終末の預言解釈

Room of Jeremiah / Interpretation of End days
prophecies.   English (click)

 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれ
か。主の御口が語られたことを告げ知らせることので
きる者はだれか。(エレミヤ書9:12)

エレミヤの部屋へようこそ

通算No.570 金持ちとラザロ

”テキスト:ルカ16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”

本日は、「金持ちとラザロ
」という題でメッセージします。ルカの福音書から、順にテキストを見ていきます。

”19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。”

この箇所は、金持ちとラザロの死後の世界を扱っています。
死後苦しむのは、金持ちなのですが、その彼は地上の生活でどうだったのかというと、「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」ことが書かれています。
この細布には、以下の淫婦バビロンについて書かれた麻布と同じギリシャ語が使われています。

「黙示録18:
12 商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、
13 また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。」

ですから、この金持ちとは、たとえと思われ、具体的には、黙示録の時代、
バビロン化してしまったクリスチャンをさすと理解できます。

この金持ちとラザロの話は非常にシンプルな話であり、2人の対照的な人物の結末に
関する教えです。
それは、金持ちと貧乏人ラザロに関しての話であり、金持ちは生前楽しくゆかいにやっていたが、
死後苦しむ、また貧乏人ラザロは生前あまり良いことがなかったようですが、しかし、死後、
アブラハムのもとで復活しており、慰められている、そういう、非常に単純、わかりやすい話です。
そして、この教えの教訓もはっきりしており、金持ちの様な愚かな結末になってはいけない、
そういうことに尽きます。

それで、私達がこの話を聞いてなすべきことは、決して金持ちの結論、結末に到らないことです。

この金持ちの失敗、すなわち、地上では、良い暮らしをしていたけど、
死後恐ろしいさばきに入っていったということは、よくよく教訓にすべきと思われます。
何故なら、はっきりいいますが、私達の地上における、人生は、短く、有限であり、すぐ過ぎ去ってしまう、しかし、後の世の生活は永遠だったり、果てしのないものだったりします。金持ちみたいな
結末に到った後、後悔しても、
後悔先に立たずなのです。

今の世では、金持ちみたいにハッピーな生活を送り、死後今度はラザロみたいに、
アブラハムのふところで慰められる、そんなにうまい結末になれば、ハッピーではありますが、
しかし、そうとは限らないので、何はともあれ、死後後悔しないことを優先すべきでは、私はそう思っているのです。

この金持ちの失敗に学び、それを教訓とすること、そのことが大事と思われます。


20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。”

さて、ここでは、対照的な人物、貧乏人ラザロが登場します。
彼の特徴は、いくつかあります。
一つはラザロという名前です。この同じ名前が他の箇所では、マルタ、マリヤの兄弟である、復活した人として登場します。それでこのラザロとは生き返った人、信仰的には、新生を経験した人と理解できます。

また彼は「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思ってい」ました。終末の日、
金持ちクリスチャンが我が世の春を歌っている時、追い詰められ、迫害され、
メッセージもなく、教理も奪われた、すなわち食べ物がない、しかし、堅くみことばに立つ、クリスチャン、その姿こそ、
このラザロであると理解できます。

おできは旧約においては、ヨブと関連します。
ヨブの苦難は、終末の日と関係しており、終末の日、自分の友からも理解されず、苦難に会う、クリスチャンの姿を表すといえるでしょうか。

彼はこの様に信仰的に正しく、神の前に正しい人であることが想像できるのですが、
しかし、
残念ながら、この世においては、貧乏人であり、あまり良い暮らしをしていませんでした。

この2人の対照的な人物を通して明らかに聖書が語っているのは、この世の暮らし、評価と
後の世の暮らし、評価は異なると言うことです。

今の時代、またこれからの時代のクリスチャンの間違い、勘違いは、彼らが後の世で
天の国に入り、良い評価を望むとともに、この世でもたまものに満ちたクリスチャン、すばらしい名声の
クリスチャン、権威や高い位をものにしたクリスチャンとなりたいと思っていることです。
すなわち、彼らは両方を得たいと思っているのです。

