K19 聖書の語る死生観

前回は、永遠の命のことを語りました。このことばは、聖書の
語る死生観とか、聖書の言う死後の世界などの理解なしにはわからないことです
のでこのことを少し考えたいと思います。

聖書はどのような死生観を語るのでしょうか?
聖書は死後人の存在は無になる、存在しなくなるなどとは語りません。
ある人は人は死んだあと、無になる、存在も記憶も何もかもなくなる、といいます。
それぞれの考えがあり、色々な考えがあるのでしょうが、しかし、
聖書はそう語りません。
人の死後のことがらに関して聖書はこう語ります。

ヘブル 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

聖書はここで、すべての人に定まっている2つのことについて語ります。
その人が金持ちであろうと貧乏人であろうと、成績優秀であろうとなかろうと、
すべての人に定まった2つのことがあるのです。
その一つはすべての人が必ず死を経験するということです。これは、子供でも知っています。 もう一つ我々のあまり知らないことがあります。それは、
すべての人が死後すぐ天国に入るのではないということ、
そうでなく、すべての人は死後必ず、神の前に出て、裁き、裁判の座に
でるということです。そこにおいて、私たちが生前行ったすべての行い、また
語ったすべてのことばに関して神の前で裁判が行われる、ということです。
その裁判の結果、ある人々は命の書に名前が書かれ、無罪放免となり、
永遠の命を受け、天国に入ります。しかし、一方有罪になり、地獄、火の池に入る人もいるのです。以下の箇所にこのことが記されています。

黙示録 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

ここに死後すべての人が通過する裁判の座について書かれています。
そこでは数々の書物が開かれた、ことが記されています。ここに
私たちの生前のすべての行い、発したことばなどがすべて記録されているのです。


そして「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれ」るのです。
すなわち、私たちが隠れて行なった小さな悪事も悪口もすべてが記録されておりそれらに基づいて我々は裁判を受けるようになるのです。


パソコンのハードデイスクには全ての情報が記録されている、ということですが、そのようなものなのでしょうか。その裁判の結果、無罪と認定され、
永遠の命にふさわしい、と認められる人はここに記されている「いのちの書」に
名前の記されている人々です。受験のときの合格名簿のように名前が記されています。キリストの言う全世界を得るより大事ないのちとは、このいのちのことなのです。


しかし、もしここに私たちの名前がここに記されていないと大変です。
「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」と書かれているからです。

どうも聖書で言う死後の世界の区分はこの2つしかないようです。
永遠の命を得るか、もしくは地獄、火の池に投げ込まれるか、この2択しかないのです。

たとえ生前、どれほど、金持ちでハンサムで、もしくは美人で、高い地位についていても死後火の池に投げ込まれてはたまったものではありません。
ですので、私たちは間違ってもこのような結果にならないよう、
努める、用意することが必要かと思うのです。

キリストがいわれた、「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とはこれらの状況を踏まえて語られたことばなのです。今の世界で、たとい、全世界を得るような成功を収めても、死後、結局は
火の池に入り、永遠の命を失うなら、何の得があるのか、という意味合いなのです。

このこと、死後の世界、死後の裁判は全ての人が経験するリアルな
現実です。そのために用意し、死後火の池に入るような事態を回避することが
とても大事なことがらです。次のステップへ

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