K26 火の池のリアリテイ

前の記事で人の死後すべての人が神の裁判の座の前にでること、
そして、その裁判の結果、ある人は天国、ある人は地獄、具体的には
火の池に入ることを述べました。
我々が死後火の池に入る可能性がある、などということばは、
あまり聞きたくもないかもしれません。
しかし、聖書は前述の様に大変信頼できる本であり、
しかも、未来への預言がみな、成就するという、人の世界の本にはありえない
性格があります。ですので聖書の記述をオーバーな表現だとか、
ただの比喩であると結論ずけず、まじめに考えることが必要かと
思えます。

実は聖書の中で死後の火の池に関しては何度も言及されています。
たとえば、以下です。

マタイ5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。“

ここでは、自分の兄弟に対して、ばか者というものは、地獄の火に投げ込まれることが書かれています。たとえ、ことばで相手を馬鹿、とののしってもそれは、重い罰に相当する
罪であり、まさに地獄の火に投げ込まれることに相当する罰であることが書かれているのです。地獄の火は架空の存在でなく、私たちの罪や悪と関係する存在であることがわかります。

マタイ5:29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。”

ここでは、目から入ってくる罪の誘惑に引き寄せられないこと、また、
どうしても罪の誘惑に入るようなら、むしろ目を抜き出してでも罪から逃れるほうが
有益であることが描かれています。もし、体の一部を失っても全身が地獄に投げ入れられない方が益であることが描かれています。

どんな犠牲を払っても罪から逃れることの大事さ、また、
地獄へ入ることのリアルさが描かれています。

ルカ12:4 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。

12:5 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。“

ここでは、自分の今の肉体の命を失うことと比較して、そんなことより、
死後地獄に投げ込まれないこと、その権威を持つ神を恐れるべきことが
描かれています。単に肉体の死を失う、死というより、そのあと、
裁判のあと、地獄へ投げ込まれることのほうが大いに重要で深刻なことであることが
描かれているのです。

これらの記述からわかるように、聖書で言う
地獄の存在はリアルで現実的なものです。
決して架空の存在でもなく、ことばだけの存在でもありません。
私たちは自分の人生を考えるとき、誰でも決して避けることができない、
死後の裁判、そして、罪が許されないまま裁判に出るなら、我々も投げ込まれる可能性のある地獄の火の存在ということを正しく考慮すべきなのです。

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