エホバの証人2

 

<エホバの証人の基本的教理>

 

エホバの証人の基本データ:

 

公式名 Watchtower Bible and Tract Society of New York, Inc.

International Bible Students Assosication,Watachtower Bible and Tract Society of Pennsylvania

 

創設者 Charles Taze Russell (1852-1916)

 

現在のリーダー Milton G. Henschel (1918年生まれ

 

世界および米国のヘッドクアーター Bethel, Brooklyn, New York

 

Active Participants(宣伝者):1999年、世界では590万人、234カ国、

 

主要出版物 

定期刊行物 

ものみの塔誌:1650万部、120言語、

目覚めよ!::1600万部、78言語

聖書翻訳: The New _World Translation of the Holy Scriptures (NWT)1984

       (新世界訳)

 

<<信仰教理>>

 

以下、エホバの証人の各教理とそれに関して聖書が実際に語っている事柄との違いを列挙する。

エホバの証人は、聖書と異なる教理を語る異端キリスト教であり、

この教えを真に受け、信じ、行動するものは、聖書の約束する

天の御国(天国)へ入ることはできない。逆に神の教えと

異なる教えを撒き散らすサタンの使いとして、サタンと同じ

罰を火の池の中で受けるようになるだろう。

 

<聖書に関して> 

 

エホバの証人の立場:

聖書は神により霊感されており、誤りのない神のことばであると考えられている。

新世界訳は、Watchtower Bible and Tract Societyにより、発行された、

英語聖書訳である。

翻訳委員会のメンバーは匿名とされている。

エホバの証人はこれが最良の翻訳であるとする、なぜなら、

翻訳者が聖書の原語のことばに大変近いからである、とする。

 

聖書の立場:

聖書は確かに霊感された、誤りのない神のことばである。

(2テモテ3:16、17; 2ペテロ 1:20,21)

 

しかしながら、新世界訳は、ものみの塔の教理を

反映させており、特にイエスキリストの神性と三位一体の

歴史的な教理に関して、バイアス(偏見)のかかった訳となっている。

 

たとえば、ヨハネ1章1節の訳は新世界訳では、

“”word was a godとなっているが、ほぼ全ての他の平均的な

英語訳は、and the Word was Godとなっている。

 

すなわち、他の訳がキリストに関して、Godと訳し、真の神と語っているのに対し、新世界訳のみ、a godとして、小文字を使用しており、ことばであるキリストは、真の神でない、神々のひとつに過ぎないと思わせる訳となっている。

 

<エホバは神である>

 

エホバの証人の立場:

真の神は名のない神ではない。

彼の名前はエホバである。(申命記6:4、詩篇83:18)

彼の原則的な属性は愛、知恵、裁き、

そして力である。神は霊的な存在、不可視であり、永遠であるが、

霊的な体を持っており、偏在ではない(Insight Vol.1, pp969-970

歴史的なキリスト教の教理である三位一体は否定する。

“三位一体の教理は、聖書に見出せない、かつこの教理は聖書の教えることと調和しない。この教えは、真の神をゆがめさせる。(Reasoning P424)

 

聖書の立場

聖書は神が唯一であることを語る。神は聖書の中でいくつかの名前で呼ばれている。クリスチャンは三位一体ということばが聖書に出てこないことは認めている。にもかかわらずこの教理は明確に聖書が教えている教理でもある。

聖書はひとりの神が父、子、聖霊の3人の人格として存在することを語る。

(マタイ28:19、1コリント8:6、12:4−6、2コリント1:21,22、13:14、1ペテロ1:2参照)

 

<イエス・キリストは、エホバが最初に創造した存在>

 

エホバの証人の立場

イエスには3期の存在があった。彼の人間としての存在の前には、彼は「

彼の唯一の子」と呼ばれていた。それはエホバが直接彼を創造したからである。

「全ての創造の始めに初子」として、イエスは他の全ての創造のために神に用いられた。

(コロサイ1:15、黙示録3:14)

エホバが彼を存在させるようになった後、

ことば(イエス)は、地上において人となる前の

時間を天において神とともに費やした。(Knowledge P39)

ヨハネ1:1は語る、ことば(人間になる前のイエス)は始めに神とともにいた、と。であるので、ことばは、天と地とが創造されたとき、エホバとともにいた。

(Knowledge P39),

彼はまた、人格的なミカエル(第一天使)という名前を持っていた。(Insight Vol. 2 P394)

