通算No.384 神から出たもの
”テキスト:使徒5:35 それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。
36 というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。
37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。
38 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。
39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」”
本日は「神から出たもの」という題でメッセージしたいと思います。
私達クリスチャンは多くの活動、奉仕をするものです。
伝道とかCSとかとか..。
また、主のためということで、色々企画や計画、イベントを起こすものです。
そのこと自体、神のためだから良いことのように思えます。
しかし、一つ我々が知らなければならないことは、全ての奉仕の中には、
「神から出たもの」と「人から出たもの」とがあることです。
これらの2つは異なります。
このことを見ていきましょう。順に見ます。
”35 それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。”
この人々とは、ペテロ、ヨハネ達のことです。
こいつらは怪しい、異端だというのが、当時の宗教家の定説だったようです。
だから、迫害、死刑は当然という理論に行き着きそうだったのですが、しかし、
ここで律法学者ガマリエルが注意を喚起しました。
そしてこの彼のことばは実は神から来たものです。
彼等、ペテロ、ヨハネ達を非難していた人々には思いもかけないことだったのですが、
実は、この働きは、神から出たものであり、
彼等の働きは、この後の世界を一変させ、この働きの実は全歴史、全世界に及ぶものだったのです。
そして、この議会に立っていた人々は「世界に広がる神の働き」をあわや止めるか否かという
重要な岐路に立っていたのです。
その時、彼カマリエルは神からのことばを語りました。彼がそう知っていたかどうかはわかりませんが、
ペテロ、ヨハネの後の活躍を見る限り、確かに彼のこのことばはまさに神からの警告だったのです。
そんなわけで、我々はいわゆる「働き」に関して、正しく
吟味することを求めなければなりません。
何故なら、間違えれば神の働きを妨害してしまう可能性があるからです。
これは、世界的な規模であってもまた日本においても同じです。
人からは「悪く見える」ものが、必ずしも神の前ではそうでないというこの箇所の教訓を
よく知らなければなりません。
もちろん、人にはよく見え、すばらしい物に見えても、実際はそうでないものもあります。
例のトロント、ペンサコーラ等の偽りリバイバルなどもその類でしょう。
”36 というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。
37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。”
神から出たもの、またそうでない物との区分は難しいように思えますが、
ここに非常に単純な見分けが書かれています。
それは、神から出てないものは、結局はつぶれ、消え、消滅してしまうということです。
以下の箇所にそう書かれています。
”38 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。”
「その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。」そうです、
これが単純な結論、またはっきりした見分けです。神から出たものは消えないが、しかし、人からの
物はいずれ消えてしまい、自滅してしまう、これがその見分けなのです。
鉄の棒と木の棒との見分けはとても簡単です。2つを水の中に入れてみれば良いのです。
鉄は沈むでしょうし、木は浮かびます。
同じ意味あいで神から出た働きと人から出た働きの区分は非常に簡単であり、
それは「神から出たものは残り」「人から出たものは自滅する」という原則です。
ここに書かれたチゥダやガリラヤ人ユダの働きがそれであり、彼等の働きは
自分が自称していることと異なり、結局は人からのものに過ぎませんでした。
それで、結局は消えていき、残らず、自滅してしまったのです。
日本の教会歴史においても多くの「働き」がありましたが、見分けは一つであり、
人からのものは消えるのです。
私が知っているだけでも「総動員伝道」等、多くの運動がありましたが、これらは
今はどうなっているのでしょう。もし、残らないのなら、失礼ながら、
それは、結局は神からのものではないのでしょう。
また、多くのいわゆるリバイバル運動に関してもそういえます。
「俺のところの文句をいうのか」なんて怒らないで下さい。私はただ、聖書のいう原則を
語っているだけです。この箇所をそう読む以外にどう読めますか?
さて、このように神の前における原則ははっきりしています。そして、
このこと、これらの働きを見分けるとき、その場合、人間の側の問題があります。
それは、「神に先立って裁いてしまうこと」「神を先おいて、働きを評価し、決定してしまうこと」
です。
しかし、その方法は神の領分を犯しています。ここでいわれているように、
「そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。」という
態度が正しい態度なのです。
「手を引き、放ってお」くのは、何だか消極的のようであり、また何だかするべきことを
していないようですが、しかし、我々が神の領分を犯したり、先んじて間違えてしまったり、
ましてや、神の結論と全く違うことを主張して裁きに合わないためには必要なことです。
いつだか、私の子供が学校の宿題ということで米の種をいくつか持ってきました。
それを蒔いて、水をあげるとしばらくして、稲が生えてきました。しかし、
それとともに雑草も生えてきたようです。何故そういえるかというと、
何種類か形の違う芽が出てきたからです。
雑草は抜くべきなのでしょうが、私はしばらく、そのまま放っておきました。
何故か?都会育ちの私には何が稲の芽か、雑草の芽かわからないので、間違えて
稲を抜いてしまう可能性があるからです。
さらに育ち、大きくなると稲は稲らしい形に育ち、さすがの私にも見分けられるようになりました。
「待ったこと」は正解でした。
さて、同じことが「働き」にもいえるのでしょう。私達の見分けは間違えやすいものであり、
逆に反対の判断をしやすいので、「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。」という
態度が正しい態度なのです。
しかるに私の聞いたところでは、欧米では、「教会のカルト化」などを口実に
色々教会の批判、働きの批判をする「ユダヤ」らしい人々がいるということです。
それこそ、よけいなお世話であり、聖書の原則と異なることを主張していることを
知るべきでしょう。
日本ではどうか私は詳しく無いので知りませんが、しかし他山の石とすべきではないでしょう。
”39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」”
「しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。」と
書かれているように確かにこのことばは成就しました。
この時、ユダヤ人の議会で非難されたペテロ、ヨハネの働きは、何と神からのものであり、
その働きは全世界、この後の全歴史に影響を与えるものとなっていったのです。
確かに彼、ガマリエルの判断は正しく、その勧めに従った人々はこの件において「罪」を犯さずにすみました。
「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」
との彼のことばは重要です。何故なら、今の教会の問題、またキリスト教会の新聞、雑誌の問題は、
「神に敵対する者になってしま」う危険性さえ顧みず、自分の兄弟姉妹の教会を批判しつつあるからです。日本はどうかしりませんが、欧米ではそうなりつつあるようです。
しかし、我々に関してはみことばを超えず、神の方法に従うことに留意しましょう。
終末における主の御心を行いましょう。
ー以上ー
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