終末の預言解釈

Room of Jeremiah / Interpretation of End days
prophecies.   English (click)

 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれ
か。主の御口が語られたことを告げ知らせることので
きる者はだれか。(エレミヤ書9:12)

エレミヤの部屋へようこそ

通算No.116 契約について

テキスト:
ヨハネの黙示録 11:19
”ヨハネの黙示録 11:19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。”

本日は”契約について”という題でメッセージしたいと思います。聖書の契約ということばを通して主が
語っていることを見ていきたいと思うのです。

さて、テキストの黙示録の箇所に、旧約の契約の箱が出てきます。旧約聖書に出てくる契約の箱が教会時
代の最後の時代を記している黙示録に記されているのです。このことは、この契約の箱、そして旧約時代
に結ばれた神と神の民との契約が新約の民、クリスチャンにも関係があることを示しています。

旧約聖書でいわれている契約の基本的な考え方は新約の民にも共通するものです。

聖書は、レビ記、申命記等を通して契約について、以下のことを述べています。

1 神と契約をかわすことによる祝福

2 契約を破ることによるのろい

この2つ、すなわち、祝福とのろいの両面を聖書はいつも語っています。これは旧約において事実でし
た。神の契約を守った、ダビデ、ソロモン等の王達の時代には、神の祝福と守りがありました。しかし、
神との契約を守らなかったアハブ等の王達の時代には、のろいと困難がありました。申命記等で神が何度
も何度も繰り返してイスラエルの民に述べていることは契約の両面です。すなわち、祝福とのろいです。

そして、これは新約、すなわち新しい契約の時代においても事実なのです。古くても新しくても契約とい
う同じことばが使われている限り、その性格は同じなのです。すなわち、契約を守ることによる祝福と破
ることによるのろいは契約に常について回るのです。新しい契約については、このように書かれていま
す。

”コリント人への手紙第一
11:25この杯はわたしの血による新しい契約です。

27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対
して罪を犯すことになります。”

主のパンと杯は祝福なのです。パンは私たちに命を与え、キリストの血は私たちを罪からあがないます。
これは祝福なのです。しかし、もし”ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主の
からだと血に対して罪を犯すことに”なるのです。その結果、教会に弱い者や、死んだ者、病人が多くで
ます。(1コリ11:30)これは契約を破ることによるのろいです。ですから、新約の時代にも契約に
まつわる、祝福とのろいの両面があることがわかります。

新約時代の私たちは確かに主の血にあずかり、値なくして罪をゆるされ、祝福にあずかるものです。その
ことは事実です。しかし、もし私たちが契約を破る、裏切るならこれらの祝福からは外されてしまうので
す。逆にのろわれてしまうのです。新約でもこの原則は同じなのです。この契約の両面を語らない教師は
偽預言者の道を歩むことになります。実際、黙示録には以下のように、主の杯の契約を破る淫婦について
書いてあります。彼女は新しい契約を破るゆえに神の怒り、のろいを受けるのです。

”ヨハネの黙示録 17:4 この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきもの
や自分の不品行の汚れでいっぱいになった金のを手に持っていた。”

イスラエルの民は神との契約を破ることにより契約のもう一つの面、のろいを受けてしまいました。しか
し、このことは新約の我々にも無関係ではありません。逆に新約時代の終り、終末のクリスチャンも神と
の契約を破るゆえのろいを受けることを以下のように、聖書は何度も暗示しています。

a. 裏切る者、ユダ。彼は主の食卓につき、パンとぶどう酒を受け、すなわち、主のいのちとあがない
の恵にあずかりながら、しかしなおかつ裏切る者です。彼は終末の日に神との契約を裏切るクリスチャン
の型です。

b. 1テサロニケ書には、終末には背教がおきることが書いてあります。

c. ダニエル書のアンテイオコス エピフアネスに関する章にも、”荒す憎むべき者”

の時、すなわち、終末の時、契約を破る者と固く契約にたつものとのことが書いてあります。

さて、この”契約”ということばをいくつか聖書から見ていきたいと思います。

1)”申29:13 さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、
ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられる
ためである。
14 しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。

15 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここ
に、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

順に見ていきたいと思います。

”さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた
ように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。”

