K17 神は聖書の言葉を保証する

マタイ24:35 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。

人を信頼するというとき、自分のいったことばを守らない人、約束を守らない
人は信用されません。
どんな立派な名言、格好のよいことばも語ることはひとつのことですが、
それを実行することは別のことです。
さて、神は目に見えない方ですが、しかし、その語られたことばを
実行することにより、私たちに聖書の信頼性、この聖書を書かれた方は
信頼できる方であると語っていることを知ってください。

人間の世界でも誠実な人はいて、その語ったことばを
真剣に守る人もいます。聖書の神はそのように否、それ
以上に誠実な方であり、必ずその語ったことばを実行するかたです。

上記聖書箇所で、キリストは自分の語ったことばは滅びることがない、ことを
語りました。天地は滅びるとしても、キリストのことばは滅びないことを
保証したのです。

このように神はまた、キリストはご自分の語られたことばを保証しています。
ただのいいっぱなし、語りっぱなしでなく、今に至るまでそのことばを
保証しておられるのです。

たとえば、キリストは、このようにいわれました。

ルカ 19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、

19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

そのとき キリストはエルサレムの崩壊、そしてこの町が、攻撃され、多くの人々が
滅びる日について涙をもって語られたのです。
この時は時代からいうなら、西暦30年頃のことです。そしてこの場面のあと、
ほどなくして、キリストは恣意的に逮捕され、有罪とされ、十字架の上で、命を
失ったのです。そのあと、このことば、エルサレム崩壊のことばはどうなったでしょうか?
単なるキリストの感傷、思い込みや、想像に過ぎなかったでしょうか?
いいえ、そうではありません。このことばは、キリストの十字架の死の40年後、
西暦70年に正確に成就しました。 、エルサレムの町はローマの軍により占領され、
その町は徹底的に攻撃されたのです。その日キリストのいわれた「敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ」とのことばも、「そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。」とのことばも成就しました。

普通、自分の死後のことなど予想もできないのですが、ひとたびキリストの語られたことばは、どれもこれも正確に成就しました。

聖書にはこれ以外にも多く未来に関する預言が書かれていますが、
それらはみな今に至るまで成就しています。外れたことばなど存在しません。
神はこのように、ご自分の書かれた書、聖書のことばをどれもこれも
責任を持って実現させる方なのです。ですので、私たちは
聖書のどのようなことばにも、それは、神の言葉であり、
そのどれもこれもが責任を持って成就することばであり、
神は聖書で語った約束を破らない方であることを知りましょう。

少し未来の預言について書きましたが、
それ以外にも聖書のことばは信頼に足ることばです。
そのことばは、現代の科学と比較しても非科学的なものではありません。
また、聖書には多くの過去の歴史的な国や町に関する記述がありますが、
それらは、考古学的に実証されています。つまり、想像や、空想話が
書かれた本ではないのです。

このような面も含めて神はその語られたことば、
聖書のことばに自ら責任を持って、我々に接しておられます。
科学の世界の常識も学説も時代とともに変わります。あらゆるものごとが
変わり、変革し、動いており、認識も常識も変わります。
あらゆることが変化するので、何一つ信頼に値するものなどないように思えるのですが、
しかし、唯一聖書のことばは、天地が変化し、滅んでも滅びないものであり、
神は今に至るまで、語られたすべてのことばを守り、行なわれる方なのです。
このことばに耳を傾けましょう。次のステップへ

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