ことにカリスマ、ペンテコステに傾倒している人々にこの傾向が強いです。
もちろん、彼らは表立ってはそんなこと、私はこの世で良いクリスチャン、たまものに満ちた人と大いに尊敬され、良い評判、大評判を得たいとは、いわないでしょうが、しかし、彼らの
行動、行いはそれを如実に表しています。

リバイバル集会、たまものが与えられるという集会は、多くの人々が群れをなしています。
そこで語られている教理が聖書的でなかろうと、またそこで解き放たれている霊が聖霊でなかろうと、
おおきな問題ではないようです。金持ち予備軍が多いのです。


22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。”

貧乏人は、死んでアブラハムのふところに連れていかれました。
貧乏人は、死後恵みを受け、金持ちはそうではなかったのです。
何故貧乏人がそんなに良いのでしょうか?
貧しいことに関してマタイ伝は以下の様に述べます。

マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

心の貧しいの意味合いは霊が貧しいという意味です。
これからの時代、多くの人が変な霊を受け、満腹になっていき、そして
金持ちになるでしょう。しるしと不思議を起こせる霊が
お大いに与えられてくるのです。霊ならば何でもいいとして、たまものが与えられ、名声が
与えられ、クリスチャン仲間の間で、偉くなりたい人々がその霊で金持ちになるのです。

貧乏人とは、金持ちと対照的なことばであり、金持ちがわかれば、貧乏人の
たとえの意味合いが理解できます。すなわち、こんな怪しい霊を受けることを拒否し、
たとえ、しるしと不思議を行なえなくとも神の正しい聖霊に従う人々のことです。

「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」とはまさに
この貧しい貧乏人ラザロに対応しています。彼は貧しかったのですが、しかし、
天の御国に入ったのです。

全世界を襲う、誘惑の日、その大きな誘惑は、金持ちになるぞという
誘惑、たまものに満ちた金持ちクリスチャンになるという誘惑ではと私には理解できます。
たまものがあり、不思議としるしもあり、人々からも名声が与えられ、よいことづくめなのですが、
一つだけ、問題があります。この霊が神からの霊、聖霊ではないことです。
試練、誘惑とはまさにこの一点にあります。
たとえ、貧乏クリスチャンといわれようと神ならぬ霊をうけないでとどまるか、それとも
リッチになる霊を受ければ、それが多少怪しい霊であろうと、犬や馬、鳥、すなわち獣になる
霊であろうと、まあ気にしないでいようという立場に進むのか、何しろ
選択があるのです。

私は前もって語っておきます。それは、キリスト教会のたてまえがどうであろうと、はたまた
偽善クリスチャンの言い分がどうであろうと、残念ながら、これから、世界の多くのクリスチャンは
この霊を歓迎し、悪霊を大歓迎するようになるでしょう。

世の中もおかしくなっており、何はともあれ、手段がどうでも収入がよければ、勝ち組と
胸をはれるようになっています。キリスト教会も全く同じであり、
多少評判の悪い霊であろうと、リバイバル集会であろうと、金持ちクリスチャン、たまもの
クリスチャンになった方が勝ち、勝ち組クリスチャンが勝ちという
風潮が強まるでしょう。
この世にいる間はそれで、通用し、大いに勝ち組になれるのですが、しかし、問題は死後です。
ここでいう金持ちの運命がこれらのリッチなクリスチャンに当然待っています。


23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。”

ここで金持ちが死後すぐにハデスに入ったことが書かれています。
そして、ラザロも死後すぐアブラハムのふところで慰められています。
何故死後すぐというのかというと、この金持ちは、自分の兄弟、今生きている兄弟に関して
アブラハムに願いを語っているからです。

