終末の預言解釈

Room of Jeremiah / Interpretation of End days
prophecies.   English (click)

 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれ
か。主の御口が語られたことを告げ知らせることので
きる者はだれか。(エレミヤ書9:12)

エレミヤの部屋へようこそ

通算No.17 パリサイ人からの語りかけ

テキスト:
マタイ16:21
”その時からイエスキリストは、ご自分がエルサレムへ行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。”

福音書の中で、どのような人がイエスの弟子になったのか、またどのような人をイエスが愛されたのかを学ぶことには益があります。同じように、どのような人がイエスを迫害したのか、またイエスを死に至らしめたのかを学ぶことにも語りかけがあります。

聖書はその人達は、異邦人でもなく、強盗でもなく、反対にキリストをもっとも歓迎すべき立場の神の民、ユダの長老、祭司長、律法学者、パリサイ人達だと述べています。

神のことばは純粋なものであり、混じり気のないものですが、それを受けて正しく育つはずのぶどう園、すなわちイスラエルの民は多くの年月の後に神のみこころから大きくずれてしまったのです。

イエスは昔も今も変わらない神のみ子です。ですから、パリサイ人達とイエスとの間に多くの相違、論争、迫害があったことは、とりもなおさず、長い年月の間に神ご自身のみこころと彼等の間に大きなギャップができてしまったことを示します。

そして福音書はパリサイ人、律法学者達とイエスとの関わりに関して多くのページを割いています。多くのページが割かれている以上、何か神が重要なこととして、語っていることがあるはずです。

イエスと彼等とのこれらの相違は人間的にはとても不思議なことです。何故なら、宗教の専門家であり、旧約聖書の預言、内容、教えに熟知していたはずの彼等が聖書の正しい解釈に失敗し、聖書が預言していた方を認めることができず、あろうことか聖書が預言していた方を殺してしまったというのです。しかも、それなのに彼等は自分達は正しく神に仕えていると確信していたのです。

さて、話は変わりますが、ヨハネの福音書の中できたるべき方、聖霊は”もう一人の助け主”と呼ばれています。もう一人という表現はすでに一人助け主がおられることを暗示しています。それは主イエスキリストのことです。

聖書の中にイエスがその公生涯においてパリサイ人、律法学者達と度々、論争したり、争ったことが書かれている理由はなんでしょうか。その理由の一つは助け主、すなわち、人を助けようとしてこの世に来られた方の一番大きな敵、障害は他でもない彼等ー神の民の中心的な人々、パリサイ人、律法学者達であったことを示すためです。彼等は神の民の長であり、律法ー神のことばを守り、安息日を守っていた人達です。だから未信者の型ではないのです。

異邦人よりもむしろそちらに問題があることを示しているのです。キリストは確かに異邦人であるピラトのもとで十字架にかかったのですが、その時彼は象徴的な行いをしています。すなわち、自分の手を洗い、この罪は自分とは関係ないことを示しているのです。

そして、キリストご自身も”長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され”と述べているのです。彼等に問題があるのです。イエスの死は勿論、イエス個人の死ですが、それにとどまらず預言的な性格を持っているのではないかと私は思っています。

イエスはご自分のことを助け主であるといい、聖霊はもう一人の助け主であるといわれました。2人の方をさす時、類似したことばを使用しているのです。

このような類似した表現を用いることにより、聖書は私たちに何かを気づかせようとしているのではないでしょうか。すなわち、最初の助け主の時起きてきた問題は、またもう一人の助け主が来られた時にも起きてくることを。そして、最初の助け主の時、神の働きをとどめた人達はそのままもう一人の助け主ー聖霊の働きをとどめる人達だと語っているのではないでしょうか。

勿論、イエスの時代のパリサイ人、律法学者が生き残ってそのまま聖霊の働きをとどめるということはありえないのです。しかし、彼等は型なのです。彼等のことがらを聖書の記事の中でよく見ると、一つの事実がわかります。すなわち、聖書がパリサイ人、律法学者達について書く時、個人名を書くことはあまりないのです。

例外的に大祭司カヤパとか個人名が書かれていますが、それは例外です。反対にいつでもパリサイ人、律法学者と言うように役職名、職分が書かれています。ですから、聖書が問題にしているのは、彼等の個人としての罪ではなく、役職、職分としての罪なのです。そのはたらきにかかわることに問題があるのです。

イエスは”パリサイ人、サドカイ人のパン種に気をつけなさい”といわれました。すなわち、教会の中に彼等の教えが入ってこないように気をつけるように語られました。そして、このことばを預言的にとらえるなら、将来教会の中でもう一人の助け主ー聖霊の働きをとどめるものはパリサイ人、サドカイ人のパン種であるということをいわれたのかもしれません。

ですから、イエスの時代のパリサイ人、サドカイ人とは現在のどのような働きに相当するのかをみていくことは大事なことだと思います。聖書によれば、サドカイ人は復活も天使も信じていなかったとのことです。今でいえば、理性で聖書のことばをとらえる人達ー近代神学をかかげるような人達でしょうか。パリサイ人達は律法の細かいことには忠実でも偽善的な人達だったようです。

彼等はイエスの時代、イエスを迫害し、その働きをとどめ、しつこく論争をいどみました。そしてついにはイエスの命を奪ってしまったのです。

今の時代にも、聖霊のはたらきーカリスマ的なはたらきに論争をいどみ、この動きは聖書的ではないなどという人々は確かにあらわれてきています。

誰に気をつけなければならないのか、誰が神のはたらきをとどめるのか。このことに関して聖書が語っている警告を正しくとらえて生きたいと思います。

そしてますます正しく主のみこころを行っていきたいと思います。

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