<<キリスト教VS仏教:
私たちはどちらを信じるべきか?>>
本日は「キリスト教VS仏教 」としてこの2つの教えを比較してみたいと
思います。
それぞれの教えに関して、いくつかの点を挙げて、比較してみました。
以下その概要と、詳細、結論を書きました。
<<概要>>
1. 経典の歴史的信憑性:
キリスト教と仏教の経典、そこには歴史的信憑性があるのか?
それは、単なる創作物語か?それとも実際に起きた歴史的事実か?
2.経典の教えの一貫性:
キリスト教と仏教の経典、その教えの一貫性に関してはどうか?
同じ宗教の経典内で教理や教えの矛盾はないか?
3. 経典の忠実性:
キリスト教と仏教の経典、その経典は忠実に
教祖の教えを継いでいるのか?それとも途中で、
書きかえられたり、別の教えに変わっていないか?
4. 科学と矛盾していないか:
キリスト教と仏教の経典、それは、現在の科学と矛盾していないか?
現代の我々が信じるに足る内容か?
5. 未来への予言:
キリスト教と仏教の経典、そこには、人知を超えた未来への予言、およびその
正確な成就があるのか?
6. 超自然の奇跡:
キリスト教と仏教の経典、そこには奇跡が含まれているか?
7. 宇宙の真理を解き明かしているのか?:
キリスト教と仏教の経典、それは、この私たちが
住む宇宙の永遠の変わることのない真理を解き明かしているのか?
それとも単なる著者の思いつき、その時代にしか通用しなかった古い、誤った教えなのか?
8. 我々に死後の世界を間違いなく解き明かしているか?
キリスト教と仏教の経典、それは、私たちの未来の死後の世界を
正しく間違いなく解き明かしているのか?それともあやふやな
不確実な憶測を並べているのに過ぎないのか?
<<詳細>>
上記概要に関してここでは、個々に詳細に検討したいと思う。
1. 経典の歴史的信憑性:
”キリスト教と仏教の経典、そこには歴史的信憑性があるのか?
それは、単なる創作物語か?それとも実際に起きた歴史的事実か?”
それをそれぞれ見ていきたい。
(キリスト教)
キリスト教の経典である、旧約聖書、新約聖書の特徴は、
そこに記載されている出来事の歴史的な信憑性にある。すなわち、
聖書に書かれている、出来事はそれがキリスト教にとり、益であろうと不利益であろうと、
そんなことは関係なしに、歴史的に実際に起きたことのみ聖書には記載されている。
別の言い方をすると、聖書はその歴史的信憑性に
こだわる書である。聖書は分厚い書であるが、その中には、
空想やら、想像を書いた書などは、ない。どれも歴史的に
裏ずけのある事実、もしくは未来への予言(しかもそれは成就する)
が書かれている書なのである、 たとえ話も書かれているが、それはたとえとして
明記されている文章である。あいまいな文章はなく、事実の裏ずけのない記述はない。
実はかつて聖書の歴史的記述が学者により、疑われていた時期もあったが、19世紀以降、考古学が発展し、多くの聖書ゆかりの遺跡が発掘された。そして発掘が
行われるたびに聖書の記述の正確さが証明されてきたのである。
この件に関して、不世出の天才といわれた考古学者W.F. オルブライトは、聖書にかかわる多くの考古学発掘に立ち会った上で、こう述べています。
「理性的な信仰を妨げえるようなものは何ひとつ見出されず、個々の神学上の
説を誤りと断定するものもまったく発見されなかった。聖書の言語、その民族の
生活と慣習、その歴史とその倫理的・宗教的な表象はすべて考古学上の
発見によって、数倍も明確にされている」また、「聖書の中で問題となっている大きな点はみな全部歴史的事実であることが証明されている」
と語っています。
20世紀最大の考古学発見、死海文書:この発見を通して聖書は紀元前より現在まで、何らの
記載の変更なく、保存されていたことが判明した。
(仏教)
それに反して仏教の経典は、その経典の内容には、思想的に意味があり、
教理的に意味があるのであろうが、歴史的信憑性に関しては、
ほとんど考慮されていないように思える。もっとはっきりいえば、その記述に歴史的
信憑性のない仏典が多い。
たとえば、経典の中の経典といわれる法華経に関して考えてみよう。
この経典を読んで、この書に書かれているできごとをリアルな歴史のできごとと
とらえることは難しい。というより、荒唐無稽なほら話という人の声が多い。
たとえば、法華経 地涌の菩薩の記述では、以下の様に書かれています。
「仏が、これを説かれたとき、娑婆世界の三千大千の国土は、大地がすべて震動し裂けて、その中から無量千万億の悟りを求める修行者と大乘を求める修行者が、同時に涌出した。この諸々の悟りを求める修行者は身体が皆金色で、仏のみが備えている三十二のすぐれた身体的特徴と無量の光明があった。以前より全てこの娑婆世界の下、虚空の中に存在し住んでいた。この諸々の悟りを求める修行者は、釈迦族の聖者の如来が説かれた音声を聞いて、下から出発して来た。一人一人の菩薩は皆、それぞれ大衆の指導者であって、各々、六万のガンジス河の砂の数に等しい従者を率いていた。」とのことです。
「無量千万億の悟りを求める修行者」とは大変な数ですが、しかし、実際に
こんな数の修行者が歴史的事実として存在していたのか?その歴史的根拠はあるのか?この記述が歴史的なものであり、実際に現実に起こった事実であると考古学的な発見をもって証明できる人がひとりでもいるでしょうか?残念ながら、仏教界広しとはいえども、そんな人にはいまだ出会ったことがありません。また、そのような「証明」も聞いたことがありません。結論としては、法華経の記述は壮大な話であるが、ただの壮大な話、悪くいえばほら話、これらは歴史的な事実とはみなされない、ということになります。
地涌の菩薩:それは歴史的な事実か?
(結論)
ここでの結論はとりあえず、聖書の記述は、
歴史的な事実を書いてある。また、その事実が実際に起きたことであるとの歴史的な信憑性は多くの考古学発見により証明されている。しかし、
仏典に関して、たとえば、法華経などは、むやみやたらに壮大な数や大げさな
表現を用いているが、その記述されているできごとが歴史的に起きたリアルな事実であることはまったく証明できていない。
また、仏教徒自身の中でもこの記述が歴史的事実であるとまじめに考えている人もほとんどいないようである。逆にこれらの大げさな数字、記載はただの比喩、表現の一環と思っている人の方が多いようである。しかし、どれほど壮大な話でも、感動的な話しでもただの創作話、小説、物語を本気にしてどうなるのか?この経典が間違っていたなら、誰が責任をとってくれるのか?
したがって、その経典が歴史的な事実に基づいているか、架空の物語かどうか、というこの一点の比較においてはキリスト教の経典にポイントがある。
2.経典の教えの一貫性:
キリスト教と仏教の経典、その教えの一貫性はどうか?
同じ宗教の経典内で矛盾していないか?
