通算No.12 みことばの光を隠さないこと
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マルコ4章21ー23節
”また言われた。「あかりを持ってくるのは桝の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある者は聞きなさい。」”
このマルコ4章にはいくつものたとえが書かれています。またこの章の中で、主ご自身が、”このたとえ(種まきのたとえ)がわからないのですか。そんなことでいったいどうしてたとえ(all parables-聖書の全てのたとえを示すか)の理解ができましょう”と弟子達を叱責されています。主は私達主の弟子がたとえの理解ができるようになることを求めておられます。また同じ章の別の箇所では”イエスは..たとえによらないで話されることはなかった。”ともあります。
それで、ここに書かかれているイエスの”あかり”に関するたとえを理解していきましょう。同じたとえの平行記事がマタイ5:15、ルカ8:16にも出てきます。これらの記事をあわせると客観的な理解ができると思います。(J.N.Darby訳)
この’あかり’について色々な解釈があるでしょうが、私は神のみことばをさすと思います。その理由は「あなたのみことばは私の足のともしび、わたしの道の光です。」と詩編にあるからです。またこのマルコ4章には種まきのたとえを始めとして一貫してみことばについて書いてあるので、文脈の流れからいってもみことばととることに大きな問題はないと思います。また燭台は教会をさすと思われます。何故なら、黙示録に”7つの燭台は7つの教会をさす”と書いてあるからです。
さて、このあかりが神のみことばをさすとして、このたとえは一体何をいおうとしているのでしょうか。実際の世界ではあかりをつけてわざわざ寝台や舛の下に持っていく人は一人もいません。しかし信仰の世界では有り得、本来燭台ー教会の上に置かれ、家の中の人を照らすべき神のことばが、往々にして舛の下や寝台の下におかれ、その光をさえぎられてしまう。そのことをいっているのでしょう。
これらのたとえの中で、みことばの光を暗くするものについて以下の3つを揚げています。(マタイ、マルコ、ルカのたとえも参照)
1.うつわ 2.舛 3.寝台。
当然のことですが、神のことばは神の知恵によって正確に記されたものです。神がもし”石”があかりを隠す、また”食卓”があかりを隠すと書いたなら、それらのことばに意味があるのです。しかしこれらの箇所で主は上記の3つのものが隠すといわれました。それらを通して語っていることがあるのです。さてこの3つは何を意味するのでしょう。それぞれ見ていきましょう。私的解釈ーその言葉のみによる解釈ーをしてはいけないとIIペテロ1:20のみことばにあるので、他の箇所でこの”うつわ”ということばがどう使われているか、客観的に確認することが大事です。ギリシャ語の辞書を見る時わかることはこのことばはいわゆる容器の”うつわ”を差すことです。また別の意味では”神の器”という用法のうつわとしても用いられます。それでこの”うつわ”のたとえがわかってきます。神のみことばの光は本来人々を照らすものですが、しかしその光は往々にして”うつわ”ー神の働き人により暗くなってしまうことがあるとこのたとえはいっているのです。
神の働き人は神のみことばの光をあらわすために奉仕しているので、そのようなことはあり得るべきではありません。しかし、現実にこのようなことはあり得ます。すなわち、我々がよく経験することですが、全く同じみことばを通してメッセージをしても、その受ける光、放たれる光は厳然として違ってきます。器しだいで、神のみことばの本来持っている光は人々に届かず、暗くなってしまうのです。ですから、私たちが神の器として奉仕する時、大事なことがあります。それは決して自分のゆえに神のみことばの光を留め、暗くしないことです。
その次に”舛”が揚げられています。さて舛とは何でしょう。これを通して神は何を語ろうと言うのでしょう。”舛”とは原語の意味は英語訳でgrainn measure、すなわち穀物を測る計量器です。この”舛”ということばを理解するためにテキストのすぐ後の節を理解することが助けとなります。
