ものみの塔の誤り3
以下ものみの塔の誤り、問題を列挙する。
<自分たちの教会だけが正しい唯一の教会だと思っている>
エホバの証人は、自分たちは唯一の真の教会を持っている、ものみの塔こそ、
神の真の代表者、唯一の正しい聖書的教え、エホバの来るべき王国を伝える唯一正しい宣告者であると語る。
<外れた預言>
彼らは組織として多くの預言をし、そしてことごとく外れている。
「木はその実によって知られる」というが、このように
よく外れるものみの塔は、偽預言者と呼ばれてもいいわけできない。
ここでは、ものみの塔の外れた預言に関してみていきたい。
ラザフォードの1942年の死から、預言は
組織の統治体の名前で出るようになった。
彼らものみの塔の統治体は以下の様に、自らを預言者であると認識している:
”この預言者は誰か?この預言者は一人の人ではない、それは男女の
共同体である。”
Watchtower Apri 1, 1972 発行 P197
ラザフォード
異邦人の終わり、主の再臨は1914年に行なわれる、と預言する。
1880: 我々は7つ目のラッパが1840年に開始されることに関しては、
ここで証拠を繰り返す必要はない。それは争いのときの終わりまで続く、
そして異邦人のときの終わりは1914年に来る。
(Zion’s watachtower November 1880 page 1)
イエスは1874年以来臨在していると語る。
1897: 我らの主、王として任命されたもの(イエスキリストのこと)は、1874年 10月以来臨在している。(Studies in the scriptures, Vol.4 P621)
1914年までにこの世の国の支配は終わり、神の国が来ると預言する。
1899: 全能なる神の大いなる戦い(黙示録16:14)はすでに始まっている。
それは 地上の現在のすべての支配を完全に覆して1914年に終わる予定である。( The
time is at hand 1908 edition P 101)
上記の様に彼らは明確に1914年10月という年を預言していたのに、
そのときが何もなしに過ぎていったとき、ものみの塔の指導者は
信じられない言い訳を行った。自分たちは積極的に1914年がそのときだと述べたことはない、と語ったのである。
“神のことばを学び、我々は1914年10月が我々がますますみなせるように
予告した。我々はこれがその年であると積極的には語らなかった。“
(Watchtower November 1, 1914 page
325)
第一次大戦はハルマゲドンをもたらす、と語る
1915: “現在ヨーロッパで起きている戦争(第一次世界大戦)は、
聖書のハルマゲドンの始めである(黙示録19:16-20)
これは最後には、神の民を長い間圧迫し、世界を惑わしてきた誤ったシステムの完全な崩壊をもたらすだろう。” (Pastor Russel’s
sermons 1915 P676)
神の国は1915年に来る
1915: “異邦人の時に関する強い聖書の確信の視点により、
この世の王国の最終的な終わり、神の王国の完全な設立は1915年の
終わりまでに完成することは確立された真理であると我々は思う。“
(The time is at hand 1915 edition P99)
このように語ったが、その1年後の1916年には、この1915年に関する預言は忘れ去られ、当初の年1914年が持ち出される。
“我々は異邦人の時が1914年の10月に終わったことに関しては、
それを疑う何の理由もない、そして数年の間、
彼らのまったくの崩壊、メシヤの手による神の王国の完全な設立を目撃するようになるだろう。”(Watchtower
reprints, vol. 6 P5950 September 1, 1916)
キリストの再臨を預言して外れる
さらに1年後の1917年に今までの彼らの全ての預言の失敗に思いとどまることなく、
ものみの塔は、主の再臨に関して新しい日付を発表した。それは1925年である。
“何の間違えもないだろう。アブラハムが
彼の約束された資産を実際に所有するべく1925年に来ることには。”
(Watchtower October 15, 1917 P6157)
その後に続く年々において1925年の日付はその後何度も再確証されていくことになる。1922年、1923年、1924年において何度も確証された。ここには、
何の「もしも」や「しかし」もなかった。日付は堅く設立されたのである。
1918: "それゆえ、我々は自信をもって期待できる、1925年にはアブラハム、イサク、ヤコブ、そして旧約の忠実な預言者たち、特にヘブル書11章に描かれた人々が、人間として完全な状態で、地上に戻ってくることを。”
(Millions Now Living will never die