宗教の中での教え、教義の一貫性は大事である。
たとえば、私たちが学校の数学の教科書の問題を解くとして、その問題の初めでは、X=1と定義してあるのに次の行で、突然、X=2と別の数字の定義変更されては困る。
それでは、問題が解けない。同じ意味合いで同じ宗教の経典内で、お互い、矛盾した教理や、教えが語られているのは困る。あの経典でいうことと別の経典でいわれていることが異なっていては何が正しいのかわからないのである。それでは、その宗教を通して、人生の真理の探求どころではないのである。
(キリスト教)
キリスト教の経典である、聖書の中では教理、内容に矛盾がなく、
一貫性が保たれている。このことをもう少し詳しく解説すると、まずキリスト教の経典とは何か、というと、キリスト教の経典はたった一冊、聖書のみである。聖書自身がこう書いている。
2テモテ3:16 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
ここに書かれているように、聖書こそは世界に数ある本の中で、唯一神により、霊感されている、いわば、神が真の著者であると、明言されている本なので、この本は、教会の中でも特別な本である。キリスト教会にも多くの本があるが、聖書以外の本に関しては、
神が霊感されたとはかたられていない。したがってそれらの本には、間違いも誤記もある、たとえ、それが
ローマ法王によって書かれた本でもマザーテレサによって書かれた本であっても。
有名な神学者や、小説家によって書かれたものでも。それらは、神によって
認められた経典ではなく、ただの個人の意見であり、そこには、誤りやすい人のことばである以上、
誤りがあって当然である。
繰り返すが、キリスト教で唯一神により認められた経典は聖書であり、
この本以外に経典はない。そしてこの一冊の本、聖書の中では、教理も教えも
内容も矛盾してはいない。一貫性がある。
聖書は細かくは66の小さな本からなる1冊の本である。
それぞれの本は40人以上の著者によって、書かれ、その記述の年代も1600年もの間にわたる、長い歴史の中で多くの人によって書かれた本である。
しかし、そうであるにもかかわらず、上記「聖書はすべて、神の霊感によるもので」との
ことばどおり、神が編集者としてそれぞれの本をまとめたようにこの本は
不思議と驚くべき一貫性のある本となっている。
たとえば、人がどのようにして、自分が神に対して犯した罪を許され、
罰を免れ、死後天国へ入るのか、という主題に関しても聖書の66巻の記述は
矛盾せず、一貫している。この件を例として聖書の記述の一貫性を検証してみよう。
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キリスト誕生の1000年以上前に書かれたモーセによるレビ記には
自分の罪が、羊の犠牲によって許されることが書かれている。
レビ5:6 自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。
人の罪を負って死んでいく羊、このことは型であり、神の子羊である、キリストの十字架の死によって成就する。
キリストと同時代である、バプテスマのヨハネはこのキリストを以下の様に
神の小羊と呼んでいる。
ヨハネ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
また、キリストより1000年以上前の人物であるヨブは自分の罪を贖い、許してくれる
キリストの出現を予言して以下の様に語る。
ヨブ 19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
また、このキリストの十字架の死およびその時流された血はまさに
この我々の罪が許されるために流される小羊の血であることを
ペテロは語っている。ペテロはキリストの弟子である。
1ペテロ1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
また、キリストより700年の前の預言者イザヤは以下の様にキリストの
十字架の死を予言することばを記載している。
イザヤ 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
ここで、自分の命を罪過のためのいけにえとする、と書かれているように、キリストの十字架の死とは、まさに我々の罪過や罪のためのいけにえであることがキリスト生誕の700年も前に予言されているのである。
このように、聖書が語る我々の罪が許される方法は一貫しており、
それは、予言的には、羊の血、具体的には神の子羊である、キリストの十字架の
血であることが語られているのである。
したがって、キリストの十字架の死とは、
あまり聖書の知識のない人が誤解しているように、敗北の死などという人間的なものでなく、逆に神によって書かれた聖書全体の記述、目的の中で何千年も前から、予定され、予言されていたものであり、聖書の中心主題であることがわかる。それは、突発的なものではなく、神の計画の中でなされた、我々の罪の許しのために以前から予定され、計画されたものであることがわかる。
多くの人の手を通して書かれた一冊の本であるのにかかわらず、聖書の中心主題はゆるぎもなく、ぶれもなく、的確に一点に集中している。今回は「罪が許されること=あがない」に関してみてみたが、聖書の主張は一貫していることがご理解いただけるだろうか。これらの聖書の一貫性はそれこそ、
聖書が普通の本ではなく、神によって霊感された本でなければありえないことである。
キリストは我々の罪を負う神の子羊として命を失った
(仏教)
さて、仏教の教えに一貫性はあるのか?それを考えたい。
その一貫性ということばの意味合いを仏教の教祖である釈迦仏陀の教えが今に至るまで、一貫して仏教の世界で説かれているのか、というとそれは率直にいって、説かれていない。具体的に書くと、日本に伝わっている仏教の多くは大乗仏教系であり、釈迦が当初説いていた教えとは、かなり、いや全然変質したものとなっており、それこそ、これは、別人か、他人か、というものへと変わってしまっている。
たとえば、釈迦が説いた当初の教え(原始仏教)は、
人の霊魂の存在も来世も否定したシンプルなある意味唯物的な教えであった。
しかし、時代が変わり、新たに大乗仏教などの仏典が加わるにつれ、教えは
著しく変質し、釈迦は、来世を約束し、人を救う超人的人格者であると
変えられていった。しかし、原始仏典をみれば、わかるように、
釈迦はこれらのこと、来世に関しては何も述べていない。
そのような意味で仏教、仏典に関して、それは釈迦が開始した教えの初めから今に至るまで、まったく矛盾しない一貫した教えであるとはいえない。逆に現代の日本に伝わる仏教、大乗仏教は、当初の教祖の教えとは異なる教えを語っている。また何千という仏典の中でどれを正しいものとするのか、ということも
誰もわからない。それぞれの仏典に関しては、時代や書いた人や、
経典によって強調点が異なり、いったい我々は何を信じていいのか、よくわからない
状況である。仏教の経典の一貫性に関していえば、それぞれの仏典が矛盾したことを
述べており、初心者にはいったい何をどの仏典の教説を信じたらよいのかよくわからない混沌とした宗教といえようか。
釈迦:日本に伝わった、法華経を始めとした大乗仏教典は、釈迦の教えとは異なる
(結論)
教理の一貫性、経典内での矛盾や衝突がない、という面では、
圧倒的にキリスト教の聖書に軍杯があがる。
3. 経典の忠実性:
キリスト教と仏教の経典、その経典は忠実に
教祖の教えを継いでいるのか?それとも途中で、
書きかえられたり、別の教えに変わっていないか?