”きいていることによく注意しなさい。あなた方は人に量ってあげるその量りで自分にも量りあたえられ、さらにその上に増加えられます。(ニューキングジェームスバージョン訳では”自分の使用するその同じはかりで自分にはかり与えられます。聞くものにはさらにまし加えられます。”)持っている人はさらに与えられ、持たない人は持っているものまでもとりあげられてしまいます。”マルコ4:23、24
このたとえでは”はかる”ことに関して書かれています。しかし、何をはかるかに関しては言っていません。それで、漠然としてとらえずらいたとえになっています。しかし、多くの他のたとえがそうであるように、弟子が真に求めていく時、近くに鍵がおかれていることがわかります。
何を量るかの鍵とは他でもないすぐ前の節に書かれている舛ー穀物の計量器です。そしてさらに見ていく時わかることはこの舛もさらに前に書かれている種まきのたとえと関連していることがわかります。すなわちマルコ4章のたとえは、種をまき、穀物が30倍、60倍と実るーあかりのたとえで出てくる舛(穀物の計量器)ーはかることのたとえ というように話が続いていることがわかります。
それで、このたとえが具体的に言わんとすることはこのような意味になります。神のことばー穀物は同じであってもそれを量るために用いる舛はそれを使用する人によって異なるということです。ある人は穀物を自分に量り取るために、1合舛を使用し、他の人は5合舛、更に別の人は1升舛を使用します。自分が持って行った、即ち自分が使用したその舛で量り与えられるのです。大きな舛を持参した人は多く与えられるでしょうが、小さな舛を持参した人には少ししか量り与えられません。
さらに具体的に言うとこれは神のみことばに対する評価について語っているのです。同じ穀物ー神のみことばに対してある人は小さなはかりー小さな評価しか下しません。ある人は大きなはかりー大きな評価を下します。それによって神のことばから受ける恵みの量も異なってくるのです。
さて、このようにたとえを見ていくとき、この舛があかりを隠すー神のみことばを隠すとは何を言っているのか少しずつ見えてきます。すなわち、私たちの舛ー穀物の計量器ー神のことばへの評価が小さかったり、不適切である時、往々にして神のことばの光を暗くすることがあるのです。このことを警告していわれているのです。
ですから、私たちが神のみことばの奉仕をする時、大事なことがあります。それは決して自分の量りが小さく、不適切なゆえに神のみことばの光を暗くしないことです。
さて、3番目の寝台についてみていきましょう。寝台が何の問題があるのか、何故あかりを隠すといわれているのか、一見しただけでは、わかりません。しかし、主は”弟子に全てのたとえを解き明かされた”とはっきり書かれているので、弟子として求めていくときわかっていくのです。この寝台と訳されていることばはギリシャ語のklineという単語です。このことばをよく調べると一つの特徴があることがわかります。それは旧約聖書(70人訳)でも新訳聖書でも、この寝台が出てくる時は必ず病と関係して出てくるのです。病の人がよりかかる寝台としてもしくはこの寝台にいる時、病になるというように出てくるのです。だから、病の寝台とでもいうようなものなのです。神はそような語をこのたとえに使用しているのです。
神は’病の寝台’で、みことばのあかりを隠してはいけないといわれました。それはどういう意味でしょうか。それは、こういう意味です。すなわち、私たちの病は神のみことばの光を暗くしてしまうということです。聖書では、多くの病がでてきますが、それが霊的な弱さ、問題について、関連していわれることが多いのです。例えば、生まれつきの盲人を癒す箇所で、主はパリサイ人達に”あなた達がもし、盲人であったら罪はなかったでしょう。しかし、今あなたたちは見えるという。あなたたちの罪は残るのです。”といわれました。これらの箇所からいえることはめくらー目の病をさして、霊的な目が見えない、弱いことをさしていることがわかります。
またパウロは”あなたたちの弱った手、萎えた足を強くしなさい”といっています。これは肉体の病ーあしなえ等の表現を用いて、霊的、道徳的な問題、弱さをさしているのです。
実際、私たちの霊的な病、弱さは神のことばを語ろうとする時、それを暗くします。自分があしなえー足の病ークリスチャンとしての歩みがよくできない者だったら、”勝利者の歩み”について神のことばを語ろうとしても、どうしてもその光をとどめてしまうでしょう。また目や耳に病があり、霊の目が見えない、耳が聞こえない者だったら、神のことばの光を正確に伝えるのは難しいのです。
主のしもべとして神のみことばの光を正しく解き明かしていきましょう。