S23 人の本質

キリスト教とはどのような宗教でしょうか?
何とかがんばって聖書の正しい教えを実践する宗教:そんな風に思う人も
いるかもしれません。ところで、聖書は人間をどのようにとらえているのか?
それは知っておいたほうが良いと思います。

ロマ3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」

3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、

3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。

3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」

3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

ここに書いてあるように、「義人はいない。ひとりもいない。」ことが、聖書的にいう人間の現状です。

俳句に「名月を取ってくれろ、と泣く子かな」という句があります。
幼い子供には大人には何でもできそう、あのお月さんも取ってくれそうに
思えるのかもしれません。しかし、それは子供の想像であり、実際は無理です。
どんなに背の高い大人がジャンプしてもお月様をとることなどできません。

同じ意味合いで聖書の教え、十戒の教えなど、
みた感じ、どれも自分で行えそうです。
しかし、実際はそうではありません。十戒の一つの教え、たとえば盗むな、という教えでも厳密にすべて完璧に行うのは難しいのです。
拾ったお金を使ってしまうこともあるかもしれませんし、自販機の
おつりが残っていたら、ラッキーとして自分のポケットに入れてしまうかも
しまいません。盗むな、という一つの教えでも一生の間、一度も
破らないで生きる、ということは難しいのです。
さて、上記箇所の続きにはこう書いてあります。

ロマ 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

神は何故聖書の中で、多くの戒めや守るべき律
法を与えたのでしょうか?
ここでは、私たちの常識と異なることが書かれています。
私たちの常識、神がそれらの教えや戒めを与えたのは、それを一生懸命守るためであると思えます。

しかし、聖書は別のことを語ります。神が律
法を我々に与えた理由、それは、我々が自分の正しい現状、ありのままの
現状を正しく理解するためであることが書かれているのです。

「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」と書かれているように、十戒のすべての教えをすべて正しく守ろう、とチャレンジして、そして成功して神の前に義とされた人はいません。逆に誰もかれも自分の無力さや、だめ加減がわかるのです。「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」と書かれているように、これらの教えを行なおう、そして見事に失敗して、初めて誰も何も神にいえない、ということを理解するのです。

そして、実は神が律
法を与えたその目的もそうなのです。私たちが自分の現状、を理解するためにこれらの教え、戒めは与えられたのです。

さて、そのようにして、我々が人間の現状、を理解すること、それは、
敗北や負けたことのように思えますが、実は正しい解決の一歩です。
自分だけでは正しさ、義を達成できない、それに気づいて初めて
聖書で言う、救いとか救世主ということばが理解できるからです。
それは、たとえていえば、自力で海を泳いでアメリカまでいけないことに気づいて始めて、船や飛行機を利用することに目が行く、そのようなことでしょうか。

キリストはまたこのようにも言われました。
 
マルコ 2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

私たちは自分が病人であることに気づいて始めて、医者であるキリストが必要であることを理解するのです。次のステップ

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