(キリスト教)
キリスト教の経典としての聖書は驚くべき本である。前述したようにそれは、
神に霊感された本であると述べられている。
そして、神は他の箇所で、「ことばは神である」ヨハネ1:1 と書いてあるように、
神のことば、聖書には特別な意味合い、価値がある。
聖書の神はご自分のことばに非常に力点、強調点をおいており、ご自分のことばである聖書のことばを守ることにそれこそ、全力を傾けておられる。ことばを守るとはどういうことかというと:単にいいっぱなしで、終わるのではなく、神がその聖書の中でひとたび語られたことばは、全て必ず実現し、結果としてひとつのことばさえ、地に落ちたり、
実現しない、ということはない、との意味合いである。
そのような意味で聖書はキリスト教会の数ある本の中で全然別格の本であり、
また別格であるといわざるを得ない驚くべき過去の歴史や、性質を持っている。
聖書は神によって、編集、計画されて書かれた本であり、神の知恵によって、
書かれている。したがって、途中で本の趣旨が変わったり、
それぞれの文章が矛盾している、ということもない。
たとえば、キリストの語ったことばをその弟子であるペテロやら、ヨハネやら、
ペテロらが否定したり、まったく別の教理を持ち出す、ということもない、彼ら弟子
たちが書いた書簡は、みな、キリストの語った教理を裏ずけ、補強し、説明、補完するものとなっている。
それらには矛盾や衝突はない。
例をみてみよう。たとえば、人の死後のさばき、裁判、罪への罰に関してキリストは以下の様に
それは必ず起きることを明言している。死後人の存在が無になったり、魂が無になることはない。死ねば全てチャラになるので、悪いことでも、ずるいことでもやったもの勝ちである、などとは語っていない。
マタイ 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの
一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
ここでキリストは死後の裁きの結果、ゲヘナ、地獄へ入る人がいることを明言している。
同じく弟子のペテロもこの主題に関して以下の様に述べている。
1ペテロ4:5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。
ここで、ペテロは、生きている人々も死んだ人々も神の前で裁かれることを
明言している。キリストのことばや教えと同じことを強調している。
このように、聖書のあらゆる記述はキリストのことばや行いと矛盾せず、神の語った主旨や、
テーマは聖書を通して一貫している。
ミケランジェロ:最後の審判:聖書は明確に人の死後、
全ての人が神の前で裁判の座に着くことを明言する
(仏教)
現在日本の仏教会に広がる仏教の仏典、すなわち法華経を始めとした
大乗仏教経典に関して、それが、仏教の教祖である釈迦の教えを忠実に反映しているのか、というとそうでもないようである。仏教学者の統一した見解によれば、釈迦の死後何世紀も後になって
作られた大乗仏教経典は釈迦の本来の教え、原始仏教とはかけ離れたものである、ということが
通説のようである。
仏教の教理に関しての歴史を見ると以下の様に記述されています。
釈迦がなくなったあと、数年の間、釈迦の弟子などが集まり、結集が行なわれ、
釈迦の教えた教理の統一が行なわれようとした。
しかし、釈迦の時代から何世紀も過ぎ、時代が変わるようになり、
その中で、色々な意見、教理、仏典が生まれ、その中には、
釈迦の当初の教えからかけ離れたものも出てくるようになってきた。
法華経をはじめとした一連の大乗仏教の経典はまさにそのような釈迦の教えからだいぶ異なる
教えである。そして日本の仏教の主流は
大乗仏教であるので、残念ながら、日本に伝わっている仏教の多くは釈迦の当初の
教えからかけ離れた別のものとなっている。
現代の仏教会が大いに力を入れている、葬式のこと、戒名のこと、
西方浄土、極楽、地獄、などに関して、仏教の開祖である釈迦仏陀は、
何一つ述べていません。このことは仏教の専門家である、多くの
人々も述べています。
たとえば、臨済宗の僧侶で、大学で教鞭を取った方である田上太秀
さんによる「仏教の真実」には以下の様に書いてあります。
霊魂を認めない。あの世も信じない。輪廻転生も否定する。三世の因果も信じない。葬式だの法事だのいう死者儀礼は本来の仏教とは関わりなかった。仏教は無神・無霊魂論なのだから、霊魂どころか、「神も仏もあるものか」などというような仏も認めない。私はひたすら「摩訶般若波羅蜜多(悟りの智慧の完成)は仏道の第一義なり」ということだけを信じ、それだけを提唱する。
釈迦 は 霊魂 の 存在 を 否定 し て いる。 釈迦 が 説い た こと は、 世間 の すべて の 形づくら れ た もの は 千変万化 し、 したがって 己 の 思う よう に なら ぬ もの ばかりで ある という こと、 そして もの には 永遠 不滅 な もの は ない という こと で あっ た。 だから 神 も 霊魂 も 人間 の 想像 の 産物 で あり、 ある と 思いこん で いる に すぎ ない と 言っ た ので ある。 したがって 現代 の 日本 仏教 で 霊魂不滅 を 説い て いる のは 釈迦 の さとり を 否定 する こと と 言える。 いま の 仏教 の 最大 の 問題 は この 霊魂信仰 に ある と 思わ れる。
仏教は神を信仰しない宗教であることをまず知ってもらいたい。
(結論)
教祖の教えた教え、経典への忠実性、という面ではキリスト教に分がある。
4. 科学と矛盾していないか:
キリスト教と仏教の経典、それは、現在の科学と矛盾していないか?
現代の我々が信じるに足る内容か?
宗教の経典は科学とは異なる、だから、科学的に荒唐無稽なことを
語っても許される、という意見もある。しかし、本当にそうか?
宗教の経典は宇宙の真理を解き明かし、人々に正しい道を指し示すものであるはずである。
その経典が現代の科学と矛盾している、それゆえ科学的思考を行なう人々からは
受け入れられないものである、ことには問題はないか?
宗教の経典は、時代や世相に影響されない普遍の真理を語っているはずである。その経典の内容が、
かつての日、科学的知識もない時代の人には通用したが、しかし、現代の様に
科学が発展した時代においては、通用しないものでよいのか?その記述の矛盾や、不合理性が指摘されるものでよいのか?そういう意味では、宗教の経典でも、いや宗教の経典こそ、現代の科学と矛盾しないものであるべきではないのか。
(キリスト教)
キリスト教の経典である、聖書は現在の科学と比べて矛盾しているのか?それを
考えたい。結論からいえば、聖書は以下に示すように、
現代の科学と比べても、遜色ない、科学的な真理を語っている。
いや、そのような表現ではなまぬるい。実は聖書のほうが昔から正しい科学的事実を述べてきており、時代が変わり科学が発展して正しい事実がわかるようになって、やっと聖書の記述に追いついてきた、という表現が正しいのである。例としていくつか見ていきたい。
<地球が宇宙に浮かんでいること>
地球が宇宙に浮かんだ星であることは、今ではみな知っていますが、
しかし、昔からそうだったわけではありません。昔の人はこの大地は、
大きな亀の上に乗っている、巨人が支えているなどと信じていたのです。(BC1500年頃)
しかし、聖書はこの地球が宇宙にぽっかりと浮かんでいることを述べています。
「ヨブ 26:7 彼は北の天を空間に張り、/地を何もない所に掛けられる。」
今から3000年以上前のヨブ記に地すなわち、地球が何もないところ、すなわち、宇宙の空間にかけられる、浮かんでいることが述べられているのです。
さらに今から2700年ほど前の預言者イザヤは地球が球体であることを述べています。
”イザヤ 40:22 主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、”
この地球が球体であることをこの世の科学が知ったのは、このイザヤから
2400年も後のことです。この聖書のことばは、アメリカを発見した
コロンブスと関係があります。この当時、まだ世間の人々は地球が平坦であると信じていた時代でした。しかし彼はこの聖書のことばから、地球が球体であることを
悟り、新天地をめざし、航海を始めたのです。
<地球の自転>
地球の自転に関してはどうでしょうか?
