S10神のことばを我々の常識にする

聖書は聖書自身に関してこう述べます。

2テモテ3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

この箇所を順に見ていきましょう。

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」

ここでは、聖書は我々に知恵を与えること、そして「キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」ことが描かれています。

我々は良くも悪くも読んだり、聞いたりすることに影響されます。
毎日漫画ばかり読んでいる子供はその漫画のキャラクターに結構影響されてしまいます。

毎日洋楽を聞き続けている子はそのうち、自分も感化されて
ミュージシャンになろう、と音楽の感性が育つかもしれません。
同じ意味合いでは恐縮ですが、聖書に関しても同じことがいえます。

この日本のように、キリスト教と無縁の世界ではあって、右も左も神の存在など認めていない人々ばかりの世界にクリスチャンとして住むには聖書を読むことは必須です。


この書を普通に読む中で、自然に我々はキリスト・イエスに対する信仰もわきあがってきますし、またその結果、不信仰な他の人々と異なり、神の用意した救いを得ることもできるようになるのです。

聖書はどこから見ても荒唐無稽な本やら、信じがたい空想ばかり書いてある
本ではありません。ですので、我々が普通に読んでいく中で、自然と神へ、キリストへの信仰が起きてきます。また神の知恵も与えられてきます。
逆に聖書を読まず、この世の小説やら、テレビやら、評論などばかり、追いかけていくなら、自然に信仰は消えていくかもしれません。
私たちは聖書を読み、その中で聖書の価値観や、人生観、富やこの世の名声に対する態度や、扱いを学ぶことが大事です。その聖書の価値観は、この世の価値観や富や名声への態度とはだいぶ異なります。

簡単に言えば、聖書は、またキリストはほとんど、この世の富や、名声に価値など置いていません。それは、だいぶこの世の方法と違う、否、180度異なる価値観なのですが、しかし、実は聖書にこそ、真理があり、真実があります。
そして、その聖書の価値観、神の方法、価値観は我々が聖書を読む習慣を身につけて初めて自分のものとなる、このことを知りましょう。

“3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。“

ここに書かれているように、聖書はすべて神の霊感により、書かれたものです。
ですので、どのようなことばも信頼に足りる、ことばです。そして、これを読むことが、「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

私たちが何をこの世で大事にすべきか、何にポイントを置くべきか、という教えは、聖書を読むことにより、与えられます。また、この世において何を行なうべきでないか、という戒めも聖書を読むことにより、教えられます。

たとえば、ダニエル書を読む中で、
バビロン王に脅かされても偶像を拝まなかったダニエルの3人の友の話を見ることができます。それを通して、我々は偶像を拝むべきでない、たとえ命の危険があってもそうすべきでない、ことを学ぶのです。他の教会の悪口をいうわけではありませんが、残念ながら、カソリックの人々はあまり聖書を読んでいないためか、教会内でマリヤ像などを拝んでいます。そして、私たちはこのような偶像崇拝は正しくない、ことを聖書を読む中で学ぶのです。

さらに聖書を読むことは「矯正」のために良いことが描かれています。
私たちは今までキリストを信じておらず、最近キリストを信じるようになった、それは感謝ですが、その場合、やはり、この世の習慣や方法が身についていますので、クリスチャンとしてある程度の矯正が必要になることをしりましょう。直すべき点、ただすべき点があるのです。

たとえば、今まで、私たちは、普通に家の仏壇や神棚を拝み、ささげものをしていたかもしれません。しかし、聖書のことば、たとえば、以下のようなことばを読み、それは偶像の神に仕えていることに気づくようになります。

1コリント 10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

そして、神の怒りをかうべきでない、としてそのような
習慣をやめるようになります。それが矯正なのです。このように聖書を読むことにより、我々は必要な矯正を受け、神の怒りをかう歩みから、神に喜ばれるものとしての歩みに入るのです。そのために、聖書を読む習慣は必須です。

聖書を読むことは私たちの思いや常識を徐々に変え、この世の常識から出て
神の常識、神の方法、永遠の命を得るのにふさわしい考え方や歩みに変えていきます。


このことは後に尊い結果を生み出します。このことを知りましょう。

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