K21 義人はいない、一人もいない

私たちがもし、神の律法の全ては守りきれていない、
完璧には行えていないことがわかったとして、
私たちはどうすればよいのでしょうか?

未来、死後神の前に出て裁判に出る日を予想して、
その裁きや罰に対して恐怖を抱いて歩かなければならないのでしょうか。
さて、律法、神の戒めやら、教えを通して私たちが一つ知らなければならないことがあります。それは、地上に住む人間は誰一人、神の戒めや十戒を
完全に守り、行なうことはできない、ということです。

このような考えは我々にとり、不本意であり、プライドの許さないことかも
しれませんが、しかし、我々は事実に即して物事を考えるべきです。
医者が患者を診断するときのようによくても悪くても正しい現状、
病状をしるべきなのです。解決はそこから始まります。

ロマ3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」

3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、

3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。

3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」

3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

ここに書かれているように、「義人はいない。ひとりもいない」ということが、
人間のリアルな現実なのです。そしてこの点こそが聖書で言う救いとか、福音とか十字架による贖罪ということの出発点なのです。
医者に病気を治してもらうにも、まずどこが悪いのか、問題なのか
診断した上でないと正しい治療は始まりません。
同じように、私たちがまず神の前において自分の正しい現状を知らないのなら、
適切な方法、永遠の命に至る方法は得られないのです。

エデンの園のアダム、エバの話は聞いたことがあるでしょうか。
聖書は我々人間の最初の先祖であるアダム、エバが
罪を犯したことを述べます。その子孫である我々が、正しいもの、
全ての神の戒めを完璧に守れないものだとしても不思議はありません。
それは残念ではありますが、しかしありえることなのです。次のステップへ

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