S22クリスチャン人生はサバイバル戦

聖書を読むとき、クリスチャン人生とは、あたかもサバイバル戦のようなものと
理解できます。

マタイ13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。

13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

13:36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。

13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。

13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、

13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

13:43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

この箇所では、畑には良い麦だけでなく、毒麦も蒔かれることが描かれています。
麦はパンの材料であり、要するにこれは神のみことば、メッセージに関するたとえなのです。そして、我々がどう思うかどうかは別として、教会の中には、
良い麦も蒔かれますが、しかし、徐々に敵の働きが教会の中にも侵食して、
毒麦、すなわち、サタン来のメッセージやら、人を滅びに導くメッセージも
入ってきてしまうことがここでは描かれているのです。
ここに書かれていることは教会の未来に関する預言であり、そして、
良くも悪くも教会の歴史とはこのことばのように進み、
結果として、世の終わりも近いかという現代においては、
教会の中で語られているメッセージは、良い麦も毒麦も
混在している状態になっています。

カソリックで語られている地獄は存在しない、とか聖書には誤りが
ある、などとはまさに敵の蒔いた毒麦です。

さて、育ってきた良い麦、毒麦とは、具体的には、
メッセージを聞いて育つクリスチャンをさすのです。
ある人々は健全なメッセージを聞き、実践し、
健全なクリスチャン、良い麦として育ちます。
しかし、一方、マリヤを拝みましょう、とか、進化論は科学的です。(
創世記は神話です)などと敵のメッセージを聞いて
毒麦として育つクリスチャンもいるのです。

そして今はどういう状態かというと、「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」とのことばどおり、どちらも教会内に混在している状況なのです。
ある人は良い麦、正しい教理を信じており、他の人は毒麦、悪魔来の教理を信じている、という状況なのです。

しかし、いずれ、それぞれにいくべきところへいくようになります。良い麦は、集めて倉、すなわち、天の御国に入りますし、毒麦は集めて火で焼かれる、火の裁きにはいります。

ですので、この箇所からわかるように、クリスチャン人生とはサバイバル戦なのです。油断もすぎもない歩みなのです。どこに毒麦が蒔かれているかわかったものではありません。

マタイ 13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

この箇所も教会の未来に関する預言です。
パン種とは、聖書的には悪い意味合いのことばです。罪や誤った教理をさします。
「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」というように、避けるべき教えをさしてつかわれます。パン種、イースト菌はパンを膨らませます。パンはみことばや、教理に関するたとえです。
それで、ここに書かれている、「女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」とは、簡単にいえば、教会の教えの中にパン種が膨らむ、罪や誤りの教えが蔓延する、という預言です。

そして今の教会を見渡すなら、このことばが成就しつつあります。
教会の中には艱難前携挙説を始め、おかしな教えが蔓延しつつあります。

ですので、私たちはますます、教えを正しく見分けることが必要なのです。

マタイ 13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、

13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

ここに書かれているのも教会の未来に関する預言です。

魚はクリスチャンをさすたとえです。魚は水の中で生きますが、水は聖霊に関するたとえです。何故、良い魚、悪い魚ができるのか、その理由は魚が育った水に関係します。
良い水、聖霊に導かれ、聖霊の声をすなおに従ったクリスチャンは良い魚に育ちます。
一方悪い水、すなわち、聖霊ならぬ、悪霊に聞き従い、聖霊の声は遠ざけたクリスチャンは結果として、悪い魚に育ちます。
そして、世の終わりには、それぞれ自分の歩みの結果を刈り取る、ということがここに書かれていることです。
良いものは器に入れ、というように聖霊に聞き従ったクリスチャンは入るべき天の御国に入ります。しかし、悪い魚は集めて火で焼かれる、ということですので、明らかに火の裁きをあらわすと理解できます。

さて、このように、聖書は明らかに我々クリスチャンに対して一つのはっきりしたメッセージを語ります。すなわち、クリスチャン人生をスタートすることはみな、同じでも、その歩み方しだいでゴールも結果も異なる、ということを語るのです。私たちはこれらの警告を心に留め、恐れをもって正しい歩みに入りましょう。次のステップへ

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