<無神論>

 

無神論者とは神が存在していないと思っている人のことです。

神が存在しているか、存在していないかと聞かれれば「存在していない」と

思っている人ということでしょうか。

さて自分が、そう思っていることと、実際の世界は違います。

厳密な意味で「無神論者」となることは難しいことです。

それは、神が存在しない、と証明することが難しいからです。

 

何をいっているのか、例をあげて説明しましょう。

仮に「中国には金(ゴールド)が存在しない」と主張する人がいるとします。

そのこと、中国に金が存在しない、と自分の意見を述べるだけなら、

簡単ですが、しかし、そのこと、中国に金が存在しない、と実際に証明すること、

これは難しいことなのです。なぜなら、金が存在しないことを確認、証明するためには、

広い中国のあらゆる場所に行き、岩といわず川といわず、グラウンドといわず、店へ

行きそして耳にリングをかけている人がいれば、そのリングが金でないか確認し、

または歯に詰め物をしている人がいれば、それが金でないか、全て確認しなければならないからです。

 

 

広い中国のあらゆる場所、あらゆる店、あらゆる人を確認し終わって初めて

金が存在しないと証明できるのです。

 

同じ意味合いで神が存在しない、と語るのはかまいませんが、それを証明することは難しい、否、それは不可能だ、ということを知りましょう。

神が存在しない、ということを本当に証明しようとするなら、私たちは、

地球上のあらゆる場所を探さなければなりません。世界中のあらゆる大都会を神が存在していないか、確認し、あらゆる高い山、また海の底までも確認しなければなりません。否それどころか、神は地球に存在しなくても月にいるかもしれないので、

月に、そして他の惑星、銀河系でない他の宇宙に存在しているかもしれないので、

他の宇宙もさがさなければならないのです。

金が中国に存在しないことの証明は難しい

 

 

そしてそのように行うことは今の人間には実質不可能です。ですので、厳密な意味で、

神が存在しないと証明できた人など今まで、一人もいないのです。

ただ、「自分の限られた知識の中で考えるなら神は存在しないと思う」と個人的な意見を述べているのに過ぎないのです。それは個人の意見であり、思い込みであり、

そこにはなんらの説得力も、客観的な事実もありません。

 

 

そのような論理に立って主張する人は正確には無神論者というより、不可知論者と呼べます。神が存在するかどうか知らない人、不可知論者という意味合いになります。もしくは、神を無視することを公言する人、という意味合いでしょうか。

聖書はそのような無視は意図的なものであることを語ります。

 

 

詩篇10:4 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。

 

ですので、神はいない、と公言する人は実は神を真剣に求め、真理を求めて、結果

それを見出せなかった、ということではないのです。そうではなく、神を探そうとしないのです。ある人が無神論者が神を見出せないのは、泥棒が警官に会わないのと同じ理由だ、と語ったそうですが、至言です。

 

泥棒は自分に都合の悪い警官のいる場所や時間を避けて行動しているので、

結果として警官に会わないのです。無神論者も同じです。彼は自分に神の存在を

納得させるような理論や本や人を意識的に避けて歩いているので、決して神を見出すことはないでしょう。彼は無意識に心の中で知っているのです。もし、彼が神を認めるようになれば、自分が神に対して責任を負わなければならないことを。そしてそれは

彼にとって望ましいことではないのです。

 

イタリアの独裁者であるムッソリーニは無神論者であり、彼はかつて尖塔の上に立ち、叫びました。「神よ、もしお前がここに存在するなら、私を打って殺せ」

神がすぐ彼の独裁を倒さなかったので、彼は神は存在しない、と結論ずけました。

しかし、彼のこの神への宣言は後に答えられ、彼ムッソリーニはイタリアが戦争に敗北した後、殺され、吊るされました。神は事実存在しており、彼のことばどおり、望みどおり彼を打ち、無神論者である彼の傲慢なことばに報いたのです。

 

 泥棒が警官に会わないように無神論者は神を見出さない