 

イエスの人生の2番目のステージは、この地上におけるものである。

彼は、神が彼の命を天から、信仰あるユダヤの処女

マリヤへと移すことに喜んで従った。(Knowledge P40)

彼は洗礼を受けメシヤとなり、彼は苦しめる杭の上で命を失い、

霊的によみがえった。

 

“聖書の報告するイエスの死を通して、

彼は今生きている。彼は力ある治める王である。そして非常に速やかに

彼は我々の問題ある地への統治力を現す。(Knowledge P41)

 

聖書の立場:

聖書は、イエスは創造されたとは語らず、そうでなく、永遠の初めから神であること、父と等しい方であることを語る。彼は地上に人類に神の性質と性格を現すために、体の形を持って来られた。彼は今、天で父とともに治めておられる。時代を終わらせ、全ての人を裁くために、ある日戻ってこられる。エホバの証人の新世界訳のヨハネ1:1、コロサイ1:15、黙示録

3:14の翻訳は、イエスの神性に関して、バイアス(偏見)がかかっている。

イエスが天使ミカエルと同一であるとする聖書的根拠はない。

キリストは神である

 

<聖霊―神の活動的な力>

 

エホバの証人の立場:

聖霊の人格と神性は、否定される。

聖霊は新世界訳においては、大文字になっていない。“この視点において、

聖霊は神の活動的な力であると結論ずけることは論理的である。

これは、人格でなく、神自身から生じ、神の聖なる意思を行なう神の強力な力である。“(Reasoning P381)

 

聖書の立場:

聖霊の人格に関しては数多くの新約聖書の箇所に証拠がある。(ルカ12:12、ヨハネ15:26、使徒5:3−10、13:2−4、1コリント12:11、 エペソ4:30、ヘブル3:7)

 

彼の神性は、聖書に啓示された彼の神的な属性に現されている。

聖霊は罪の失われたことを確信させ、改心のとき、信者に内住し、彼が

クリスチャン生活を送るよう、力を与える。

 

<人類の罪は死をもたらす>

 

エホバの証人の立場:

神は人を彼自身のかたちに創られた、

しかし、アダムもエバも意志をもって、故意に神に従わなかった。

“我々の最初の両親が、善悪を知る知識の木の実を食べた日に

彼らは神により宣告を下され、彼らの位置から死んだ。

(Knowledge P58) 霊、もしくは命の力、我々が生まれたとき、神が与えたものは、死のとき人からはなれた。死においては人には何の意識もない。

死者はどこへ行くのか? シエオル、人類の共通の墓地である。

我々の愛する死者は、何も意識することができない。彼らは苦しまない、

彼らは、我々にどのような方法でも影響を与えない。

Knowledge P83

 

聖書の立場:

アダム、エバの罪は確かに世界に邪悪と死をもたらした。

これにより、我々は霊的に死に、神からはなれた。

しかしながら、死において、キリストの信者は、復活を待つ間神との

意識ある関係を維持する。(マタイ22:32、ルカ16:22,23;

23:43, ヨハネ11:26、2コリント5:8、12:2−4、ピリピ1;23,24、1テサロニケ4:14、5:10、2ペテロ2:9)

地獄は実際の存在である

 

 

<イエスは身代金の犠牲をささげた>

 

エホバの証人の立場:

アダムの罪のゆえに、彼が失ったものを回復するためにあがないが行われた。

“完全な人間の命をもった人間のみがアダムが失ったものと等しいものを提供できる。アダム以降、地上に生まれた完全な人間は、イエスキリストである。

(Knowledge P65)

ローマの支配者であるポンテオピラトは、苦しみの杭の上での死を宣告した。

彼は木の棒に釘づけられ、その上につるされた。このようにその日は西暦33年ニサンの月の14日である。そこでイエスは多くの人の代わりの身代わりとして自分の命を与えた。(Knowledge P66) 彼は3日の間、死に眠った、その後

神であるエホバは、彼を力ある霊の存在として、命によみがえらせた。

(Knowledge P68)

 

聖書の立場:

