私たちがクリスチャンとして成長を望むなら、身につけるべき習慣の一つは、聖書を読むことです。そして、もう一つは祈ることです。祈る習慣をつけることです。ペテロは以下の様に述べました。
使徒 6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。
彼は自分たちはもっぱら祈りの奉仕とみことばの奉仕とを行う、と語ったのです。ですので、祈りとみことばを読むこと、この2つの働きは大事です。
毎日時間を定め、同じ時間に祈るように習慣を身につけることは大事です。
そして祈りは神に願い、必要を求めることでもあります。
我々の必要、また困ったこと、かなえて欲しいことを祈ることは大事です。
もっとも自分の欲だけで祈るのは良いとはいえません。自分の欲のみを満たすことを願い、アイドルと結婚できるように、世界一の金持ちになれるよう、ミスユニバースで優勝できますよう、と祈ってもすべてがかなえられるかはわかりませんが、しかし、神のみこころにかなった祈りは答えられます。
祈りの課題はそれぞれあると思います。学校でのこと、会社でのこと、
家族の病気、問題、自分の問題、悩み、またまだキリストを知らない人が知ることができるよう、などと課題はあると思います。
祈りをする中で私たちは聖霊に触れ、神にふれるようになります。
聖書にはたとえが使われていますが、聖霊に関しては水にたとえられます。
私たちは、水を飲まなければ喉が渇いて生きていけないものです。
同じく、私たちは祈りの中で聖霊に触れ、水を受け、初めて霊的に生きるものなのです。そうでないと、霊的に枯渇してしまいます。
残念なことですが、クリスチャンになったはよいが、霊的に枯渇して弱ってしまう人々がいます。その原因は食べず、飲まない、ということに尽きます。
パンである聖書のことばも読まず、また水である聖霊にも祈りの中で触れない、そのために弱り、飢え、渇き、枯渇してしまうのです。
クリスチャンは魚にたとえられます。以下のとおりです。
マタイ 4:18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
ここで魚をとる漁師であるペテロやアンデレに対してイエスは、「人間をとる漁師にしてあげよう。」と語りました。ですので、クリスチャンとは魚にたとえられる存在なのです。
魚の特徴は、水の中でないと生きられない存在である、ということです。
そして、水は聖霊であり、クリスチャンとは水、聖霊の中でないと生きられない、聖霊なしでは、弱り、枯渇してしまう存在であることを語っているのです。
私たちは祈りの中で水である聖霊に触れます。
ところで祈りは時間にしてどのくらい行うべきなのでしょうか?
以下のことばが参考になるでしょうか。
マルコ14:37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。
14:38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
ここでは、イエスは1時間も目を覚ましていることができず、祈りを続けられないペテロに関して叱責を行っています。それで、祈りに関して時間をいえば、最低でも一時間ということができるでしょうか。最高ではなく、最低です。
私の経験からいっても毎日最低1時間を祈りに費やすことを習慣にしていくなかで、だんだんクリスチャンとしての土台ができ、成長が望めます。次のステップ
