<輪廻、転生>

 

世の中で最近よく聞かれる概念: 輪廻、転生とは、正しいのか?このことを聖書的な視点で考えて見たい。

 

地獄は実際には存在しない、この人生こそ地獄だ。

このように語る懐疑主義者は、地獄の現実性を退けている。

 

彼らは我々が知っている人生はこれ以上悪くならないと考えるかもしれないが、しかし、自分の罪の中で死んだ人にとっては、今の人生の苦しみは、

次の世における苦しみ(地獄の苦しみ)に比べれば天国のようなものである。

 

今の人生はクリスチャンが知っている地獄に近い、また罪びとにとっては、知っている天国に近い。

 

死に関して今日の世界においてもっとも一般的な概念は魂の輪廻、転生である。

しかし、このような概念、輪廻、転生は、今日のクリスチャンの天国、地獄の概念へのもっとも大きな敵である。

 

 

ハリウッドスターたとえば、Shirley Maclaineは、輪廻という概念を大きく普及させた。TVショーや、映画において、この輪廻、転生を参照することは増えており、そしてスーパーマーケットのタブロイド版は、センセーショナルな輪廻、転生を”証明する”物語の記事を毎週載せる。輪廻とは何なのか、そしてクリスチャンはそれに対してどう反応すべきなのか?

 

Shirley Maclaine

 

 

オーソドックスなヒンズー教の輪廻の教えが語ることは人が死んだ後、その魂は天国や地獄へ行くわけではない、ということである。その代わりに人の魂は、この地上の他の種類の肉体へ入っていく、ということである。この他の肉体とは虫、魚、動物、もしくは人の肉体である。これが、何故ヒンズー教徒が菜食主義を実践し、彼らの収穫を滅ぼす害虫さえ殺さないその理由なのである。

 

進化や進歩という西欧的な概念を取り入れ、現在彼らは輪廻を経て魂は進歩的に進化し存在をスケールアップしていくと教えます。このように人はひとたび人間のステージに到達したなら虫や動物の肉体に戻ることはないということなのである。あなたのカルマしだいで、あなたは、他の人の肉体に生まれ変わるか、もしくはワンネスの中に吸収されるという。

 

ヒンズー教の教理の中には、聖書で言われている報いや裁きを下す人格的な神は存在しない。その代わりに非人格的な原則であるカルマがあなたがこの人生でなした善や悪に従い、あなたが金持ちに生まれるか貧乏に生まれるか、健康に生まれるか障害を持って生まれるか、主人かもしくは奴隷に生まれるかを決定する。

 

カルマは私たちの現世における苦しみもしくは繁栄は、前世において私たちがなした善や悪のゆえであると教える。もしあなたが貧民街で、貧しく体が悪い赤ん坊として生まれ、そしてひどい肉体や精神の苦しみを受けるとしたら、それはあなたはただ、自分にふさわしいものを受けているのである。

 

あなたは過去の歴史において、いくつかの邪悪なことを行なったに違いなく、そのような悪いカルマをもっているのだ。しかしあなたが富んだ家に生まれ、あなたの人生の間ずっと健康と富を持つなら、それはあなたもまたただあなたにふさわしいものを受けているのだ。あなたは過去生において、そのような良いカルマを持つためのいくつかの大変良いことを行なったに違いない。

輪廻転生

 

<輪廻に関する論議>

 

輪廻を信じる人々は、その有効性の証拠として以下を述べる:

 

輪廻の前世の記憶がこれを証明するという。

デジャブ(既視感)とともに前世の記憶も自然発生的であり、催眠状態であり、

心霊的である。このような議論は間違えやすい。辞書はデジャブ(既視感)を「実際は初めて経験した何かのことがらを既に経験したと幻想すること」と定義している。デジャブは、あなたの人生において建てられた家や都市や人物に関して「感じられる」

 

自然発生的な前世の記憶ということは、科学的な状態の中では決して起きない:それゆえそれは、証拠としては価値がない。催眠状態の前世の記憶とは非常に頼りないものである。(例: Bridey Murphy)

 

そして催眠状態での前世の記憶には嘘話の問題がある。いったいどのようにして催眠術で語られたあなたの過去生が正しいと知ることができるのか?

 

さらに何故前世に関して登場する人々はみな有名人ばかりなのか?

そしてさらに全ての前世の記憶がみな、ヒンズーの教理を語るのか?

前世の記憶に関して数百のケースを調べたが、その中には一つもクリスチャンの例は見出せなかった。

 

さらに論理的にいうなら、現在世界には自分はイエスの生まれ変わり、仏陀の生まれ変わり、プレスリーの生まれ変わりと主張する人々が複数存在するが、

しかし、その際ひとりが実際に生まれ変わりならそれ以外の他の人はみなうそつきとは言えないか?もしくは、全てみなうそつきといえるかもしれない。

 

聖書は肉体の生まれ変わりなどは主張しない。人によってはマタイ11:14を引用してバプテスマのヨハネは、エリヤの生まれ変わりであると言う人がいる。しかし、聖書は、ルカ1:17彼が「エリヤの霊と力」で来ることを語る。決して肉体が生まれ変わったわけでない。さらに、エリヤは聖書的には死んでおらず、馬車で天に帰ったのだから(2王2:11)輪廻して肉体をもって生まれ変わることはない。

 

自分はプレスリーの生まれ変りだと主張する人がたくさんいる

 

<結論>

 

最近、輪廻、転生、ということばがよく語られている。

これは、ヒンズー教徒や、また仏教の中でもいわれていることばである。

しかし、この輪廻、転生の教えは聖書の視点からいうなら、

聖書の言う死後の世界を覆い隠し、誤った誤解を植えつけるサタンの

惑わしである。輪廻、転生には死後人が神の前にでて

裁判や裁きに会うことは語られていない。しかし、

聖書は全ての人が死後、神の前に出て、裁判の座に着くことを語る。

 

聖書は人の死後の運命に関して以下の様に全ての人が死後神の前にでて

自分の生前の行いに基づいて、裁判を受けることをかたる。

 

ヘブル 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

 

そしてキリストを信じることをせず、永遠の命を得ない全ての人がその

裁判の後、火の池に投げ込まれることをも語る。以下のとおりである。

 

黙示録 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

 

 20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

そして我々が自分の罪のためにこのような罰を受けないため、キリストは

身代わりとして十字架の死をとげたことを語る。今、この方に頼り、信ずるものは自分の罪のゆえの罰をうけない。