長い間、科学者は宇宙に関して天動説的な視点をもっていました。
夜と昼との違いは、太陽が地球を回っているからだと思っていたのです。
現在の我々は太陽の昇り、下りは、地球が自転するためであることを知っています。しかし、4000年以上も前にこの地球の自転は聖書の記述に書かれています。
ヨブ38:12 あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、
38:13 これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。
38:14 地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。
ここでは、「地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。」として、地球の自転の様子が描写されています。地球があたかもろくろによって回される陶器の粘土の様に回転し、自転すること、そしてその自転にともない、回る地球が太陽の光により、色がつき、変化していく様が描かれています。また、「悪者をそこから振り落とさせたことがあるか」として、猛スピードで回転(自転)する地球から、振り落とされる、という表現が使われています。
自転する地球
<太陽は軌道を走っている>
太陽の軌道について聖書詩篇は以下の様に述べています。
”詩篇 19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。”
聖書を批判する人々はこの聖書の記述を長い間、あざ笑っていました。
彼らは、太陽は太陽系の中心として留まっており、決して動くことなど
ない、と考えていたからです。
しかし、最近、この太陽が実際は宇宙の中を走り、動いており
宇宙を600,000マイル/時の速さで移動していることが判明しました。
太陽はそれこそ、聖書の言う「走路=軌道」に沿って、宇宙を走り、旅しているのです。
その走路=軌道は長く、一周するのに2億年もかかる長いものです。
(仏教)
仏教の経典は科学と矛盾しないものでしょうか?それを考えましょう。
<宇宙は無始無終か>
仏典では、宇宙の創造に関してそれは無始無終、すなわち初めもなく、終わりもないと主張しています。これは科学的な理論でしょうか?実は、科学の世界でもしばらく前までは恒常宇宙論すなわち宇宙は無始無終であるとの考えが支配していました。しかし、最近になり、宇宙の創造に関しては、いわゆるビッグバン理論が主流となりました。ビッグバンとは、大爆発という意味ですが、すなわち、宇宙は突然、爆発の様に誕生したという考えです。すなわち、今の科学では、宇宙は無始無終ではなく、逆に宇宙には始まりがあると考えているのです。
残念ながら、仏典の宇宙は無始無終であるとの考えは現在の科学とは
異なり、非科学的な理論であることが判明してしまいました。
事実は宇宙は風船の様に時とともにどんどん膨らんでいくものであり、
そのはじめのとき、風船が膨らみ始めた初めがあることがわかってきたのです。
さて、聖書は3000年以上も前から、宇宙には初めがあることを明言しています。
聖書のまさに初めのページ、創世記の初めの記述で以下の様に神が
宇宙を創造した、すなわち、宇宙にはその初めがあったこと、神が宇宙を創造したことが明言されています。
”創世記 1:1 初めに、神が天と地を創造した。”
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。”
この宇宙の始めこそ、科学で言うビッグバンのことなのです。
ですから、科学者がやっと最近になって理解しだしたこと、宇宙は決して無始無終ではなく、
逆に宇宙にはその初め、開始のときがあったことを聖書は初めから明言していたのです。
宇宙のビッグバン
<釈迦は五百塵点劫の昔から存在、成道している?>
仏典では、釈迦は五百塵点劫という途方もない昔から成道しているとのことである。
この五百塵点劫との時間は、現代の科学と矛盾していないのかどうか考えてみたい。
五百塵点劫の昔とは、ある人の計算では、だいたい、10の263乗〜10の322乗[年]の範囲の間にあるとのことである。
しかし、そもそも地球の年齢はたかだか45億年ほどである。億は10の8乗である。前記10の263乗〜10の322乗とは大違いの数字である。仏典を文字通り解釈するなら、釈迦は地球の誕生以前に誕生していたことになり、現代の科学とは矛盾がある。
五百塵点劫:
五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久遠をたとえた語である。正しくは五百億塵点劫である。法華経の如来寿量品第16に、「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。然るに善男子よ、我(われ)は実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」とあり、続けて「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるまで)、東に行くとしたら、この諸々の世界の数を知ることを得べしや、不(いな)や」と弥勒菩薩に質問している。
塵点劫:
仏教用語。途方もなく長い時間のたとえ。 (1) 『法華経』化城喩品には,大通智勝仏の滅度以来の久遠の時間を三千塵点劫という。これは三千大千世界全体をすりつぶして墨汁とし,それを一千国土を経過するごとに1点ずつ落して,その墨汁全部が尽きたとき経過した全国土をみじんに砕いて,その一塵を一劫としても,その久遠の時間にははるかに及ばない,という。 (2) 『法華経』寿量品には,釈尊の成道以来の久遠の時間を五百塵点劫とする。五百千万那由他阿僧祇の三千大千世界をみじんに砕き,そのちりを五百千万那由他阿僧祇の国土を過ぎるごとに1つずつ下して,そのすべてが尽きたときまでに経過した全国土をみじんに砕き,その一塵を一劫として数えても,釈尊成道以来の久遠の時間にははるかに及ばない,という。
<世界の中心にある須弥山の高さ>
仏典によると須弥山は世界の中心にあり、水上八万四千由旬、水底まで同じく八万四千由旬、合計十六万八千由旬の高さだという。頂上は八万由旬の直径の円形で、三十三天が取り囲むという。この高さの数字は、現代の科学と矛盾していないのか?考えてみよう。
由旬(ゆじゅん)とは古代インドの距離の単位であり、 1由旬は、牛車の1日の行程とも軍隊の行程をさすともいう。 約11km、とも約14.5kmともいくつか説があるとのことです。ちなみに1由旬=11kmとして計算するとその高さ924,000mになってしまいます。今の世界でもっとも高い山エベレスト(チョモランマ)でもせいぜい10,000mほどの高さですので、この数字には矛盾があります。このような高い山は想像の世界には存在しても現実の世界には存在していないのです。
須弥山
この様に仏典には、現代の科学的な知識と矛盾する記述がいくつもいくつもあります。これを擁護して、仏典を書いた人たちが今から1000年も2000年も前の人であり、その頃の科学的知識に基づいて書いたものなので、現代の科学と合わなくてもしかたがないとの考えもあります。
しかし、前述の様に同じく古い経典である聖書、3000年以上前に記された聖書には現在の科学と矛盾しない記述があふれていることと比べるとそのような言い訳はききません。やはり、これらの誤りは仏典の限界を示すものです。結論としてこれらの仏典は有限の知識しかない人間の創作物、物語の類に過ぎない、その時代にしか通用しない教えであり、どの時代にも通用し、現代にも通用する普遍の真理ではない、との結論になるでしょうか。
(結論)
キリスト教の経典には人知を超えた驚くべき科学的知識が組み込まれており、現在の科学と適合している。否、むしろ科学が聖書の後を追っているようなものである。この聖書の不思議な性質、特性は、聖書の真の著者である人知を超え、時代を超えた神の存在を前提としなければ、理解できない。
一方仏典は仏典が書かれたその時代の知識、常識を語ったものである。現在の科学知識とは大いに矛盾がある。結果、仏典の記述はどの時代にも通用する普遍な真理が書かれているか、という点には疑問符がつく。
5. 未来への予言:
キリスト教と仏教の経典、そこには、未来への予言、およびその
正確な成就があるのか?
