<エホバの証人>

 

ここでは、エホバの証人の教えの誤りを見ていきたい。

家々を回って聖書の話を伝えるエホバの証人、ものみの塔は、

熱心ではあるが、聖書的には異端の教えである。

 

異端の問題は何か、というともっとも大きな問題はこれである。

それは、この教えが本物の教えと異なるがゆえに信者は

聖書に約束されている天の御国には入れないということである。

たとえていえば、本物の1万円のお札と偽のお札の

差ということであろうか。

 

本物の一万円の札も偽札も見た目は同じである。

しかし、いざ自動販売機に入れると差が出てくる。

本物のお札では買い物ができるが、偽札ははじき返され、

買い物が行えない。

 

同じ意味合いで異端の教えも聖書とかキリストとかを語るので

普通のキリスト教と同じように思えるが、いざ死後、天の御国に入るとき困る。

この教えを信じた人々は聖書でいう、正しい救いを受け入れていないので、

天国へ入らず、不信者と同じ罰に入り、罪のあがないなど受けることができないのである。

 

 

以下は元エホバの証人の長老による、

エホバの証人への伝道に関するアドバイス。彼らに、

イエス=天使ミカエルについて考えさせることはこの団体に

関して再考させるきっかけとなることが書かれている。

 

David A Read 元エホバの証人長老>

 

クリスチャンとエホバの証人が出会うとき、典型的には、

神性に関する議論になる。そうなる理由は2つある。

一つは、神性はものみの塔の神学が正統的なキリスト教からもっとも

劇的に異なっている領域だからである。

 

父、子、聖霊すなわち1人の神、3人の人格という三位一体の概念と

対照的に、ものみの党は、父である神のみがエホバ、唯一の真の神であると

信じるよう教えてきた。すなわち、イエスキリストは、第一天使であるミカエルであり最初に神により創造された天使的存在であり; 聖霊は神でなく人格でもない、そうでなく、むしろ神の非人格的な活動の力であるとする。

 

二番目は、神性という題目は、ものみの塔にとってもクリスチャンにとっても、

たびたび対立で焦点化されていた、自分の立場を守り、

相手の視点を攻撃するのに、確信をもち、よく用意した点である。

この話し合いは不毛に終わることが多い。

 

ものみの塔に証しするには、彼らが自分の教理を再考する

共通のグラウンドを探すべきである。良い最初のステップは、

このような質問を考えることである。

 

 

「イエスキリストは本当に天使なのですか?」

エホバの証人にとり、このような彼にとり大事な信仰が、核心の再考となることは彼にとり、驚きである。

 

 

ものみの塔協会はイエスキリストは、みことばから、第一天使ミカエルであると語っているからである。(ものみの塔 1979年2月15日号)

 

この点をエホバの証人に指摘し、イエスがミカエルであると語っている聖書箇所はどこか問いて見るべきである。そのような聖書箇所はない。

エホバの証人の聖書、新世界訳は、以下の5箇所でミカエルに言及している。

 

ダニエル10:13

ダニエル10:21

ダニエル12:1

ユダ9

黙示録12:7

 

エホバの証人にこれらの箇所のどれがイエスがミカエルであると語っているのか、とたずねよ。

 

イエスキリストは、主の主また王の王である(黙示録17:14)

 

そしてキリストは すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。(エペソ1:21)

 

ミカエルに関しては、 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」ユダ1:9と書かれています。

 

ミカエルは悪魔から侮辱的なことばをいわれてもいいかえさなかった。

しかし、それと異なりイエスキリストは、サタンに自由に命じて彼の権威を示した。マタイ4:10「イエスは言われた。引き下がれ、サタン

イエスがミカエルであると語るとき、ものみの塔は、以下のことばを

用いる。

 

1テサロニケ4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

しかし、この箇所にはまず、ミカエルという天使の名前が載っていない。さらに、この箇所が語っているのは、単に御使いのかしらの声のうちに主イエスキリストが下ってくる、と語っているのに過ぎず、どこにもイエスがミカエルである、天使であるとは書いていない。

 

エホバの証人に指摘すべきである、これらのどの聖書箇所も、証拠のテキストとしては使用できないこと、どれも、イエスキリストが天使の長であるミカエルであると、の根拠にならない、否ほんの少しも近い説明にさえなりえない、ことを語る。

 

キリストがミカエルであるとする聖書箇所は存在しない

 

 

聖書はこのような、彼らの主張とは明確に反対のことを語る:

名前として神の子は天使より優れている。ヘブル書一章全体はこのテーマにささげられている。証人にヘブル書1章を声に出して読んでもらい、そして天使と神の子との鋭いコントラストを語るのがよい。

 

ヘブル1:5 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

 

 1:6 さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め(ギリシャ語:proskuneo)。」

 

エホバの証人に、天使は執拗に礼拝を拒んだことを思い出させること。

 

黙示録 22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。

 

 22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝み(ギリシャ語:proskuneo)なさい。」)

 

しかし、父なる神の子に関する命令は、「神の御使いはみな、彼を拝め。」へブル1:6である。

 

この箇所は新世界訳では、1970年代以来、「拝め」の代わりに

「敬意を払え」と変えられている。これは、彼らの聖書からキリストの神性にかかわるすべての表現を削除しようとする彼らのキャンペーンの一環である。しかし、同じギリシャ語proskuneoが使われているのに、キリストに関してだけは礼拝、拝むとは訳さず、わざわざ「敬意を払え」と訳を変えるのは意図的である。

 

このような説明を行うことにより、我々はエホバの証人に対して、

イエスキリストは天使ではない、と確信させる良い基礎を敷くことができる、

そして証人は、それではイエスとはいったい誰なのか?という疑問に直面するようになる。

 

そしてあなたは、ものみの塔協会が、彼らを誤導していたこと、さらにそのためにみことばを意図的に並べ替え、変更さえしていたことを示すことができる。これにより、伝道に関する良い位置を得ることができる。

 

新世界訳は意図的な改ざん聖書