S21 クリスチャンは全員天国へ入れるか

私たちがキリストを信じたあと、喜びを得ます。
そして聖霊により、救いの確信を得ます。
さて、質問ですが、一度信じてクリスチャンとなった人は、
救いから漏れたり、滅んだり、地獄へ行くということがありえるでしょうか?
ある人々は一度信じてクリスチャンになったのなら、決して救いからもれることはないと、主張していますが、それは本当なのでしょうか。

私たちの理解ではそれは誤りです。なぜなら、聖書は明らかに
クリスチャンであり、キリストを「主よ、主よ」と呼ぶ人々が滅びに入ることを
語るからです。 キリストを「主よ主よ」と呼ぶ人はキリストを信じたクリスチャンであり、信じていない人のことではありません。

マタイ7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

ここでは、キリストを主よ、主よと呼び、キリストの名によって預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇跡を行なう人々が登場します。彼らは、仏教徒でも、キリストと無縁の人々でもなく、明らかにキリストを信じ、また、聖書のことばに従って、預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇跡を行なうクリスチャン、キリストを信じる人々です。いわば熱心なクリスチャンです。

しかし、そうであるのに、キリストは彼らに対して、「わたしはあなたがたを全然知らない。わたしから離れて行け。」などと冷たい態度をとります。
いったい、何故、キリストはこのようなことを彼らに対して語ったのでしょうか?

その理由は、キリストのいわれる、「不法をなす者ども」ということばです。
彼らは確かにキリストを信じているのでしょうが、しかし、行いがあらたまっていません。
あいかわらず、罪やら、盗みやら、好色やら、姦淫やら、人への悪意など、
不法な行いから清められても、悔い改めてもいないのです。
それゆえ、キリストは彼ら、不法、すなわち、神の教え律
法を行わない彼らを非難しているのです。彼らはクリスチャンに約束された永遠の命とは無縁になってしまうでしょう。

ですので、私たちは、知るべきです。
私たちは、キリストのあがないやら、血により、過去の罪は清められます。しかし、私たちが行いをいつまでも改めず、不法から歩みをたださないなら、
その日、キリストに受け入れられない可能性が高いことを知るべきなのです。
さらに以下の箇所も見て見ましょう。

マタイ25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。

25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。

25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

ここでは、2種類の花嫁候補の娘たちがいます。聖書的には、
クリスチャンは男でも女でもみな、キリストの花嫁になる
予定です。ですから、この花嫁候補の娘たちは明らかにクリスチャンをさすたとえです。

さらに彼女たちはキリストを「『ご主人さま、ご主人さま」と呼びます。
日本語では異なるようですが、英語では、Lord, Lord (主よ、主よ)として
同じことばが使われています。すなわち、彼女たちもキリストを主と呼ぶクリスチャンであることが示されているのです。ですから、ここでの話は花婿なるキリストとの婚姻を望む2種類のクリスチャンの運命について書かれているのです。


そして、その結論は2種類の娘たちがどちらも花婿に暖かく迎え入れられた、という結論ではありません。そうではなく、一方は受け入れられ、もう一方は受け入れられなかったという悲劇的な話を書いているのです。

受け入れられたほうはともかく、何故一方は受け入れられなかったのか?
そのことははっきりしっておいたほうがよいでしょう。
理由としてここでは、油がない、油がたりない、ことが描かれています。
油は、聖霊をさすたとえです。ですので、花婿に受け入れられなかった娘、キリストに受け入れられなかったクリスチャンの特徴は、油、聖霊にあるのです。
聖霊を追い出している、他の霊を受けている、聖霊の声に聞き従っていないクリスチャンはその日、危ない、というメッセージがここにはあるのです。

ですので、一度クリスチャンになったら誰でも救いからもれることはないのか?という質問への答えは、明確であり、その人のクリスチャンとしての歩み次第では、救いからもれることは十分ありえる、ということが正しい答えなのです。

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