S26 弟子の歩み

聖書を読むとき、イエスを信じた人々、 クリスチャンの中に2種類の
区分があることがわかります。それは、弟子と群集との区分です。

そして明らかに弟子としての歩みにポイントがあります。
弟子はキリストに従い、歩み、キリストの声を聞き、キリストを見ます。
またキリストの働きをにない、そして確実に天の御国にはいります。

一方群集は自分の病の癒しや、パンを求めては集まりますが、
キリストに従いません。また惑わされてキリストを裏切ります。
福音書には一時はキリストを歓呼の声で迎えた群衆が、短い間に
心変わりし、キリストを非難し、彼を十字架につけろと大声で要求したことを
述べます。救い主を十字架につける以上、当然彼らは救いや、
天国からは遠ざけられてしまうでしょう。

イエスは永遠の命に関してこう書きます。

マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

ここから弟子の歩みを学びましょう。

マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

ここに書いてあるように、弟子の歩みとは、キリストに従うとは、
自分を捨て、自分の十字架を負う歩みです。
自分を捨てるのですから、自分の人生の目標だとか、趣味に生きるだとか、
オリンピックに出るとか、スターになる、なんていう自分の好きな道はあきらめなければならないかもしれません。また自分の十字架を負うのですから、キリストのための非難やら、排除など、自分が嫌なことも負う必要があるかもしれません。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

そんな話を聞くと弟子の歩みなど、何も良いことがないように思えますが、そうではありません。「それ(いのち)を見いだすのです。」というように、弟子の歩みにより確実に永遠の命を得ることができます。

「いのちを救おうと思う者はそれを失い」

私たちが今の人生をどのように過ごすのもそれは自由なのですが、しかし、
私たちは今の人生だけでなく、後の世が存在すること、そして、
その区分は永遠の命か、もしくは永遠の地獄かという2択しかないことを
正しく知りましょう。そして、未来のことがらは、今の時代の過ごし方と大いに関係があります。この世において、自分の命、歩み、人生、趣味、楽しみを満喫する、ようするに自分の人生、いのちを救おうと思うものは結果として、次の世ではその永遠の命を失うことになります。今は楽しくても後に永遠の後悔をすることになるのです。

「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

逆に今の世で私たちのいのち、人生、人生の目標、野望、願い、楽しみ、趣味、
出世なども含めてキリストのためにささげ、そしてキリストのために生きるなら、それは、実は、良い選択であり、もっとも大事な永遠の命を得ることになるのです。


そのようなわけで我々には2つの選択があります。それは、
今、この世で自分の人生を謳歌し、大いにエンジョイし、そして永遠の後悔をする道、そしてもう一つは、今の人生も歩みもキリストにささげ、結果として、後の世で、永遠の命を得、もっとも尊いものを獲るようになるかの選択です。

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

さて、これらの2つのうち、どちらが、得か、損か、という判断に関して、
キリストは明確な答えをここで語ります。それは、「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」という答えです。
言うまでもなく、永遠の命を得ることがもっとも大事であり、多少いいえ、多くの犠牲を払っても永遠の命を得ることがもっとも賢い選択なのです。考えるまでもなく、これが結論なのです。

16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

キリストの再臨のときには、それぞれの人はその行いに応じて報われます。
正しく、主のしもべとして歩んだ人には正しい報い、報酬があることを知りましょう。

結論として私たちが好むかどうかは別として、
聖書は明らかに弟子の歩みが永遠の命に近いことを語ります。このことを心にとどめましょう。次のステップ

タイトルとURLをコピーしました