P89)
1922: “期間は1925年に終了しなければならない。
この日は確かにみことばに固定されている。
全ての考える人々は、大きなクライマックスが近いことを見ることができる。
聖書は明確に語る、クライマックスはサタンの帝国の崩壊とメシヤ王国の
完全な設立であることを。それゆえこの時、これは
確信をもっていうことができる、今生きている何百万の人々は
決して死なない、と。“(Golden Age January 4, 1922, P217)
1925: "1925年がやってくる。大きな期待を持ってクリスチャンはこの年を待ち望んでいる。多くのものは確信を持って期待してきた、キリストの体のすべてのメンバーはこの年の間に天的な栄光へと変えられる。"
(Watchtower Jan 1, 1925 P 3)
しかし、1925年は何事もなく過ぎ去り、ものみの塔はその間違いの理由を
自分たちのせいでなく、勝手に想像を膨らませた信者にあるとした。
1926: "ある人々は働きが1925年で終わると予期した、しかし主はそういわれなかった。困難は友人たちが理性を越えるまで想像を膨らませたことである:
そして想像がばらばらに爆発したとき、彼らは何もかも投げ出すようになってしまった。”(Watchtower P232)
しかし、多くの証人たちは失望した。
1931: "地上におけるエホバの忠実な人々に1917,
1918, 1925年(これらは皆予言が外れた年)に関して大きな失望があった、この失望はしばらくの間続いた.. そして彼らはまた日付を固定しないことを学んだ.....。”
(Vindication P338)
1929: ラザフォードの邸宅
エホバの証人のプレジデント Joseph F Rutherfordhは1929年にサンデイエゴに
美しい邸宅を建てた。彼は彼の証人の知り合いにいった、「この家は聖書のヘブル書11章に書いてある士師、王たちの速やかな帰還を目的として建てた」と。
彼はこの大邸宅をBeth Sarim,ヘブル語で「王子たちの家」と名ずけた。
ヘブル書11章に書かれた聖書的な偉人たちが地上に戻り、
ダビデ王の指導の下で、このBeth Sarimの家を拠点として用いて
世界支配を行う、と考えていたのである。
ほとんどのエホバの証人はこのようなほら話に関しては何も知らない。
Beth Sarimの邸宅:ラザフォードは彼が預言した年にアブラハムが実際によみがえって来臨し、この邸宅に住むと信じていた
1925年預言が外れたことに関する失望、失敗に従い、
ものみの塔は、その預言をハルマゲドンの戦いの
タイミングに焦点をあてることにシフトしだした。この戦いは
メシヤの時代を先導するものである。
1940: 1940年の年は、確かに今まででもっとも重大な年である、それは
ハルマゲドンが非常に近いからである。
(Information April 1940, P1)
1941: ハルマゲドンは、確かに近い(Children 1941 P 366)
1942: 今、ハルマゲドンは我々のすぐ直前にある (Watchtower April 1,
1942 P 139)
1946: ハルマゲドンの災害は..今戸口にある(Let God be True 1946
P194)
1966: ハルマゲドンは事実として、確かに非常に近い。
(Watchtower October 15, 1966 P 629)
今見てきたように、26年の間、エホバの証人は自分たちが艱難時代の
入り口に生きていると繰り返し、語られてきた。
そして全ての預言は外れた。
ハルマゲドンの戦いは1925年に起きると預言していた
それから、1960年代の半ばにものみの塔の預言の焦点はまたシフトした。
組織の全ての出版物は、創造以来の人類の生存の6000年の歴史は
1975年の秋に終わるだろうと教え始めた。それは、イエスの統治の始まりとなる7つ目のミレニアムは、この年に始まるからである。
(All Scripture is Inspired of God and
Beneficial 1963 P286 及び Life Everlasting in Freedom of the Sons of God 1966,
P29-30)
1967年の7月にプレジデントであるNathan H. Knorrは
ロスアンジエルスのDodger Fieldで81,000人の証人に対して語り、
“何故我々は1975年を待ち望んでいるのか?”と質問し、
そしてその質問に対してこう答えた。「これは確かに保持されている、1975年の秋までに、ハルマゲドンの戦いが戦われ、神の新しい世界が設立されるからである。」(Los Angeles Herald Examiner July 21, 1969)
1968: ”何故あなたは1975年を待ち望んでいるのか?”