今度は、経典が未来への予言を語っているのか、そしてその予言は
成就しているのか、ということを考えてみたいと思う。
宗教の経典は、普通の学校の教科書や、道徳の本のレベルにとどまらず、人の
死後の行き先、天国や地獄、そして宇宙の真理さえ語るものである。
単なる理論や考え、哲学を語るにとどまるものではないはずである。
この経典が真理であると他人に主張するなら、
その記述の正当性を裏ずけるような超自然的な性質やら特質をその経典が
もっていて当然なものである。普通の小説やら、昔話、童話など
には、そのようなことがら,
真実かどうかの確証、は求められないし、そのようなレベルは求められていない。
しょせんこれらはフイクションに過ぎないとみな
知っているからである。しかし、
宗教の経典はそのような一般の本にとどまらず、それこそ、人の永遠の未来への指針を語るものだからこそ、人知を超えた高いハードルが要求されるものなのである。宗教の経典は人の来世や、死後の行き先を指し示す重要なものであり、求められるハードルやレベルが一般の本より高いはずである。他の本と異なり、経典には超自然的な性質があることは普通であり、いな、経典には、超自然的な面が存在すべきなのである。その理由はその様な人知を超えた面があって、初めて我々もその経典を人知を超えたものとして信頼できるからである。さて、その面、超自然的な面として未来への予言という
ポイントがある。
人には何でもできそうであるが、しかし、できないことがあり、
それは、未来を予測し、しかも実現する、ということである。事実、
確かに人には未来を的確に語ることはできない。明日の天気の予報だって外れることがあるからである。
しかし、その経典が人間的なものではなく、超自然的なものなら、
未来への予言、そしてその予言が成就する、ということもありえるはずである。それで、
この視点、予言の成就という視点でそれぞれの経典を見ていきたい、と思うのである。
(キリスト教)
あまり日本人には知られていないことですが、聖書は未来への予言(預言)
に満ちた書です。実に聖書には3000以上の予言が書かれています。
そして未来を語るだけでなく、その予言はことごとく、成就しているのです。
驚くべきことですが、その成就率をいうなら、100%なのです。
いくつか例を見ていきたいと思います。
<キリストの誕生の場所>
イエス・キリストは聖書の中心人物です。それで、聖書の中では、キリストの誕生の何千年も前から、キリストに関する予言が語られていました。
その予言は合計300以上にわたります。その多くの予言の中で、未来の日の
キリストの誕生に関して、またその生涯に関して前もって微に入り、細に入り、語られていたのです。
ここでは、キリストの誕生の場所に関する予言を見たいと思います。
キリストより800年も前の人である預言者ミカは、メシヤの誕生の場所を以下のように、
明確にベツレヘムという地であることを聖書、ミカ書の中で預言しています。
”ミカ 5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。”
この預言どおり、800年後キリストはベツレヘムの地で生まれています。以下のとおりです。
マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
このミカの預言の記述は800年後すなわち、キリストが生まれる頃には
ユダヤの地で聖書を読む人々の間では、知れ渡っていました。
だから上記の様に、学者たちは、その生誕の地を「ベツレヘムである」として
即答できたのです。
そしてイエスはまさに、そのベツレヘムの地で生まれたのです。
どんな偉人でも自分の出生の場所をコントロールすることはできません。
人知を超えた不思議な神の配慮の中でキリストはこの地に生まれたのです。
キリストの誕生:キリストがベツレヘムで生まれることは800年も前から預言(予言)されていた。
<キリストは処女から生まれる>
旧約聖書の預言者の一人であるイザヤは、キリストの誕生に関して、彼が「インマヌエル(神が我らとともにいます)と呼ばれる人物であり、そのキリストが処女から生まれることを預言しています。以下のとおりです。
イザヤ”7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。”
この預言はキリストの誕生の700年も前になされたものです。
新約聖書マタイの福音書はこの預言が成就したことを以下の様に述べています。
”マタイ 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)”
そしてキリストはイザヤの預言どおり、処女マリヤから生まれてきたのです。
神はこのかねてから預言されていた救い主、メシヤの特徴を
処女から生まれる、という超自然的な生まれ方で特徴ずけており、
まさにキリストは、その預言どおり処女マリヤから生まれたのです。
処女から生まれるのは非科学的だとの意見もあるかもしれませんが、生物の世界では、無性生殖ということばもありますから、このようなことも人間を創造をした全能の神にあって、決して不可能なことではありません。
聖書の神はこのキリストの誕生が人々によく、理解でき、他の人と区分すべく、
処女からの誕生、という方法を選び、予言し、そして実現したのです。
<キリストの受難と死>
聖書には、メシヤ、すなわち、来るべき救い主に関する預言がいくつもあります。
そして、そのメシヤ来臨に関する預言の中で、驚くべきはキリスト来臨の700年前に書かれたイザヤ書の苦難のメシヤに関する預言です。
以下がその預言です。
イザヤ53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
この聖書の中で以下の様に聖書は来るべきメシヤに関して、
12点に渡って、その苦難を預言しています。
すなわちキリストは:
1 拒絶され
2 悲しみの人である
3 苦難の歩みをする
4 他の人から嘲笑され
5 我々の悲しみを負う
6 神により打たれ、苦しめられる
7 我々の罪のために刺し通され
8 我々の罪のゆえ傷つけられる
9 羊の様に苦しむ
10 罪びととともに死ぬ
11 罪がなかった
12 他の人のために祈る
これらの全ては、新約聖書の以下の箇所の中で成就しています。
マタイ26−27章、マルコ15−16章、
ルカ22−23章、 ヨハネ 18−19章。
700年も前にイザヤの書いた預言は、まるで、現在の事件を報じる新聞のニュースの
様に正確に、キリストの苦難の日を預言していました。そして、それらはみな
そのメシヤ、キリストの十字架の日に成就したのです。
これらの予言とその正確な成就という事実を通して、聖書はこのことがら、すなわちキリストの誕生やら、生涯は、一人の偉人の生き方に過ぎないとか、偶然の産物でなく、逆に時間や時代、世界を支配する全能の神の計画の下で起きたことであることを明確に語っています。
これらの成就を通して、我々の理解を超えた、時代や時間、空間を超越した神という方が
確かにこの宇宙には存在しており、またその神は我々の救いやら、死後の天国へ入る方法として、イエスキリストというひとりの人を指し示していることを明確に理解できるのです。
なお、聖書に書かれた予言の記述はキリストの生涯にとどまらず、世界の歴史やら、
他の人物、民族の興亡など多岐にわたりますが、今回はここまでにとどめます。
キリストの十字架:キリストが受難の生涯を送ることは700年以上前から詳細に予言されていた
(仏教)
仏典には、聖書でいう意味の予言とその成就はあるだろうか?
