていた、ということ、
また、それらの預言がことごとく成就する、ということを通して、聖書が暗に語っていることは
何なのでしょうか?それは、私が思うに、このような時代、何が真理なのか、
何がよりどころなのか、みな頼りにならないような時代である、そうであっても
この世に真理があり、その語ったことをことごとく、一言も逃さず、
ことばをたがえず、実行する、真の神が存在している、ということを私たちに語り、
また、単に語るだけでなく、行いで示すために神がこのことをなした、そう
思えるのです。
今は政治も、政治家も頼りになりません。嘘や、忖度がまかり
とおり、何を信じていいかわからないのです。
また、いくつかの宗教がありますが、色々スキャンダルや問題も
あることを聞きます。
いったい、どの神様がただししく、何を信じたらよいのかも
私たちにはわからないのです。
しかし、聖書の不言実行、大げさに宣伝はしないが、しかし、
歴史の中で、黙々とそのことばを実行し、実現される
神の存在は私たちに光を与えるのではないでしょうか。
私が知る限り、聖書の神は、でしゃばりでなく、また、
自分を主張されない方です。
聖書は3000年以上の歴史があり、一字一句変わっていない、時代や、
都合で変わったりしない書です。
この書に真理があり、この神に真理があることを聖書は
これらの預言の成就を通して、静かに語っている、そう私には思えます。