<<セブンスデーアドベンテスト>>
セブンスデーアドベンテストは、19世紀の偉大な
”2度目の降誕”覚醒の間に始まった。
1818年にバプテストの働き人であるウイリアムミラーが
ダニエル書の8:14を読み、キリストの来臨が
25年以内にある、1843年の3月21日から1844年の3月21の間にあると予言した。(BC457年から2300年後)後に彼の仲間が日付を1844年
10月22日だと設定した。
その後の1844−1847年の間に3つのグループがセブンスデーアドベンテスト
を形成するために集まった。
#ヒラム エドソンは、聖所と至聖所におけるキリストの最後の働き、
の教理(Inbestigative Judgement)を提供した。1844
年10月23日に”突然考えが彼の心に浮かんだ、旧約の時代の地上の聖所がそうであるように、天の天においてキリストの働きには、2つの段階があるとの考えである。我々の大祭司が、2300日の終わりの7月の10日に天の聖所の至聖所を出て
地上に来る前に、彼はまず始めにその日にその聖所の第2の場所に
入られた、彼には、地上に来る前に至聖所でなさなければならない
働きがあるからである。
#ジョセフベートは、7日目における礼拝、安息日の教理を提供した。
#エレン G ハルモン(ホワイト)は、預言の霊の教理を提供した。
彼女の幻と預言は、ユニークな宗教システムを形作る上に神学的な概念をもたらした。
<教理>
セブンスデーアドベンテストは歴史的、聖書的なキリスト教と多くの面で
基本的な合意を持っている:聖書の霊感と間違えのないこと、 神の三位の性格
(父なる神、イエスキリストの神性、聖霊の人格と神性)、人は神の形に造られたこと、しかし罪に陥り、あがないを必要とすること。彼らはイエスキリストは処女から生まれたこと、罪のない生涯を送ったこと、十字架にかかり、死に、葬られたこと、そして墓から肉体をもってよみがえったことを教える。
一方、セブンスデーアドベンテストは、歴史的なキリスト教と異なる
いくつもの独特な教理も持っている。
<エレンGホワイトの役割>
セブンスデーアドベンテストは、”エレン G ホワイトは、彼女の70年の
公的働きを通して、真の預言者の働きを成し遂げた、
サムエルが預言者であり、エレミヤが預言者であり、バプテスマのヨハネが
預言者であるように、ホワイト夫人はこの時代の教会への預言者であると
我々は考える”と述べる。( The Aevent)
セブンスデーアドベンテストのChurch Manualは、”主のメッセンジャーとして、
彼女の著作は真理の継続的、権威の源である、それは教会に
慰め、ガイド、指示、訂正を与えてくれる。”という。
ホワイト夫人、彼女自身も”私があなたに警告と検証の証を送るとき、
あなた方の多くはこれをホワイト姉からの単なる意見と宣言する、あなたたちは
このようにして神の霊を侮辱している。”と語っている。
しかしながら、”ホワイト婦人の「預言のたまもの」には、
いくつかの問題がある。Walter, Reaは彼の本、The White Lieで、広範囲の盗用を
文書にまとめている。彼女はよく誤りを犯している、彼女自身が認めているように。
ホワイト夫人
<イエスキリストの人格>
セブンスデーアドベンテストは、人としてのイエスキリストに関する教えがいくつか歴史的なキリスト教教理と異なっている、以下の様に;
#初期のセブンスデーアドベンテストは、子は完全には
父と同じではない、そして子は遠い過去にその初めを持っていたとの考えに同意していた。
#ミカエルという名前は、創造された天使に適用するのではなく、
神の子が受肉する前の状態に適用するべきである。
#キリストが人となったとき、彼は彼自身の上に
人の肉体と人の性質をまとった、しかし、
区分された非物質的存在としての人の魂はもっていなかった。
<魂の眠りと邪悪な人の滅び>
歴史的なキリスト教の教えと対照的に、セブンスデーアドベンテストはこう主張する:
魂は人間全体を代表するものであり、人間全体(肉体)は、
復活の朝まで墓に残るとの教えを持つ。
魂は肉体を離れては存在できない、そして死後には何の意識の存在も残らない。
義人は、復活し、主の再臨の日に引き上げられ主に会う; 不義の人は、
千年王国以降よみがえり、火の池に投げ込まれ、そこで絶滅する。
<安息日と獣のしるし>
セブンスデーアドベンテストは、7日目の安息日(金曜夕方から土曜夕方まで)は
神により設立されたものである、この日を守ることは、その人のキリストへの
忠実さへの試験となる。艱難時代の間、偽の安息日が宣言される。
その日を礼拝するものは獣のしるしがつけられる; 神に忠実に残るものは、
安息日での礼拝を続けると主張する。
<天の聖所、調査審判、スケープゴート>
もう一度我々は、歴史的なキリスト教の教えとセブンスデーアドベンテストの
教えとの対称を見て行きたい:
#イエスは彼の2段目の働きを始めるため1844年から天の聖所に入った。
#信者の罪は天の聖所へ送られ、保管され、記録されている、そして今は
調査審判がなされている。すでに死んだものは、彼らは最初の復活の一部となるにふさわしいかどうか決定されるため調べられている。
生きているものは同じく、神の戒めにとどまり、守っているかどうかを
決定するために調査されている。
全ての義のケースが決定された後、(基準は十戒)彼らの罪は消し去られ、
イエスはこの地上に彼の全ての栄光とともに再臨する。
#アザゼル(あがないの日に大祭司が野に放つヤギ)はサタンを意味するものである。そしてサタンは、全ての人、義の人、邪悪な人の罪の中で彼の責任において、
最終的に天罰の罰を受ける。
<律法、恵みそして救い>
ついに、我々は、教理の違いを見る、律法、恵みそして救いの2面を調べるとき。
一方では、我々は信仰のみによる義を見る。それと反対に、
我々は、信仰による義は、神の戒めに従うことにより、
示されることを見る。この視点は、
安息日厳守と旧約聖書の神的律
法で強く提唱される、これは、救いは信仰を通した恵みにより、行ないによらないとのセブンスデーアドベンテストの確認、と調和させるのが難しい。
たとえば、In Just What Do You Believer about Your Church,
Fordyce Detamoreは以下のように書く:
救いのための要求事項のベストなまとめは、イエスが若い富んだ貴人に与えた
示唆にある(マタイ19:16−22)
”もしあなたが命に入りたいなら、(1)戒めを守りなさい、そして(2)私に従ってきなさい。”他には何も救いの希望がない。
聖い神の律
法の基準により、我々は最後の審判の日に裁かれる。(P32-34)
イザヤ66:15−17がこの本に入っている限り、あなたが
豚の肉を食べようと他の穢れた食べ物を食べようと、
そこには何も代わりがないと
私はあなたにあえていうことができるか?