私が調べた限り、残念ながら、そのような予言も成就も存在しない。
たとえば、(キリストがそうであったように)釈迦の生誕地が800年も前に
予言されていたか、というとそのような事実はない。
また、(キリストがそうであったように)、釈迦の生誕前からその
生涯に起きるできごとが前もって予言されていたか、というとそのような
事実もない、キリストの苦難の生涯、人からのあざけり、鞭打たれる、
人の罪を負って、自分の命を失う、などのできごとは前もって予言されていたが、
釈迦に関してそのような前もっての予言も成就もない。
そういう意味では、釈迦は普通の人であり、仏典は現代の我々が書いているような
小説や、哲学書などと同じように「普通」の本である。
有限な人間のアイデイアやら、想像力の中で書かれた
普通の「哲学論」であり、人知を超えたものでもない。未来を語らず、また
未来を予言することも(未来を予言できない)その予言が成就することもない、
超自然的な面がない、普通の本である。
6. 超自然の奇跡:
キリスト教と仏教の経典、そこには奇跡が含まれているか?
今回はこのことを考えてみたいと思う。
繰り返すようであるが、宗教や宗教の経典は、学校の教科書やら、
世間の新聞などとは異なり、そこには特別な性格、性質が要求されている、と
思われる。それは簡単にいえば、要求されるレベルが高い、ということである。
なぜなら、宗教の経典は人の死後の未来やら、神の存在の有無、
さらに死後の天国は地獄のことを語るからである。
永遠の未来を語る以上その経典にはある程度の要求されるレベルがある、
と私たちは考えている。
たとえば、スケートができる、というとき、我々の場合、
とりあえず、スケート靴をはいて、たったり、
滑れたりすれば、良い。まあよし、まあ滑れるということになる。
しかし、同じスケートでもたとえば、フィギュアスケートのオリンピックレベルなら、
そうはいかない。あの不安定なスケート靴をはいて、氷の上で、
3回転も4回転もしなければ、オリンピックで入賞することはできない。
同じ意味合いで宗教の経典に要求されるそのレベルは高いと思える。
そしてその要求されるレベルの一環がその奇跡という面だと
思われるのである。
<キリスト教>
キリスト教の聖書は奇跡に満ちている。
キリスト誕生以前に書かれた旧約聖書も奇跡に満ちている。
イスラエルの民が出エジプトする前に神がエジプトの国に起こした
10の奇跡、さらに出エジプトのとき、絶体絶命のイスラエル人の前で
紅海の水が2つに割れた奇跡など多くの奇跡に満ちている。
そして、その神の起こされた奇跡の数々を見て、
イスラエル民族は、聖書の神を信じ、この神の教えを
長い間、守り行ってきたという経緯、歴史がある。
奇跡など信じがたい、という人もいるかもしれないが、
聖書のいうように本当に全能の神が存在するなら、
その神に選ばれ、率いられた民の間に奇跡や不思議があっても
なんら驚くべきことでない、といえる。
さらにキリスト誕生後に書かれた新約聖書もまた多くの奇跡を記録している。
キリスト自身が起こした奇跡また 弟子たちが起こした奇跡も記述している。
ガリラヤのカナの結婚式で水をぶどう酒に変える奇跡を始め、
あらゆる奇跡といやしがキリストを通して行われた。
生まれつきの盲人が見えるようになり、耳しいが聞こえるようになり、
また足がなえて歩けない人がいやされ、歩けるようになった。
それどころか、ラザロという死んで四日も経ち、完全に死んだ死人さえ復活した。
4000人や5000人もの人が集まり、パンに窮したときには、そのパンが増える奇跡が行われた。また、弟子たちの乗った船が風や波で沈みそうになったときには、キリストが
風や波に命じ、その動きをとどめる、自然をも治める奇跡を表した。
これらの奇跡は、当時のエルサレム、ユダヤの人々の間で大評判になり、
病のいやしを求める人々がキリストのもとへ殺到した。その結果その
対応に忙しく、食事のひまもないことが聖書に書いてある。
マルコ3:20イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。
キリストの評判はその奇跡への驚きのあまり、当時のユダヤ世界では誰一人知らない人がいないほど有名だったことがわかる。
その評判はその当時のユダヤの王であるヘロデ王の耳にも届いていた。
以下の様に書かれている。
“ルカ23:8 ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。”
今の日本で言えば、天皇陛下や、総理大臣の耳に届くほどイエスは当時の
有名人であり、そしてここに「イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。」と書いてあるように、イエスの奇跡が大変な評判やら人気を博していたこと、
それゆえ国王ヘロデさえ、彼に関心をもっていたことがわかるのである。
よく聖書やキリスト教を知らない人がしったかぶりをして「聖書のいう奇跡の記述は
神話に過ぎない、実際に起きたのではない」などと物知り顔にいうが、それはその人が歴史的に
無知だからそういうたわごとを言っているのに過ぎない。かけざんの九九ができない人に
高等数学の話をしても意味がないように、そのような無知な人と話しても意味のない会話になり、
時間の無駄である。
実際はそうでない、歴史の記録を調べれば、
その当時においては、キリストの奇跡は隠れようもない、有名な事実であることがわかる。
聖書はその事実を記し、また聖書以外の当時の歴史資料もこの
イエスによる奇跡の評判を語るものなのである。
たとえば、キリスト教には批判的なユダヤ教の当時の記述にも、当時起きた
キリストの奇跡に関しての記載がある。
彼らは、
キリストがその奇跡を起こした「動機」に関して批判し、
キリスト教非難、ユダヤ教擁護の姿勢で このことがらを書いているが、
しかし、イエスが奇跡を起こしたこと自体は否定していないのである。
結論として聖書の大きな特徴は全能の神により書かれた書であり、
それゆえこの本には、人知や人の常識を超えた奇跡にあふれている。
そしてその理由、何故多くの奇跡が聖書に書かれているのか、の
理由に関して、ヨハネはこう記している。
“ヨハネ 20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。“
ここに書かれているように、聖書に多くの奇跡やしるし、イエスが行なった奇跡が書かれているその理由は、今の時代の人々、神など存在しない、キリストなどまやかしであると
うそぶいている人々が正しく神を知り、また神が唯一遣わされたキリストを信じるためなのである。そして彼を信じたものが死後命を得、永遠の命を得、死後の地獄やら滅びに入らないためなのである。
ラザロの復活の奇跡:キリストは神により特別に遣わされた救い主であり、
神の力によるしるしや奇跡がその生涯に伴った
(仏教)
原始仏典によるならば仏教の開祖である釈迦は奇跡を起こさなかったようである。
以下の様に書いてある。
田上太秀. 仏教の真実 (講談社現代新書)
釈迦は異端者の仲間
インドでもこの時代に現れた自由思想家たちはシュラマナ(沙門)と呼ばれ、仲間を連れて学派を形成して活躍した。彼らは世論の指導者であり、新しい思考方法と行動様式を持ち、人びとの尊敬と信頼を得ていた。しかし彼らの思想は既成宗教の伝統を軽視し、あるいは否定したために異端説として非難されたことも否めない。
彼らに共通するのは現実的、感覚的、そして唯物論的な思想を立てたことである。そして伝統宗教の形而上学的思想に対して、現実的なものを材料として人間の問題を解決しようと考えたのである。神を論ずるのでもない。宇宙創造を論ずるのでもない。つねに人の感覚を通して事実に即してものの本質を究明しようとした。
釈迦もこのシュラマナたちの一人であった。伝統の宗教思想の影響を受けながらも、それを批判し、人の道を示したのである。
シュラマナたちのなかにアジタという唯物論者がいた。彼はインドではじめて唯物論を唱えた人である。彼はつぎのように語っている。
人は地・水・火・風の四つの要素から構成されている。人が死ねば、肉体を構成する地は地界に帰り、血などを作る水は水界に帰り、体温などを作る火は火界に帰り、そして呼吸の息などを作る風は風界に帰るので、すべての体の諸部分は死して虚空となる。死後はなにも残らない、と。
人にかぎらず生類の体は地・水・火・風からなるとはアジタだけでなく、古代ギリシャではターレスも同じようなことを語っている。釈迦もこのアジタ説を受けて体は五蘊からなると説いた。五蘊とは色・受・想・行・識の五つの要素のことで、色は物質のことで地・水・火・風の要素の集まりで、仏教では身と表す。あとの受・想・行・識は感覚作用を現し、まとめて心と表す。つまり五蘊は身心のことであった。身は地・水・火・風の要素からなると釈迦は説いたので、唯物論を展開したと考えられている。
上記の様に釈迦の思想、そしてその実践は、現実的、感覚的、そして唯物論的なものであり、
奇跡や不思議とは縁遠い存在であったようである。
そのことがよい、悪いは別として、原始仏教が描写する釈迦は軌跡とは無縁の人に見える。
7. 宇宙の普遍の真理を解き明かしているのか?:
キリスト教と仏教の経典、それは、この私たちが
住む宇宙の永遠の変わることのない真理を解き明かしているのか?
