<<メシヤに関する預言2>>
ここでは、メシヤに関する預言2としてこのことをさらに少し見たいと思います。
<キリストの受難と死>
聖書には、メシヤ、すなわち、来るべき救い主に関する預言がいくつもあります。
そして、そのメシヤ来臨に関する預言の中で、驚くべきはイザヤ書の
苦難のメシヤに関する預言です。
以下がその預言です。
イザヤ53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
この聖書の中で以下の様に聖書は来るべきメシヤに関して、
12点に渡って、その苦難を預言しています。
すなわちキリストは:
1 拒絶され
2 悲しみの人である
3 苦難の歩みをする
4 他の人から嘲笑され
5 我々の悲しみを負う
6 神により打たれ、苦しめられる
7 我々の罪のために刺し通され
8 我々の罪のゆえ傷つけられる
9 羊の様に苦しむ
10 罪びととともに死ぬ
11 罪がなかった
12 他の人のために祈る
これらの全ては、新約聖書の以下の箇所の中で成就しています。
マタイ26−27章、マルコ15−16章、
ルカ22−23章、 ヨハネ 18−19章。
700年も前にイザヤの書いた預言は、まるで、現在の事件を報じる新聞のニュースの
様に正確に、キリストの苦難の日を預言していました。そして、それらはみな
そのメシヤ、キリストの十字架の日に成就したのです。
キリストの十字架:彼は苦難のメシヤとして来た
<メシヤの復活>
聖書はまた来るべきメシヤの死とともにその復活をも預言しています。
詩篇 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
ここで聖書は、神がそのメシヤの魂を死者の場所であるよみに捨て置くことはせず、
また、死の場所である、墓の穴を見せたりしないことを述べています。
よみに捨て置かれたままではない、ということは要するに死の場所で
あるよみを離れてその命がよみがえる、ことを述べているわけです。すなわち、この箇所では、メシヤが
死から復活するとの約束が与えられているわけなのです。
新約聖書、使徒行伝においては、この詩篇の箇所を引用して、
メシヤ、すなわち、キリストの復活を語っています。それは、
以前から預言されていたことの成就であるとして以下の様に
語っています。
使徒2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
<メシヤの昇天>
昇天とは、天に昇っていくことです。
旧約聖書、詩篇においては、このメシヤが昇天することを
預言して以下の様に書かれています。
”詩篇 110:1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」”
ここでは、神である主が、主であるメシヤに対して、神の右に座しているように、
と語ったことが描かれています。 詩篇を書いたのは、ダビデですが、その
ダビデがメシヤを「私の主」という呼び方で描いているのです。
神は天におられますから、その神の右の座についていなさい、といわれたメシヤは
(地上から)天に昇る必要があるわけです。
新約聖書の中でこの詩篇の箇所を、以下の様にキリスト自身が引用しておられます。
マタイ 22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
22:44 『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
さらに使徒行伝の中でもペテロがこの詩篇の箇所を引用して、この
箇所こそ、メシヤであるキリストが復活、昇天し、神の右の座につくことを
述べている箇所であるとして、以下の様に述べています。
使徒2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
2:34 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』
ですので、私たちが信じがたいかどうかは、別として、聖書はメシヤが苦難を受け、殺され、しかし、
復活し、そして最後は昇天することをかねてから、預言し、そしてそのことが実現し、
成就したことを新約聖書は述べているのです。
<預言とメシヤ>
聖書の預言の特徴を是非理解したいと思います。
他の宗教の預言、またこの世の予知や未来の予言と異なり、聖書の預言の
特徴は、その内容が非常に詳細であり、具体的である、ということにあります。
メシヤ、キリストに関する預言にしてもその生まれてくる場所、部族名、家系、
さらにその十字架の死や苦しみの生涯に関しても非常に具体的な
預言が聖書に前もって書かれていたのです。そして、今まで見てきたように、
それらの預言はひとりの人、イエスキリストの生涯の中で全て実現しました。
メシヤ、キリストに関する何百ともある預言は、キリストが生誕する
何百年も前に書かれたものなので、彼の前に来た預言者がコントロールしたり
工作することなど不可能です。このような預言の成就は人間の能力を超えているのです。
たとえば、キリストの誕生の1000年も前に書かれた詩篇には、
以下の様にキリストが十字架につけられ、死に至るときを描写し、描かれています。
詩篇 22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
22:16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
22:19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
「あなたは私を死のちりの上に置かれます」とは、まさにキリストの十字架の死のときに起きたことです。そして、”犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。”とは、キリストの十字架を取り巻いた人々が行なったことです。さらに、”彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします”とは、まさに具体的にキリストが十字架につけられるとき行なわれたことです。福音書は、キリストを十字架につけたローマの兵士たちがキリストの着物をわけあい、さらに下着に関してはくじびきにしたことが描かれています。
しかし、いったい誰が1000年も前にその日を十字架の日をこのように具体的に
描写することができるでしょう。また、そして、1000年も前の人がキリストの死をコントロールすることができたでしょうか?それは、不可能なのです。
まさに聖書の預言は人知を超えているのです。
さらにキリスト誕生の700年前のイザヤ書においては、メシヤ、キリストが行なう、
奇跡について預言しています。以下のとおりです。
イザヤ35:5 そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
35:6 そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
これらの預言はまさしく、メシヤ、キリストの生涯の中で実現しており、
福音書はキリストによって行われた多くの奇跡を記録しています。それこそ、
「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられ」たのです。そして、「足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌」ったのです。
しかし、700年も前のイザヤがこれらのこと、奇跡の実現をコントロールできたでしょうか?
それは無理です。ですので、聖書の預言は人のコントロールの及ばない、
神の権威と能力の中で実現しているのです。
キリストは盲人の目をいやした
<聖書の預言は数学的にありえない確率で成就する>
このように聖書のメシヤに関する預言はひとりの人、イエスキリストの上にみな、成就しています。そしてこのように多くの預言が一人の人の上に成就する、ということは偶然にはありえないのです。
数学的には、たった16の預言がひとりの人の上に成就する確率は
10の45乗分の1というありえない低い確率です。
さらに見るなら、48の預言がひとりの人の上に成就する確率は10の157乗分の1という
非常に低い確率です。しかし、実際にはひとりの人キリストの上にさらに
多くの預言、100以上の預言が成就しているのです。そして、
このありえない確率は偶然ではなく、全てを支配される神の存在なしでは、
説明できないことなのです。
そうです、キリストの生誕、死、復活、昇天、これらは神の計画の中にあっ
たものであり、神が全てを支配しておられるのです。
聖書でいうレベルの預言は他の宗教の経典には存在しません。そして、
このこと、未来への預言の成就を通して、聖書はこの世にはたった
ひとりの神が存在し、その方が
静かに自分のことを語っているように思うのですがどうでしょうか?