このようにいうことのほうがずっと簡単である、
“行きなさい、そして、好きなものをたべなさい、あなたは
このことをもう気にしなくてよい“
しかし神は穢れたものを食べる人々に、
あなたがきたとき、滅ぼされる、とかたる。
あなたには私が平明に
主の来られるとき、あなたがだまされ、そして滅ぼされないように、
と語るほうがよくないか?
(pp22,23)
<セブンスデーアドベンテストと真理を分かつ>
我々の関心は、確かに個々のセブンスデーアドベンテストが
一つの真の福音に向き合うことである。もしアドベンテイストが、
ホワイト婦人には誤りがあり、天の記録が信者を有罪としないことを
安息日を守るなどの律
法などの行いの条件が救われるのに必要でないことを認めるなら、
それなら他の部分は等しいので、彼は福音派として認められる。
一方、もしアドベンテイストが、ホワイト婦人が誤りのないこと、調査審判、旧約の神聖な律法にこだわるなら、その人は自分自身を律
法の呪いの下においている、(ガラテヤ3:10)、
そして彼は他の福音を述べ伝えていることになる。
(ガラテヤ1:8,9)
信仰は神の戒めへの従順により、あらわされると信じる人々への
回答として、
1 人は律法の行いから離れてイエスにある信仰で義とされるとの
聖書的教えを強調する。(ロマ3:28、4:6、ガラテヤ2:16.
3:10−14)
2 モーセの律法は、イエスキリストによりまっとうされたことを強調する。
彼の完全な人生により、律
法の要求の道徳的な面を達成した;彼の死により、
彼は、全ての儀式的規定を満たした、それは、
キリストの受肉と犠牲を予表したものである。
(ローマ5:10、 コロサイ2:16,17)
3 クリスチャンが召され、従うべき律
法や戒めは、愛の法則である。(マタイ22:37−40、
ローマ13:8−10)
#安息日がクリスチャンと結びついていると、
信じる人々には、以下を指摘するべきである:
1 コンスタンテインは、アドバンテイストが主張するように、
礼拝の日を土曜から日曜に変えてはいない。
彼は週の初めの日を公の祝日であるべきとした、
しかしコンスタンテインの何世紀も前にクリスチャンは、
週の初めの日に既にともに集まっていた。
週の初めの日の礼拝の参照箇所は、
使徒2:41、 20:6,7、1コリント16:2、黙示録1:10などにある。
(さらにDidache もIgnatiusも日曜日を主の日(Kuriake)
と参照している。
さらに週の最初の日に礼拝することは、
初代教会の教父たちの著作に見出すことができる:
Ignatius (110AD), 殉教者 Justin (100-165AD),
Barnabas(120-150AD)
Irenaeus (178AD), Bardaisan (154AD), Tertullian
(200AD),
Origen (225AD), Cyprian
(200-258AD), Peter of Alexandria (300AD),
Eusebius (315AD)
コンスタンチン皇帝が安息日を日曜に変更したわけではない
2 新約においては、異邦人信者と安息日遵守を結びつける何らの指示もない。
反対に、我々は以下の様なみことばを見出す:
”ロマ14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。“
“コロサイ2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。”
<結論>
結論として我々はセブンスデーをどう考えればよいのだろうか?
以下のことばが彼らの実態をあらわすみことばだと理解できる。
出エジプト20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
ここで神は真の神である方以外のなにをも「神」としてはならないこと、
それに仕えてはいけないことを命じている。セブンスデーの実態はこのことばに
反して、人であり、しかも間違いをも犯しているホワイト婦人を偶像とし、神のことばの上におき、彼女の教えをみことばに優先していることにある、と理解できる。
その結果、ローマカソリックが終末の獣の国だとか、キリストによる調査審判だの、
土曜安息を守ることが絶対だとの聖書とかけ離れた教えを尊重するようになっている。
彼らは「自分たちは偶像崇拝などしていない」というだろうが、しかし、
神のことばより、とある自称預言者、すなわち人間を高く挙げ、聖書と異なる
教えを実践すること、これを神の前にも人の前にも偶像崇拝、と呼ぶのである。
そして神はセブンスデーを偶像に従うやからとみなしている。
その結果、彼らは偶像崇拝者が受ける災い、報いを今受けている。