K20 私たちは無罪、有罪?

私たちは前の記事で聖書が誰もかれもみな、死後
神の前に立ち裁判の座に出ること、そしてその結果、
死後の行き先が異なることを知りました。

さて、裁判と書きましたが、人間の裁判も何の法律もなしに行われるわけではありません。その国の法律があり、その法律を守る、破る、ということで、
有罪、無罪が決まるわけです。

聖書にも法律、律法が書かれています。私たちは果たして、
その聖書の法律に基づいて有罪なのでしょうか?無罪なのでしょうか?
少し考えて見ましょう。聖書の代表的な教えは、十戒と呼ばれ、10の
守るべき教えがあります。

その中から3つ教えを抜き出してみます。

出エジプト 20:15 盗んではならない。

20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

20:14 姦淫してはならない。

聖書は我々に対して「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」として、
要するに嘘をつくな、ということを命じています。

正直にこの教えと自分の今までの過去の歴史を考えて見ましょう。
私たちは生まれてから今に至るまで一つも、ただの一度でも嘘をついたこと、
事実と異なることを語ったことはないでしょうか?
人の前でなく、神の前に出ることを前提に考えて見ましょう。
そして、もし一度でもあるなら、残念ながら、私たちはこの律法、戒めの前に
有罪となります。

また、聖書は、さらに、「盗んではならない」として、
盗まないことを語ります。この教えに関してはどうでしょうか?
人前でなく、自分の心に語り、素直に振り返ってみましょう。

もちろん、銀行強盗をしたことはないかもしれませんが、しかし、
もらったおつりを返さなかったことなどはないでしょうか?
道で落ちていたお金をそのまま拾って自分のものとしたことはないでしょうか?
または、自販機のおつりが残っていたのを自分のものとしたり。お母さんの
財布から勝手に使ったことなどないでしょうか。
もし、思い当たることが一つでもあると、残念ながら、我々はこの律法に関しても
有罪となってしまいます。

さらに聖書は、「姦淫してはならない。」として姦淫の罪に関しても語ります。姦淫とは、結婚した伴侶以外の異性との関係のことです。また、キリストはさらにこうも語ります。

マタイ5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

たとえ、実際の不倫や、男女関係を持たなくても、自分が結婚もしていない異性に対して、情欲を持って見ることは姦淫を行なったことになると語ったのです。この件に関してはどうでしょうか?

これらの3つの教えは簡単な教えのようにも思えますが、
しかし、実際に全ての教えを完璧に守るのは難しいことがわかると
思います。さて、私たちはこれらの律法を通して自分を省みることにより、
自分がいざ神の前に出て有罪になりそうか、無罪になりそうか、
わかります。もし、有罪になりそうなら、少し心が重いかもしれませんが、
しかし、聖書には福音、グッドニュースということばがあります。
その福音に関しても次以降で述べたいと思います。次のステップへ

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