この金持ちがハデスで苦しむのがずっと後、たとえば何千年も後の世の終わりだとしたら、
その時は金持ちの兄弟達もとっくに死んでおり、今生きている兄弟がこんなところへ来ないよう
警告して欲しいとの金持ちのことばは、矛盾しており、意味不明になります。

またラザロがアブラハムのふところで慰められるのも死後すぐのことです。
何故なら、生前二人は知り合いであり、同時代に生きていたからです。そして、
金持ちがハデスに苦しんでいたその同じ時、ラザロ はアブラハムのふところで
慰められていました。金持ちの死と同じ時、もしくはさほど年数の差がなく、彼がアブラハムのふところへ連れていかれたことがわかるのです。

ここでわかることは聖書は明らかに人は死後すぐに2つの運命に分かれると語っていることです。
片方はラザロの様に慰められる場所に入る人、そして他方は、金持ちの様に火で苦しむ人です。
繰り返します。私達は死後すぐにこれらのどちらかに入るのです。

中間はありません。カソリックは天国と地獄の中間の場所、れん獄などと
語りますが、そんな見てきたような嘘にだまされてはいけません。
何故なら、そんなヨタ教理を支持する聖書の箇所は皆無だからです。
カソリックはあらゆる聖書箇所を間違えて解釈しています。マリヤは無原罪だの、キリストと
共同のあがない主だの、子供を何人も生んだ後も終世処女だっただの、ほとんど無茶苦茶です。
あらゆるテストがぺけばかり、どれもこれも間違いだらけの劣等生みたいなものです。
あれもだめ、これもだめのまるでダメ夫、オール1のできん坊みたいなものです。
こんな阿呆たれ教会のいうことをまともにとってはいけません。

繰り返します、私達は死後必ず裁き、判断、テストを受け、2つの道のどちらかに
区分されるのです。ラザロの行ったところか、はたまた金持ちに行ったところか。
ですから、今の私達にとって、いかにその日のための、用意が必要なことでしょう。


24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』”

この時、金持ちは、ハデスで火で苦しみました。
私達はここから深刻な戒め、警告を受けるべきであると私は思います。
この金持ちはどの様な人なのかを考えましょう。父アブラハムという呼び掛けから理解できるように、
彼はアブラハムの子孫、イスラエルの国籍に連なるものだったのです。
イスラエルは旧約の神の民であり、神に愛される種族でした。しかるに彼は
今、何と火の中で、苦しみ、罪の罰を受けているのです。

この物語が新約聖書に書かれているのです。新約聖書は、旧約のイスラエルの民のための
ものでなく、新約のクリスチャンへの警告として書かれたものです。このこと、彼、金持ちが、
アブラハムの子孫、イスラエルの民の一人であることからの語りかけは何でしょう?今の
私達に語りかけるものは何でしょう?

それは、明らかに新約のイスラエル、アブラハムの霊的子孫である、我々クリスチャンももし、神のことばを守らないなら、同じく裁きに会うと言う可能性です。

今ドキの教会は大変、行き届いていて、「どんな罪を侵しても犯しつづけても、クリスチャンと名前が
つけば、全然大丈夫、必ず天国へ行き、裁きになんて間違っても行くことはない」という、
非常にいたれりつくせりの教理が用意されていることは、私も知っています。

しかし、そんなヨタ教理、何ら聖書的根拠のない教理を信じて、いざ、
神の前に出たら、すぐ火の池直行だったらどうするのか?
誰が責任をもってくれるのか?

