人間の体とは誰でも朽ちます。もっとわかりやすい表現を使えば、誰でも
老化します。可愛く生まれた赤ちゃん、命に満ちた赤ちゃんも100年も
経てば、その体は老化し、皴や白髪が増えてきます。
このことは私たちの住む今の世では普通のことであり、誰も疑問に止めません。
しかし、後の世、永遠の世では、このような体では困ります。前にも書いたように、後の世は永遠の世ですので、そこで生きる我々の体が100年位で朽ちて、老化し、使い物にならないようでは困るのです。
私たちの今もっている 肉体は後の世のことを考えるなら、不完全であり、
能力が足りないのです。このことに関して以下のことばを見てください。
1コリ: 15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
順に見ていきましょう。
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
血肉の体とは何か、というと今私たちが持っている、肉と血からできている
肉体のことです。
「血肉のからだは神の国を相続できません。」
私たちの持っているこの血肉のからだでは、後の世における神の国には入れないのです。宇宙に行くには特別な服、宇宙服が必要だ、ということですが、同じ意味合いで、私たちが神の国に入るとしても今持っているこの肉体は神の国の環境や仕様と適合していないのです。
「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」
我々の今もっている肉体は、朽ちるもの老いるものです。しかし、後の世は、
朽ちない世界、老いない世界なので、この体のまま入っていくことは無理なのです。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
その朽ちない世界に入っていくためには、我々は変えられることが書かれています。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
その変えられる日、死者、すなわち、神の国にはいるべき、しかし、すでに死んでいるクリスチャンは、その体が蘇ります。しかし、その復活とは今のこの世の血肉へでなく、朽ちない体、老いない体へと蘇るのです。
「私たちは変えられるのです。」
死んでいたクリスチャンではなく、そのキリストの再臨まで生きていた、血肉の体を持って生活していたクリスチャンはその日に体が変えられます。すなわち、朽ちる体から朽ちない体へと変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
朽ちるもの、すなわち、我々が今もっている体は、必ず、朽ちない体を着る必要があります。そして、また今の私たちの体、死ぬべき体は死なない体、不死の体を切る必要があるのです。なぜなら後の世は永遠の世であり、死のない世界だからです。
今の私たちにとっては、人が死ぬことはあまりにもあたりまえであり、
誰も疑問ももちませんが、しかし、聖書的にはこの死ぬことは今の世の常識に過ぎず、我々は後の世では不死の世界、死なない世界に入っていくのです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
死は私たちにとっては常識ですが、神にあっては、常識ではなく、アダムエバの時の話のように、人は本来死ぬべきものではなく、死は異常事態なのです。
しかし、このとき、死に対する勝利が与えられ、「死は勝利にのまれた。」ということばが成就するのです。
このように、聖書は明らかに後の世のことに重点を置いています。
今の世は有限ですが、後の世は永遠なのです。
この件に関しても聖書の言うことが真理です。私たちには私たちの常識があるでしょうが、しかし、真理は聖書のことばにあります。このことばに耳を傾けましょう。次のステップへ
