K24 キリストの十字架による罪の許し

さて、罪の赦しに関して、旧約時代の方法を見てきました。
今の私たちはキリストが生誕した以降の時代、新約の時代に生きています。
しかし、そうであっても我々が罪を赦されるために必要なこと、その原則は
旧約時代と同じものであることを知ってください。

イエスキリストに関して、バプテスマのヨハネという人は以下の様に
表現しました。

ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

彼はイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と表現したのです。
この小羊とは、前に見た罪が赦されるためにささげられた羊と同じ意味合いです。
ですので、旧約時代にささげられ、犠牲になり、血を流し、命を失った、
羊ややぎ牛などはみな、このイエスの型なのです。本番というか、
神の中心の方法は、神の小羊としてイエスを犠牲にし、その血を流し、そして
その命を犠牲にして私たち一人一人の罪を赦す、という方法なのです。

1ペテロ2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ペテロもまた、ここでキリストの十字架の死は私たちの罪をその身に負ったためだと書いています。キリストの犠牲のゆえ私たちの罪は赦されたのです。

さらにヨハネはこのキリストの十字架の犠牲に関してこう
語ります。

ヨハネ 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

この箇所を見て行きましょう。

ヨハネ 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

人の子とはイエスキリストのことです。人の子も上げられるとは、十字架の上に上げられる犠牲の死のことを語ります。

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

そして、そのキリストの犠牲、十字架の犠牲により、自分の罪が赦されたと
信じる人々はみな、永遠の命を得ます。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神のひとり子とはキリストのことです。神は世を愛し、世に住む我々を愛し、
そして大事なひとり子であるキリストを犠牲にしてでも我々の罪が赦され、
我々が滅びや罰に入らず、永遠の命を得るための道を講じられた、ということがここに書かれていることです。

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

キリストがこの世に来たその理由は世にいる我々の罪を指摘するため、というより、我々が滅びや火の池に入らないため、救われるためであることが書かれています。

3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

神の方法は、キリストが我々の罪のために犠牲の羊のように、
代わりに命を失い、血を流したものは救うという方法です。

そして、キリストを信じた者が救われるのです。
それを信じないことは自由ですが、結果としてその人の救いや
死後の裁き、罰を逃れる道は消えます。

このように、私たちにはあまりなじみのない方法ですが、
神の方法は、子羊であるキリストが、我々の罪の代わり、犠牲になる、という
方法です。これを受け入れ、信じる人は滅びから免れ、救いを受ける、それが
聖書の方法であり、神の方法です。このことを知りましょう。次のステップへ

Silhouette of man with raised hands over blur cross concept for religion, worship, prayer and praise.
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