イエスは単に完全な人間ではない、それ以上のもの、神が受肉されたものである。(コロサイ2:9参照)このように彼のローマの十字架の死は、人類の罪への神ご自身の自己犠牲である(1コリント1:17−24、2:2、15:3,4)彼は死から単に霊的にというより肉体的によみがえった。(ルカ24:14−39、ヨハネ2:19−21、20:26−29、1コリント15:18)

 

 

<救いー信仰と従順>

 

エホバの証人の立場:

“それゆえ、私たちは神やキリストにより示された愛への喜びを表し、イエスの身代わりの死への信仰を働かせようではないか。

救いへの要求は、信仰に加えて、浸礼、ものみの塔への

能動的なつながり、義の行ない、エホバへの絶対的な忠実である。

救いへの確信はない、復活への望みのみがある。上記要求への

生活を送ることを失敗した人、ものみの塔へ従わない人は、

何の救いへの望みもない。

 

聖書の立場:

救いはイエスキリストにある「信仰による恵み」のみによる。

どれほどの量の行ないも、どのような組織の会員になることも救いを保障しない。それは完全にキリストにある信仰を通してである。(ローマ4:4,5、エペソ2:8,9、テトス3:5)良い行いはすでに受けた救いへの自然な反応であり、救いの条件ではない。

(エペソ2:10)救いはキリストを主であり、救い主であると受け入れている人には永遠に保障されている。(ヨハネ1:12、5:24、1ヨハネ5:13)

 

 

<2種類の救われた人々>

 

エホバの証人の立場:

油注がれた階級として知られる、わずか144,000人の忠実な選ばれたエホバの証人が死ぬときイエスとともに治めるために天に行く。西暦33年以降生まれたものがその一部となれる(黙示録14:1−3によると)。ほとんどのエホバの証人は、「他の羊」もしくは「大群衆」である。彼らは天に行かないが、しかし、ハルマゲドンと千年王国以降、地上のパラダイスに永遠に住む。(ヨハネ10:16、黙示録7:9)

 

聖書の立場:

ものみの塔の教理である2種類の救われた人の教理とは

聖書の注意深い学びからは支持されない。

聖書は、2種類の救われた人々の区分などには言及していない。

(マタイ5:22、ピリピ3:20参照)

 

黙示録7章、14章においては、どちらの144,000人の人々も

“偉大な群集”“群集”とも天の御座の前にいる。

全ての新生したクリスチャンは、天において永遠に住む。

(ヨハネ3:16、14:3)

 

<最後の審判と地上のパラダイス>

 

エホバの証人の立場:

千年王国以降、サタンと彼の同盟は、

破壊される。忠実なエホバの証人は、地上の完全なパラダイスで、永遠の命を受け継ぐ、エホバとその律法に従わなかった人々は、サタンとその使いとともに存在から滅ぼされる。これが第2の死である。

地獄とは墓場であり、永遠の罰を与える場所ではない。

永遠の地獄の教理は、非聖書的であり、

反理性的であり、神の愛と矛盾しており、

不正であるとみなされる。

 

聖書の立場:

全ての人々は神による最後の審判に直面する。

永遠の地獄の教理は、いくつもの聖書テキストと

イエスキリスト自身の教えに基づいている。

彼は、救われた義なる人々は、

天において永遠の命を持ち、失われた邪悪な

人々は、地獄において永遠の罰を受けると教えた。

(マタイ18:8,9、25:41−46.マルコ9;43、2テサロニケ1:9参照)

 

 

 

<結論>

 

結論として我々はものみの塔をどう考えればよいのだろうか?

以下のことばが彼らの実態をあらわすみことばだと理解できる。

 

出エジプト20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 

 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 

ここで神は真の神である方以外のなにをも「神」としてはならないこと、

それに仕えてはいけないことを命じている。ものみの塔の実態はこのことばに

反して、間違えのある統治体を偶像とし、神のことばの上におき、その教えをみことばに優先していることにある、と理解できる。

 

その結果、イエスは天使だとか、聖霊はただの動力で人格はないなどの聖書とかけ離れた教えを尊重するようになっている。

彼らは「自分たちは偶像崇拝などしていない」というだろうが、しかし、

神のことばより、とある自称預言者、すなわち統治体を高く挙げ、聖書と異なる

教えを実践すること、これを神の前にも人の前にも偶像崇拝、と呼ぶのである。

そして神はものみの塔の信者を偶像に従うやからとみなしている。

その結果、彼らは偶像崇拝者が受ける災い、報いを今受けている。