終末の預言解釈

Room of Jeremiah / Interpretation of End days
prophecies.   English (click)

 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれ
か。主の御口が語られたことを告げ知らせることので
きる者はだれか。(エレミヤ書9:12)

エレミヤの部屋へようこそ

通算No.88 サレプタのやもめ女

テキスト:
1) ルカの福音書 4:25、26
”わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。”

本日は”サレプタのやもめ女”という題でメッセージしたいと思います。
ここでエリヤの時、シドンのサレプタのやもめ女が3年半の大ききんから守られたことがわかります。このことについてみていきたいと思います。

まず、3年半ということばを見ていきたいと思います。3年半とはいかにも半端な期間であり、独特な期間です。そして、この半端な期間は度々聖書に現われます。この期間は終末の3年半の大患難時代をさします。他にも、この期間をさすのに、ひと時とふた時と半時、1260日、42か月とか色々ないいかたがありますが、みな同じ期間をさします。

この時について聖書の中では、度々警告され、書かれています。その理由はこのように書かれてはいても、その時に至ると多くのクリスチャンが信仰を失い、神から離れてしまうからです。滅ぼされてしまうからです。

大ききんと書いてあります。これは聖書に書かれているみことばのききんと思われます。その時、”イスラエルにもやもめは多くいた”と書いてあります。すなわち、神の民は多くいたのです。しかし、エリヤの助けを受け、ききんの中で命を存えたやもめとそうでないやもめがあることがわかります。この違いは何でしょう。

この二種類のやもめの違いが示すことは大きなことです。この違いはすなわち患難時代に滅ぼされる神の民と最後まで主につく神の民とをさすからです。

さて、このサレプタのやもめ女については1列王記にさらに詳しく記してあります。

2)1列17:7ー16
”7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
8 すると、彼に次のような主のことばがあった。
9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。”

この箇所を順に見ていきたいと思います。

”しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。”

ここで、3年半の間、雨が降らないため、川がかれたことが記されています。
川、雨等、水に関することは聖霊をさします。聖書の他の箇所では、川について、”私を信じる者にはその腹から生ける命の水の川があふれ流れる”と書いてあります。また、聖霊の傾注を前の雨、後の雨と表現しています。

終末の時代は、聖霊の働きがとどめられ、ききんの時代になります。

このことに関して1テサロニケでは、”不法の人の到来をとどめていた者”がとりのぞかれると表現しています。取り除かれるとはKJV訳ではbe gone outと記してあり、追い出されるというニュアンスです。すなわち、教会が聖霊を追い出すのです。それは、ラオデキヤの教会の戸の外にたつ主イエスの姿に端的に表わされています。

”すると、彼に次のような主のことばがあった。”

彼とはエリヤのことです。このエリヤは黙11章に出てくる二人の終末の預言者の型です。また、終末の預言者の詳しい働きはバプテスマのヨハネの働きの中に予表されています。

”さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」”

ツァレファテとは”炉で精練する”という意味です。このことばはこのやもめの受ける患者難時代の苦難、試みを暗示させます。それでは、ツァレファテ以外の他のやもめはどうなのでしょう。もしかすると、他のやもめは必ずしも苦難の中にいないかもしれません。

バビロン王の像を拝さなかったシャデラク、メシャク、アベデネゴは確かに燃える炉に投げ込まれました。しかし、それを拝んだバビロンの他の人達はそんな苦難にはあわなかったようです。ですから、患難時代でも主に忠実であろうとしなければ、必ずしも火のような試練にあわないのかもしれません。しかし、彼女はツァレファテー炉の中にいるやもめであり、終末の時代、主に忠実であるため、苦難を受ける神のしもべの型です。

”ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」”

この粉は麦の粉です。麦の粉は、命のパンであるキリスト、またそのみことばをさすと思われます。油は聖霊をさします。このやもめは”かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油”しかないため、ききんの中で死のうとしています。同じように、患難時代の中で真のやもめー主につく聖徒はもみことばのききん、聖霊のききんにあいます。その中で彼等は”死のうとする”ー信仰的にも肉体的にも死を見るかのようであるかもしれません。

”エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。”

患難時代になったからといって、信仰を失い、恐れてはいけないのです。

”行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。”

ここでエリヤは人間的には非常識なことをいっています。やもめとその子供の最後の食事さえとりあげるようなことをいっているのです。患難時代にも私達が主の真のやもめとして歩むつもりなら、非常識な選択をせねばならないかもしれません。自分の命が危ういのになおかつ、預言者の働きを助けるという選択です。

自分達の最後の食事を預言者にささげてしまうということは何を意味するのでしょう。終末の時代に合わせて考えるなら、自分の命をかけて終末の預言者の働きを助ける、その働きにつくということでしょうか。

”イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」”

しかし、その時、この真のやもめの上に不思議なことが起こると聖書は預言しています。”主が地の上に雨を降らせる日まで”ーすなわち、患難時代が終わる時まで、”そのかめの粉は尽きず”ーすなわちいのちのパンに不足せず、”そのつぼの油はなくならない。”ーすなわち、聖霊の油そそぎはなくならないと主は言われるのです。

”彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。”

終末の日にこのように行うやもめは幸いです。

”彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。”

この真のやもめにつく家族は患難時代の終まで、命のパン、また聖霊の助けに事欠くことはありません。何故なら、そのように主はそのみことばをもって語られたからです。

終末における主のみこころを行っていきたいと思います。

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