(Watchtower Aug 15, 1968 April 15,
P494)
しかし、1975年も何事もなく、過ぎ、世界が終わることはなかった。
今までの記述で明らかなように、エホバの証人の預言はことごとく外れてきた。
このように預言が外れることに関して彼ら自身はどう語るのか?
“確かに、過去においては、世界の終わりを預言し、特別な日付まで預言する人々がいた。しかし、何も起きなかった。「終わり」は来なかった。彼らは誤った預言に関して有罪である。何故か?何が足りなかったのか?これらの人々に足りなかったものは、神の真理、また神が確かに彼らを用い、導いているとの証拠である。“
(Awake October 8, 1968)
それでは、どのようにして、ものみの塔の指導者は彼らの多くの誤った預言を正当化するのか?信じられないことだが、彼らは自身が間違えたことを認めるので、
彼らは偽預言者にはならない、と語るのである。
“偽預言者は間違いを犯したことを認めない(しかし我々は認めるので偽預言者ではない)”
(Watachtower
November 1972 P644)
また彼らの光は徐々に輝いていくので、多くの変更が許される、とする。
<聖霊を神だとも、人格があるとも認めていない>
彼らは聖霊が人格的存在であることを認めない、
(ものみの塔の組織の視点はそれは、神の活動的な力、電波のようなものと
思われている)
<地獄の罰を否定する>
彼らは失われたものの永遠の刑罰とは存在しなくなることだと教える。
エホバの証人は邪悪なものの刑罰の場所、という文字通りの地獄の存在を否定している。
地獄の刑罰を否定する
<キリストが肉体をもって再臨することを否定する>
彼らはキリストの肉体を伴った再臨を否定する。
<十字架を否定する>
十字架は異教の性的シンボルであると教える。そしてどのような建物でも
人物でも十字架を飾るものは異邦人のようなものであると教える。
彼らは十字架を否定し、十字架の敵となっている
<144000人のみが新生する>
ただ144000人の人々のみが新生し、一般的なエホバの証人は新生
していないとする。
<エホバの名を用いるもののみが救われる>
真の神の名前、エホバを用いるもののみ、その祈りが神により聞かれる。
ただ144000人のみが、天へ行き支配をする、ふさわしい人は、
地上に住む、残りの人類はみな、単純に存在しなくなる。
<自分で聖書を読むと異端教理に入る?>
ものみの塔の主張:
”誰でも聖書を理解したいと望むものは知るべきである、「偉大な神の多様な知恵」はエホバの伝達のチャンネル、忠実な思慮深いしもべを通してのみ知ることができる、ということを。” The watchtower Oct. 1, 1994 P 8
"このように聖書は組織的な本であり、そして組織としてのクリスチャンの会衆に属しており、個人には属していない。たとえ彼らがいかに真摯に自分は聖書を解釈できると信じているとしても。” The watchtower Oct. 1, 1967 P.587
しかし、もしものみの塔が正しいなら:
何故彼らは誤った預言をしたのか?
何故ものみの塔はいうのか、もしあなたがものみの塔なしに聖書を読むなら、
背教に入ると?何故彼らは聖書翻訳を変更しなければならなかったのか?
あなたは”すべてを吟味”するまでこれらのものみの塔の誤りには気がつかない。しかし残念なことにあなたはエホバの証人として、組織が語る学びをするようにしか勧められてはいない。ということは、あなたはものみの塔の誤った預言を
自分自身では本当の意味でチェックすることができないことになる。
逆にあなたには、この組織がいう誤った預言に関する説明をうのみに信じるしか
道が残されていない。さらにあなたは「背教のキリスト教」のどのような文書をも
手にとってはいけない、と指示されている。
このような方法で、ものみの塔の組織が望まないことがあなたの
上に起きないようにと、あなたは真理からは遠く離されている。完全にマインドコントロールされているのである。
”彼らは聖書のみ読んでいれば十分である、ひとりでもしくは家での小さいグループで、という。しかし不思議なことに、このような聖書の読書会を通して、
キリスト教の聖職者たちが語る100年も前の解釈、背教の教理へと戻っていく。”
(The watachtower Apr 15, 1981 )
上記の記述から、ものみの塔の教理は、我々が「自分の目で聖書を読み、
悟るなら」成立しない教里であることがわかる。それは、ものみの塔の恣意的な
テキストなしには成立しないものなのである。
しかし、聖書はこのことに関してどういっているか?
