K23 私たちの罪が許されるためには:

私たちは、すべての人が、死後神の前に出ること、そして
神の前で自分の人生における我々のすべての言動に関して裁判を受けることをしりました。
そのようなことを聞き、私たちはどうすべきなのでしょうか?
一つ大事なことはもし、我々が自分が神の律法やら、教えに背いた道を歩んでいたことを知ったなら、その歩みをただし、悔い改め、正しい道に入ることです。
聖書はこのことに関してこう述べます。

ルカ3:7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」

3:11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」

3:12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」

3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」

3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

ここに書かれているように、神の前に不適切、喜ばれない歩みをしている
人はその歩みをただすことが大事です。

取税人、すなわち、税金を取り立てる役目の人は、
「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」というように、
不正に取り立てたりしないこと、その歩みをただすことが大事です。

兵士たち、すなわち、その時代、権力や武器をもち、人々を監視したり、
治安を守る人々は、「 だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」というように、自分の地位をよいことに
私腹を肥やしたり、正しい人を脅したりしてはいけないのです。

これらを例として私たちは自分の身に置き換えて神の前に正しくないことがあれば、
その歩みをただすことが大事です。

さて、これからの歩みはこのように悔い改めて歩みをただすとして、今まで
私たちがもし、神の前に罪を犯したとして、その以前の罪はどうすれば、許され、私たちはその罰を受けないのでしょうか?

このことに関して以下の聖書箇所を見て見ましょう。

レビ5:1 人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら――彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに――、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。

5:5 これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。

5:6 自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。

5:7 しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。

5:8 彼は、これらを祭司のところに持って行き、祭司は罪のためのいけにえとなるものを、まずささげなさい。彼はその頭の首のところをひねり裂きなさい。それを切り離してはならない。

5:9 それから罪のためのいけにえの血を祭壇の側面に振りかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出しなさい。これは罪のためのいけにえである。

5:10 祭司は次のものも、定めに従って、全焼のいけにえとしなければならない。祭司は、その人のために、その人の犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

この箇所を順に見ていきましょう。

レビ5:1 人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら――彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに――、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。

ここでは、罪に関して書かれています。具体的には、人が
証言をしなければ生けない事態だったのに、また、事件の証人であるのに、
その証言の義務を全うせず、そのために罪を犯してしまった場合、その罪をどのようにして神の前に許されるか、ということがこの箇所で書かれていることなのです。
私たちは罪を原則犯すべきではないのですが、残念ながら、この証言のケースのように、うまく行なうことができず、結果として罪を犯すということもありえるのです。
その場合、その罪をどう対処すべきか、それがこの箇所で書かれていることです。

5:5 これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。

まず大事なことはその律法を破った自分の罪を認め、神の前に告白することです。

病院にいったとき、私たちが自分の病状を正しく認識しないとその治療も成り立たないように、神の前においては、私たちがまず、自分の犯した罪を認識し、神の前に告白して初めてその罪の許しへ進みます。

5:6 自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。

さて、人の罪が許されるために、ここでは、羊ややぎがいけにえの犠牲になることが書かれています。いけにえとは具体的には祭壇で羊が殺され、血が流されることを意味します。
かわいそうという意見もあるかもしれませんが、しかし、
私たちは人の罪の深刻さ、神の前における重大さを理解しなければなりません。
それはちよっと謝ってすむ問題ではなく、命が失われ血が流され、初めて
許されるものなのです。

5:7 しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。

ここでは、お金がない人への配慮が書かれています。もし、羊を買う余裕がなければ、鳩で代用してもよいのです。しかし、方法は同じです。

5:8 彼は、これらを祭司のところに持って行き、祭司は罪のためのいけにえとなるものを、まずささげなさい。彼はその頭の首のところをひねり裂きなさい。それを切り離してはならない。

5:9 それから罪のためのいけにえの血を祭壇の側面に振りかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出しなさい。これは罪のためのいけにえである。

ここでは、鳩が殺され、その血が流されることが書かれています。このことが
罪の許しのために必要なのです。

5:10 祭司は次のものも、定めに従って、全焼のいけにえとしなければならない。祭司は、その人のために、その人の犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

ここで、その人の罪が赦されることが書かれています。
すなわち、羊やら、やぎやら、鳩などの動物の命が失われ、そして
血が流され、その結果、私たちの罪が赦されることが描かれているのです。

そして、罪を赦されるということを考えましょう。それは、
すなわち、私たちが罪の罰を受けない、以前書いてあった、死後の裁き、裁判の座で、有罪の判決を受けず、地獄の火に入らないことを意味するのです。

1億円の借金を負うなら、返すまで借金取りに追いかけられます。返さなければ、刑務所に入ることもあるかもしれません。しかし、我々の代わりに友人が肩代わりして支払ってくれたらどうでしょう?もう、借金取りに怯えることも訴えられることもありません。

同じ意味合いで、神は動物の血が流される時、我々の神への罪の借金が返済され、地獄の報いや罰からまぬかれることを語るのです。

そして、この方法、動物の命が失われ、血が流されその人の罪が
赦されるという方法は旧約聖書に書かれた方法であり、モーセ以来長い間、
旧約の民であるイスラエルの人々が行ない、そして実際に罪を神の前に赦されてきた方法なのです。これにより、人々の罪は許され,そして、人々は、
自分が神の前に負うべき、地獄の罰、罪の罰から免れたのです。

今の時代、新約の時代に住む私たちは実際に羊や鳩を神の前に犠牲としてささげて罪が許されるという方法はとっていませんが、原則や意図は
今も同じであることをしってください。次のステップ

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