それとも単なる著者の思いつき、その時代にしか通用しなかった古い、偏った教えなのか?
日本の携帯電話はすぐれた機能が搭載されているがしかし、残念ながら、世間では、
ガラケー(ガラパゴス携帯)と呼ばれている。ガラパゴス島のような狭い世間でしか、
通用しない携帯電話という意味である。
宗教もガラパゴス宗教ではいけないだろう。
その時代、その地域でしか通用しない教え、真理でなく、時代を超越し、
どの時代にも適用され、また狭い範囲の地域でなく、世界のどこででも通用する
真理を語る宗教であるべきなのである。その視点で今回は見ていきたい。
(キリスト教)
聖書の記述の中にはそれこそ、今から3000年も前の古い記述があります。
しかし、古いからといってその時代にしか通用しない記述かというとそうではありません。
逆にその古い記述が現在の最新の科学と適合している例がいくつもあります。たとえば、以下です。
<宇宙は広がっている>
最近になって科学者は宇宙が拡張しているもしくは、広がりつつあることを理解するようになりました。
さて、それは聖書も以前から述べていたことなのです。聖書の中には、
神が天を幕の様に広げる、と述べた記述が9つもあるのです。たとえば、以下です。
”詩篇104:2 あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。”
この詩篇は今から3000年も前の記述です。
宇宙は広がっている
<光とことば>
神は紀元前1500年前のヨブ記で、以下の様に語ります。
”ヨブ38:35 あなたはいなずま(光)を向こうに行かせ、「私たちはここです。」とあなたに言わせることができるか。”
ここでは、いなずま、すなわち、光が遣わされ、そして光がことばを
発して、自分を明らかにすることを述べています。このことは科学的には
ばかげているように思えます。
しかし、実はラジオ電波は光と同じ速度で飛ぶのです。
だからこそ、地球の反対側の人とも即座に無線通信ができるのです。
現代の科学はこのことを1864年にイギリスの科学者 ジェームスクラークマクスウェルが「電波と光とは同じものの2つの形である」ことを暗示するまで知りませんでした。
人の会話や音声を運ぶ電波は実は光の別形態である、このような、人類が近代になって知るようになった知識を聖書は以前から述べていたのです。
光は声を発する:光と電波は同じものの2つの形
<星は歌を歌う>
科学者は星がラジオ電波を発していることを発見しました。
それは、地球に高ピッチのラジオ電波として届きます。ラジオ電波なので、その
音を聞くこともできるわけです。
聖書ヨブ記はこのことを述べ、星が歌を歌うと表現しています。
”ヨブ38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。”
かくのごとく、聖書は古い本ですが、しかし、どの時代にも通用する真理をかたっています。それゆえどの時代にも通用する真理を求める多くの欧米科学者はこの書、聖書を信じ、聖書に記された神を信じるようになりました。以下の有名な科学者による、
聖書や神に関することばに耳を傾けてください。
* ロード・ケルビン: 命、科学の源をいうなら、...確かに(神の)創造の力を肯定する
ことになる。
* ルイス・ パスツール: 自然に関して研究すればするほど、私は
創造者(神)の働きに驚嘆するようになる。
* サー・イサク・ニュートン: 「全ての物質は上記の硬い、固形の
要素からできている、それは最初の(神による)創造のとき、知性ある存在により、
各種結合した。これらを創造された方がこれらの物質を順序良く
整えたのである。そしてもし、神がそうされたというなら、
世界の創造に関してそれ以外の方法を考えたり、
または自然の単なる法則にしたがって、混乱の中から生まれたと考えることは
悟りのないことである。
* アルバート・アインシュタイン: 科学は真理と悟りへの情熱に深く浸透している
人々のみにより作られる。この感覚の源は、しかしながら、宗教の領域から
生み出される。世界の存在には有効な規則があるとの可能性も、信仰に属することがらであるが、また理性的、すなわち理性で感知できることがらである。
私にはこの種の深遠な信仰を持たない真の科学者の存在を考えることはできない。
ケルビンは、こう語っています。「もし我々が自然の本を正しく読むつもりなら、神の特別な啓示をメガネとしてつけるべきである。神の創造に関する啓示である。
残念なことに科学の初めから今に至るまでの間に、多くの科学者はこのメガネを捨て去り、多くの歪みが生じた。」
聖書は3000年以上前から書かれてきた古い本ですがしかし、かくのごとく
どの時代にも通用する科学的真理を語る書でもあります。聖書の科学的記述が
何千年もの間を経ても通用する普遍的な真理であるなら、それ以外の聖書の
記述、すなわち神の存在、人間の創造、人の死後の世界、キリストの罪のあがない(
我々の罪の身代わり)なども真理である可能性が高いのです。
そして、聖書の記述が時代を超えた真理であることを悟ったゆえ、
この聖書をまじめに読む多くの科学者は神を信じ、聖書を信じるようになったのです。
ニュートンは聖書の神を信じる科学者だった
(仏教)
仏典の記述は、時代を超えた真理といえるでしょうか?
信仰に関する記述は確認のしようがないので、仏典の中の科学的なこと、
現代の我々でも確認可能な面を見てみます。
以前みたように、法華経の記述は、残念ながら、
現代の時代に通用する科学的な記述とは言えません。
釈迦が生まれ、成道した時代に関する
記述(釈迦は五百塵点劫という途方もない昔から成道している)といい、
須弥山の高さといい、現代の科学とは適合しない。
したがって、これらの法華経の記述は、法華経の書かれた時代や、
それを信じた日蓮の時代には通用するかもしれないが、
現代にも通用する普遍の真理とはいいがたい。
(結論)
キリスト教の聖書には、どの時代にも通用する普遍の真理が描かれているが、
仏典はそうとはいえない。
8 我々に死後の世界を間違いなく解き明かしているか?