イエスはこういわれた;
ルカ 12:57 また、なぜ自分から進んで(自分自身で)、何が正しいかを判断しないのですか。
主は自分自身で判断すること、真理の判断を人任せ、組織まかせにしないことをすすめたのである。そういう意味ではこのキリストのことばに逆らい、自分の永遠の命がかかる決断を人任せにし、組織任せにしている証人たちはみな愚か者である。たとえ、滅んだとしても弁解の余地はない。
また主はこうもいわれている。
マタイ13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
彼ら証人たちは確かに聖書を読むが、それは、組織のいうテキストをなぞっているだけであり、真の意味では悟らず、わかっていない。キリストが真の神であることをも見ていない。結果、自分の目で真理を見ることも聞くこともさらに悟って真理に立ち返ることもいやされることもない。これは誰の責任でもない、彼らが自分で選んだ、
愚かな悟りのない、真理のない歩みであり、この道へ入ることを選んだのは自分であり、これはまったくの自己責任である。
<エホバの証人の教理に会わせて改ざんされた冒涜訳、新世界訳>
Nathan H Knorrは1942年からものみの塔の代表になった。
彼は世界的なアウトリーチの戦略で組織を広げた。
新世界訳の聖書が発行されたのも彼のリーダーシップの下である。
この翻訳は1950年から1960年の間に6つの巻で発行されたが、
翻訳のすべての受け入れられている法則を無視したものである。
基本的には、この翻訳は、ものみの塔の教理とぶつかるすべての聖書箇所を
書き換えたものとなっている。
エホバの証人はキリストの代替のあがない、という概念を拒否し、
それはアダムの罪への身代金であるという教理を持っている。
エホバの証人はいかにしてこのような非聖書的な教理を保持しているのか?
彼らは教会は何世紀にもわたり、聖書の訳を誤ったものとしていると主張する、
そして彼らは聖書を再翻訳し、彼ら自身の新世界訳という聖書を作った。
エホバの証人は実際には聖書が語っていることに彼らの教理を従わせるというより、
聖書のテキストの方を変え、自分たちの誤った教理に合わせている。
エホバの証人が自分たちの教理に合わない聖書箇所を発見するたびに
改版するので、新世界訳は数多くの版を重ねている。世界には多くのカルトが存在するが、このカルト、ものみの塔の統治体は、自分たちが聖書を解釈する権威を持っていると主張する唯一のカルトである。
新世界訳は一つの点でユニークである: それは一つのグループの教理に合致させるという特別な目的で、編集、改版された意図的、完全な聖書の版を作ろうとしてシステム的に行われた努力であるからである。エホバの証人の団体は、
彼らの信仰や教理が聖書のことばと矛盾することを悟った。それで、聖書の方を自分たちの教理に合わせて改ざんする、という暴挙に出たのである。
聖書的なクリスチャンが明らかにイエスの神性を語る箇所を指摘するとそのたびに
エホバの証人はその箇所を改ざんする。
例として:
新世界訳はギリシャ語のsheol, hades, gehenna,
tartarus を「地獄」とは訳さない。なぜなら、エホバの証人は地獄を信じていないからである。
新世界訳はギリシャ語のstaur(cross)を十字架とは訳さず、"torture
stake"
(刑罰の杭)と訳す。なぜなら、彼らはイエスが十字架につけられたことを信じていないからである。
新世界訳はギリシャ語parousiaを「coming: 来臨」と訳さず、「presence:
存在」と訳す。なぜなら、彼らの教理によれば、キリストは1900年代からすでに来臨して、
天に「存在」していることになっているからである。
コロサイ書1:16の訳において、新世界訳は原文のギリシャ語のテキストには
まったく存在しない「other:他」という単語を挿入する。
これにより、「他のすべてのものは」キリストによって創られたとの視点を与えることができる。実際のギリシャ語のテキストは「すべてのものはキリストによって創造された」と語っているのだが。
これにより、彼らの主張する「キリストも被造物」という教理が正しいかのような
訳となる。
究極の改ざん聖書、新世界訳
<イエスは天使ミカエルであるという>
ものみの塔はイエスは御使い、ミカエルであり、神でないという。
しかし、イエスはミカエルではない。
ヘブル書1:5−8は、イエスと天使との間の明瞭な区分を語る。
また、ユダ9によれば、天使ミカエルは、悪魔より下位であり、
叱責することをしていないが、しかし、イエスはマタイ4:10では、
サタンを叱責している。
彼らはイエスは神でなく、天使ミカエルであるという
<結論>
これらのものみの塔の現実を私たちは聖書的にどう理解すれば良いのだろうか?