アブラハム、イサク、ヤコブはイスラエル人の信仰の父祖です。そして、我々クリスチャンにとっても彼
等は信仰の父です。我々も霊的には、真のイスラエル人だからです。我々も神との契約により神が”ご自
分の民とし、またご自身があなたの神となられ”たのです。

”14 しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。

15 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここ
に、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。”

”契約とのろいの誓い”と書いてあります。
契約を守ることによる祝福とそれを破ることによるのろいがあります。契約にはこの2面があり、それは
新しい契約でも同じなのです。

また、この契約はただここにいるイスラエル人だけとではなく、”きょう、ここに、私たちとともにいな
い者に対しても結ぶのである。”と書かれています。これは、イスラエルの後の子孫、また彼等の霊的な
子孫である、我々クリスチャンをもさすことばです。

2)”イザヤ28:14 それゆえ、あざける者たちエルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たち
よ。主のことばを聞け。
15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、
にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽り
に身を隠してきたのだから。」
18あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟はなりたたない。にわか見ずがあふれ、越えてく
ると、あなたがたはそれに踏みみじられる。
19それは押しよせるたびに、あなたがたをとらえる。それは朝ごとに押し寄せる。この啓示をさとらせる
ことは全く恐ろしい。”

”あざける者達”とのことばは2ペテロ3:3の”終の日に、あざける者どもがやってきてあざけり”と
のことばに似ています。”エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たち”とは、教会に集いなが
ら、主の来臨の約束をかたく信じるものたちをものわらいの種にする者たちのことです。

彼等は”私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。”といっています。すなわち、主の救いが
あるから、自分達は大丈夫、滅ぼされることはないといっているのです。

しかし、神は彼等に対して、”死との契約は解消され、よみとの同盟はなりたたない。”といわれます。
契約には祝福とのろい、その2面があることを彼等は知らないのです。彼等が神との契約を守らないので、神が彼等と結んだ契約を解消し、同盟を破ったことを彼等は気付かないのです。これらのことばは神
との契約を破り、裏切った神の民を神が終末にさばくことを述べているのです。彼等が頼みにしていた”
救い”が役たたない日のことを述べているのです。それで、”この啓示をさとらせることは全く恐ろし
い。”のです。

彼等は”私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」”といいます。彼等は神
のことばを曲げ、偽預言者のことば、偽りの教えを喜び、それに安心してきたのです。彼等は自分たちは
患難時代の時には全く大丈夫である、その前に携えあげられるからと偽りの教えに安心してきたのです。

3)ゼカリヤ11:4 ”私の神、主は、こう仰せられる。「ほふるための羊の群れを養え。
5 これを買った者が、これをほふっても、罪にならない。これを売る者は、『主はほむべきかな。私も富
みますように。』と言っている。その牧者たちは、これを惜しまない。
6 わたしが、もう、この地の住民を惜しまないからだ。主の御告げ。見よ。わたしは、人をそれ
ぞれ隣人の手に渡し、王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」
7 私は羊の商人たちのために、ほふられる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名
づけ、他の一本を、「結合」と名づけた。こうして、私は群れを飼った。
8 私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私を
いやがった。
9 私は言った。「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残り
の者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」
10 私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。私がすべての民と結んだ私の契約を破るためで
ある。
11 その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであった
ことを知った。
12 私は彼等にいった。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないな
ら、やめなさい。すると彼等は私の賃金として、銀三十シェケルを量った。
13 主は私におおせられた。「彼等によって私が値づもりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ」そこ
で、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。
14そして私は結合という私のもう一本の杖を折った。これはユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破る
ためであった。”

この箇所の中でも神はその民との契約を破るといわれます。また、慈愛の杖を取り上げ、折ると書いてあ
ります。

さてここでいわれている私の民、神の民とは何をさすことばでしょう。考えてみましょう。旧約のゼカリ
ヤ書に書かれているのだから、ユダヤ人のことだという人が多いかもしれません。もちろん、それもある
でしょう。しかし、一つ見落としてはいけないことばがあります。それは、以下のことばです。

”12 私は彼等にいった。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでない
なら、やめなさい。すると彼等は私の賃金として、銀三十シェケルを量った。
13 主は私におおせられた。「彼等によって私が値づもりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ」そこ
で、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。”