キリスト教と仏教の経典、それは、私たちの未来の死後の世界を
正しく間違いなく解き明かしているのか?それともあやふやな
不確実な憶測を並べているのに過ぎないのか?
それぞれの専門家にはそれぞれ異なる専門があります。豆腐屋は豆腐を売ってくれますし、金魚屋へ行けば、金魚を売ってくれます。同じ意味合いで宗教の専門性、存在理由があるはずです。宗教の専門とは何か、存在意味は何か、というなら、何といっても、神の存在への説明やら、我々の死後の世界への教え、導き、ということになるでしょう。
もし死後の世界が本当に実在し、また天国や地獄が存在するなら、宗教の大事な目的は、私たちが実際に正しく死後天国(極楽もしくは浄土)へ入れるように、導いてくれる、その道を指し示す、このことがあるべき宗教の姿といえると思います。今回はこの点で比較してみましょう。
(キリスト教)
聖書は明確に人の死後の世界を語る。以下のとおりである。
“ヘブル 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、”
すなわち、聖書は全ての人に定まった2つの運命に関して語る。一つは誰であっても一度死を体験すること。そしてその後、死後のさばき、すなわち神の前における裁判を受けることを語っている。その裁判において人は自分が生きていた間に行った全ての行いに関して神の裁きを受ける。その裁判の結果、ある人は天国へある人は地獄、具体的には火の池に入ることが書かれている。以下のとおりである。
“黙示録 20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”
さて、まじめに考えて、自分の生涯で、一度も罪を犯さない、何一つ過ちを犯さない、という人はまず存在しない。それで、もし、我々が罪を犯してしまったとして、
その救済の方法はあるのだろうか?
我々が神の前に罪があるし、犯したとして、それを許され、死後罪への罰として火の池に入らないためにはどうすればよいのだろうか?そのことに関して、聖書はキリストの十字架の死は我々の罪の価を払うものであり、キリストを信じるものは自分の犯した罪が許され、死後のさばきからまぬかれることを述べる。以下のとおりである。
“ヨハネ 3:17 神が御子(キリスト)を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。“
上記の様に聖書の語る死後の世界、我々の運命、また罪や罰からの救済方法は明確である。
火の池:神を認めず、罪の道を歩むものは死後火の池に投げ込まれる
(仏教)
仏教の語る死後の世界はどうも一様ではない。仏教各派により、
微妙に教理や強調点が異なるようだ。
そもそも仏教の始祖である釈迦は死後の世界に関して何も語っていない。
死後の世界があるともないとも語っていない。
釈迦に死後の世界のことを執拗に聞いた弟子がいた、名前は摩邏迦、それで釈迦が言われた。 ここに毒矢で射られた男がいるとする、周囲の人々が慌てて医者を呼んだ。すると毒矢に射られた男が医者に向かい、「そんな治療をする前に、まず俺を射た男を捜してくれ。そして使った弓がどんな形で、材料で、毒の種類も調べて欲しい、その答えが出ないうちは治療しては困る」と。 釈迦は摩邏迦に、この男をどう思うと聞かれた。摩邏迦はその男は大バカだ、その間に毒が廻り死んでしまう。釈迦は、お前の死後の世界の質問も同じことだよと云われ絶句した。 釈迦は、大事なのは毒の正体を知ることではない、まず毒矢を抜いて、苦しみを除去することだ。死後の世界の問題に拘る場合ではあるまい、大事なのは今の苦しみをどうやって克服すべきかと言うことだ。幾ら考えても分らないことは考えるのをやめなさい、と。 お釈迦様は生前、決して死後の世界や霊魂の存在などという問題についてお話しにならなかったと云う。色んな弟子が聞いたが一切お答えにならなかったという。これを釈迦の「無記」という。ノーコメントのことである。 お釈迦様は死後の世界があるかどうかという議論を全くされなかつた。 死後の世界があるのか無いのか、霊魂が実在するのかしないのか・・・こんなことはお釈迦様でも分らない。 分らないことは分らない。そんなことは考えず、今の人生をしっかり考えようというのが仏教の基本。
このように実際に歴史上に存在した釈迦はどちらかといえば、現実主義的な
人物で、わからないこと、知りえないことまでは語らなかった人であることがわかる。であるので、仏教はそもそも死後の世界を語らない宗教として始まったわけであるが、しかし、釈迦以来数世紀が過ぎ、大乗仏教をが起こり、竜樹による
法華経などが書かれるようになり、仏教の教えは当初の教えとまったく別のものとなる。
日本に伝わる仏教は多くは大乗仏教系の経典なので、死後の世界を説く。
極楽浄土が説かれ、そこに入るための念仏やら、お経が推奨されるようになる。
その信仰方法や信仰対象も仏教宗派により、異なる。法然や親鸞は、南無阿弥陀仏として仏の名前を唱えれば(念仏)成仏すると語り、いやそうではない、南無妙法蓮華経として法華経を唱えることが大事である、念仏など唱えていると無間地獄へ入るぞ(念仏無間)という人もいる。
従って、死後人はどこへ行くのか、またもし、死後天国(浄土)や地獄が存在するなら、その浄土へ入るには我々はどうすれば、よいのか、ということに関しても仏教全体の統一見解やら、回答といったものはない。混沌としている。
別の言い方をすれば、そもそも仏教の開祖である釈迦が何もわからなかった死後の世界を後の弟子たちがわかるはずもないともいえる。
経典のことをいうなら、そもそも仏教にはキリスト教でいう唯一の聖典、聖書にあたる書物、唯一の仏典というべき一冊の本の存在がないので、統一見解、はっきりした正しい結論がないのも、
しかたのないことかもしれない。何千もの多くの仏典があり、それぞれの仏典の主張はお互い矛盾しあったり、違うことを主張している。混沌とした教え、それが仏教の現状といえるのか。
(結論)
キリスト教の経典も(大乗仏教系の)仏教の経典も同じく死後の世界を説く。
その点では信者のニーズ、死後の世界への安心という面ではどちらも必要を満たしている、といえるかもしれない。ただ、大事なことはその死後の世界の教えを語る経典がどれほど客観的な真理であり、事実の裏ずけのある教えかどうか、ということと思える。多くの仏典の中には、聖書でいう意味の神が与えた唯一の聖典、という書物がなく、あいまいとしており、科学的、歴史的、常識的誤りに満ちており、人間の有限な知恵、知識の本、その時代にしか通用しなかった教えとしかいえない。
その死後の世界観も現代の我々がどこまで信じてよいのか、信頼性には残念ながら、疑問符がつく。
<最終的な結論>
上記の様に7つのポイントに関して、
キリスト教対仏教の対比を行なったが、我々の結論では7対ゼロの圧倒的なスコア差で
キリスト教の圧勝であった。この記事が自分の死後に関して、また我々が信ずべき教え、宗教を考える上での参考になれば、幸いである。