#それは全くの異端教である。
ものみの塔の教理は、クリスチャンの救いにとってもっとも大事な部分をそぎ落とし、
削除し、廃棄している。絵に書いたような異端であり、サタンの芸術品である。変形し、大事な部分がみな省かれたカスのような教えを証人たちは、おしいただき、大事に遵守している。まことに愚かな事態である。
#救いに関してもっとも大事な部分が省かれている、したがって、こんな教えを実践する証人たちはみな、例外なく、サタンの働き人としてゲヘナ、地獄へ直行する。
具体的には;
#イエスを信じていない:
聖書はイエスの名を信じるものは救われ、信じないものは、
救われないことを語る。
使徒:4:12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
ヨハネ 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者(信じない者:KJV)は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
さて、この「信じる」ということの意味合いであるが、以下の様にいっている
人は信じていることにはならない。
「イエスが歴史的な人物であることは信じるが、神だとか、奇跡を起こしたとは
信じられない」
このようにいう人は聖書で言う意味のイエスを信じたことにはならないのである。
同じ意味合いでエホバの証人は、「イエスは神でなく、御使いである」という。これは、「ことばは神であった」というみことばを信ぜず、勝手に作り出した、「イエスはミカエルである」という自分の妄想教理を信じているに過ぎない。かくのごとく、
彼らは、聖書のいう「信じる」ことを満たしておらず、条件を満たしておらず、結果として、ヨハネ3:36のいう
「御子(信じない者:KJV)は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とのことばどおり、永遠の命を見ることもなく、最後の審判の日に神の怒りを受けることになる。
彼らは神の遣わしたイエスを信じていない、という点では世の中の未信者と
全く同じであり、最後の審判の日には、未信者が受ける罰やら、報いを彼らも受ける。
#彼らは「福音」を信じていないので救われておらず、結果として
最後の審判の日に神の怒りを受けることになる。
そんな風にいうと、心外に思う証人も多いかもしれないが、以下で説明するように、彼らは聖書で言う「福音を信じる」ことの条件を満たしていない。
1コリ15章は「福音」に関して以下の様に述べる。
1コリント 15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
ここでは、福音の3要素として 以下のことを信じるべきことが書かれている;
1.
キリストが私たちの罪のために死なれたこと
2.
葬られたこと
3.
三日目によみがえられたこと
そして驚くべきことには、ものみの塔の教えはこれら福音の3要素のすべてを否定した教えとなっている。
彼らは「キリストが私たちの罪のために死なれたこと」を信じていない。
正確にいうと、彼らは聖書で言う意味合いでのキリストの死による
「あがない」を信じていない。逆に彼らは、「身代金の支払い」という概念で、
キリストの死によるあがないを矮小化、卑小化している。
彼らの論法はアダムは完全な人であり、イエスの完全な人であった(神ではない)、
そういう意味では両者は同等である。
であるので、イエスの死が行なえたのは、アダムの犯した罪のみへの
限定的な借金の支払い、限定的な罪の許しのみである。
しかし、聖書が語るのは、以下のことばである。
ロマ5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
聖書はひとりの人キリストの死のあがないにより、私たちが犯すそれこそ、
一生に犯すすべての罪をも許され、義と認められることが描かれている。
このような聖書の恵みのことば、キリストの死を卑小化し、矮小化する
愚かな証人たちには当然、罪の許しなど与えられず、死後神の前で有罪となり、
すべての罪を火の池、ゲヘナで償うようになる。愚か者である。
彼らはキリストの死体が3日間葬られたことをも信じていない。
彼らはキリストが墓に葬られたあと、エホバがその体をガスに変え、
それは永久に消え去ったと信じる。
彼らはイエスの復活を認めていない。
復活とは死んだ肉体が生き返ることであるが、彼らはそれを
信じない。逆に「イエスは霊としてよみがえった、なぜなら、“血肉のからだは神の国を相続できません。”と書いてあるからだ。」1コリ15:50という。
繰り返すが、復活とは死んだ肉体がよみがえることであり、霊が生き返ったなどという彼らは聖書的な意味での「復活」は信じていない。
彼らは聖書の復活の記述に関して以下の様な奇妙な解釈を施している:
1.