銀30枚、陶器師、これらは他でもない主イエスの十字架の死と関係したことばです。このことがわかる
とこれらのことばのいわんとしていることが開けてきます。すなわち、ここでいわれている民は主の血、
尊い値により買い取られて民、クリスチャンのことをさしているのです。そして、神はその契約を破ると
いわれるのです。

この箇所を順に見ていきます。

”4 私の神、主は、こう仰せられる。「ほふるための羊の群れを養え。”

ほふるための羊、すなわち、殺すための羊の群れを飼えとここでいわれています。羊は我々クリスチャン
のことです。ですから、クリスチャンに対する殺害、さばきについて、このみことばはいっているので
す。

”5 これを買った者が、これをほふっても、罪にならない。これを売る者は、『主はほむべきかな。私も
富みますように。』と言っている。その牧者たちは、これを惜しまない。”

”これを買った者”とは、羊を買った、すなわちクリスチャンをご自分の血であがなったキリストのこと
です。ですから、”これを買った者が、これをほふっても、罪にならない。”とは、羊をご自分の血で買
い取ったキリストがその羊を死にわたすことを述べているのです。

”6 わたしが、もう、この地の住民を惜しまないからだ。主の御告げ。見よ。わたしは、人をそ
れぞれ隣人の手に渡し、王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出
さない。」”

主がその民を惜しまなくなる時がきます。その時、この世の民は神の地、”この地を打ち砕く”のです。
これは、エルサレムー神の民の教会ーが異邦人に踏み荒される日のことです。神はその時、クリスチャン
を救い出さないといわれるのです。

”7 私は羊の商人たちのために、ほふられる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と
名づけ、他の一本を、「結合」と名づけた。こうして、私は群れを飼った。”

羊の商人は羊を自分で飼うために買うのではなく、殺すために買うのです。主はどの時代でも、自分の羊
を生かすため、救うため、飼われました。しかし、神がその羊をほふられるため、殺されるために飼う時
代がくると聖書は述べています。それは、他でもない終りの時、今の時代のことです。

”私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、他の一本を、「結合」と名づけた。こうして、私は群
れを飼った。”

神はその羊を慈愛、すなわち変わらない愛をもって飼われてきました。そして、結合、すなわち、教会内
に一致を保ってこられました。今の時に至るまで、この2つの杖は用いられてきたのです。

”8 私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私
をいやがった。
9 私は言った。「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残り
の者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」”

しかし、70週の満ちる時、すなわち、彼等のそむきの罪がきわまる時、主は今まで、決して言わなかっ
たことばをその民にいいます。
”私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。”
すなわち、1本の杖、慈愛の杖ををもう用いないといわれるのです。

”残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」”
また、もう一本の杖、すなわちクリスチャンどうしの”結合”、一致を破ると言われるのです。

”10 私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。私がすべての民と結んだ私の契約を破るため
である。”

神のその民への慈愛は消え去ったのです。ここで、契約を神は破るといわれます。この時、神の民は、自
分たちを守る保証をなくしてしまうのです。

人間の世界でも、契約が続けられるか、破られるかで、天と地ほどの差があります。
日本は敗戦後、国力的にとても弱い立場でした。どこの国が攻めてきても対抗できないような状態でし
た。しかし、その日本を周りの共産主義的な国々から守る契約が一つできました。それは、日米安全保証
条約です。これにより、日本はずっと米国により守られてきたのです。この契約があるかないかで大きな
違いがありました。同じように、我々クリスチャンの唯一の望みはこのいける神との契約です。しかし、
終末に神がその契約を破る日が来るといわれているのです。

”14そして私は結合という私のもう一本の杖を折った。これはユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破
るためであった。”

この結合の杖が折られたので、兄弟関係であったユダとイスラエルの間に争いがおきます。そのように、
終末の時にはクリスチャンの兄弟姉妹間で、裏切り、争いがあります。そして、一方は他方に裏切られ、
殉教します。これはまた、オバデヤ書に書いてある、エドムによりヤコブが裏切られる時でもあります。

4)”イザヤ24:5 地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約
を破ったからである。
6 それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、
わずかな者が残される。”

ここにも終末の時、神との契約を破ったため、のろわれる神の民について書かれています。その時、かた
く主にたつ人はわずかであることがわかります。

終末における主のみこころを行っていきましょう。

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