スの肉体は彼らはキリストが墓に葬られたあと、エホバがその体をガスに変え、それは永久に消え去った。
2.
イエスは3日目に見えない形、霊で、復活した。
3.
その際、エホバがイエスの「偽の体」を物質化した。その体は釘の後まで、ついている精巧なものだったので、弟子たちは実際にイエスは復活したと誤解した。
このように彼らは1コリント15章に描かれた福音信仰の3要素、
イエスが罪のために死んだこと、葬られたこと、復活したこと、これらすべてを否定している。
福音をみごとに否定している以上、彼ら愚かな証人たちは当然神の救いを受けることも、死後罪が許されることもなく、逆に神の裁きの座で有罪となり、罰として当然の結果、ゲヘナ、火の池に入ることになる。まことに愚か者である。
#彼らはみことば改ざんの罪に加担している:
聖書はそのみことばに付け加えたり、引いたりするものの罪を厳しく指摘している。以下のとおりである。
黙示録 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
彼らはこの神のことばに反し、究極の改ざん聖書新世界訳を推進し、神のことばからイエスは「神である」との記述を取り除き、異端教理を広めている。その結果、このことばどおり、「神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」ようになる。
#彼らはサタンの手下どもである
聖書はサタンの手下となる人々に関して以下の様に語っている。
2コリント 11:13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
11:14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
11:15 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。
サタンは、光の御使いに変装し、いかにも正しいような装いで、
キリストは神でない、キリストの肉体の復活はない、などとの異端教理を広げている。その働きの尖兵となり、異端の教えを日本中に広げている証人たちは
神のしもべでなく、サタンの手下であり、「彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」
結論として、ものみの塔に関しての我々の結論は、以下のとおり:
それは
究極のマインドコントロール宗教であり、サタンのみこころを行ない、
すべての証人をして、神のことばへの反抗へ駆り立て、人々に滅びの
福音を伝えさせ、証人自身も誰一人天の御国にはいることのない、
サタンの大勝利、サタンの一人勝ちのような監獄宗教、奴隷宗教である。
マインドコントロールされた証人は、悪魔の教会である一般のキリスト教会からの
印刷物などは禁じられているので、彼らがマインドコントロールから解かれるすべがない。ものみの塔以外の出版物に触れる機会がないので、証人が真理を見る機会は皆無である。
まことに白日夢のような究極のマインドコントロール宗教である。
その上、自分たちがもっとも正しい教会、他はみな滅びる、と教えられおり、
根拠のない自信やプライドがあるので、謙虚になって他の意見を求める証人も皆無である。しかし、彼らには弁解の余地はない。
聖書のことばは明確であり、すべての人に対して、以下のように語られている。
ヨハネ8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
たとえ、それが政治家でも大企業の社長でも、有名なスターでもその
人がイエスを信じないなら、自分の罪が許されることはなく、自分の罪の中で死に、そして最後の審判の日には、自分で自分の罪の罰を火の池で受けることを聖書は語るのである。イエスを普通の歴史の偉人としてしか認めない未信者の人は、
イエスを信じていないので、自分の罪が許されることはない。
同じく、自分の意志でイエスを神であると認めず、天使であるとしか信じない証人も同じく信じていないので、その罪が許されることはないのである。
サタンに惑わされ、改ざん聖書をうのみにし、異端教理を日夜述べ伝え、人生を無駄にし、最後には神のことばに逆らったものとしてサタンと同じ罰を受ける証人は
究極の愚か者である。以上
ものみの塔は、マインドコントロールのカルト宗教