誰も責任をとってはくれないでしょう。
当たり前のことですが、自分が裁きに会い、火の裁きに会うのは、自分のことなので、
よくよく私達自身が今、この世に命がある間に自分の身を振り返るべきなのです。

ヨタ教理、嘘教理にだまされたとしても裁かれるのは自分なので、今、よくよく自分の身をかえりみるべきなのです。

明らかに聖書は、たとえクリスチャンであっても、神のことばを行わないなら、裁かれることを語っているので、私達はこの金持ちの裁きを他人ごととせず、我が身を振り返るべきなのです。

私達の人生は、この世で終わるわけでなく、死んだ後の世界があり、しかも
場合によっては、神の民の一人であってもみことばに逆らうなら、裁きに会うこと、火の裁きに
会うことを思うと、慄然とするものがあります。

そんな厳しい教えと思うかも知れませんが、これが、聖書の教えであり、聖書の基準なのです。


25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。”

ここでは、金持ちが生前良いものを受け、しかし、死後、苦しみに会っていることが書かれています。
逆にラザロは生前悪いものを受け、死後良いものを受けました。

片方で良いものを受けると、後の世で悪いものを受ける、またはその反対、
何となく単純な理屈に思えますが、どうもこれが、聖書の標準パターンの様です。
そしてもしそうなら、私達はよくよくこの世での生活、今、肉体をもっている
時の生活を考え直すべきでしょう。

今のことだけ、この世のことだけを考えた生活は、非常に、短絡的であり、
思慮がありません。
逆に今のことだけでなく、後、神の前に裁かれる日を考慮し、その行いをただす人は、
思慮のある人です。

この世で良い生活ができればそれに越したことはありませんが、しかし、
それのみ優先するのは本末転倒です。
たとえ今の世で貧乏であろうと、人から悪口をいわれようと、はたまたカルト扱いされようと、
神のことばを優先する人が、後の世でアブラハムのふところで慰められる人です。
逆に今の世で、悪霊リバイバルに率先参加し、また、エキュメニカルに大賛成し、
また、過激な原理主義者、すなわち、聖書に忠実な人々に嫌悪感を示せば、この世に迎合した、
キリスト教会では、拍手喝采、また、この世の人にもほめられ、めでたく金持ちの部類に分類されるでしょうが、しかし、後の世で何が待っているかは定かではありません。

この世で良いものを受けるため、多くの神のことばを無視し、ねじまげるなら、この話の
金持ちの様な来世が待っている可能性があります。

この世で良いものを受ける人は残念ながら後の世で、悪いものを受け、苦しむ可能性が大いにあることをこの箇所は明らかに語ることを知りましょう。


26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』”

ここでは後の世の場所の構造について書かれています。
すなわち、ラザロの慰めの場所と、金持ちの火の裁きの場所とは、
互いに行き来ができないことが書かれています。

すなわち、後の世における裁きは厳格に行われ、徹底して行われ、
同情の余地も、ないのです。もし、私達が裁きに放り込まれたのなら、最後の
1コドラント迄、払い終わる迄、決してそこから出ては来れないのです。

ああ、何ともはや恐ろしいことでしょうか。
だからこそ、こう書かれていることをはっきりと覚えてください。

”マタイ5:25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。”

私達はまだ道にある間、生きている間に、告訴する人、神と和解しなければなりません。
全ての罪を解決しなければならないのです。


27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』”

さて、金持ちは今度は、アブラハムに対して、ラザロを送り、まだ生きている
自分の兄弟に警告してくれるよう頼みました。
このことを通して、私達はこの金持ちが苦しみの場所に入ったのは、死後すぐであることがわかります。
何故なら、まだ金持ちの兄弟が5人とも存命中なのに、彼、金持ちはすでに火の中で苦しんでいるからです。

そう、私達は死後すぐ、慰めの場所に入るのか、はたまた苦しみの場所に入るのか、裁かれ、そして、
すぐそれぞれの場所に入るのです。そして、その結果は、長いものになります。

このことを通して私達は何を学ぶべきなのか?
それは、私達の今の生のすぐ後に迫っている現実に目をとめることではないか、と
思われます。

死の備えのために何をすべきか?
ある人は墓を買い、墓地を買い、また葬式の段取りも前もって用意したので、大丈夫だと
いいます。

それは、用意のよい話ではありますが、しかし、それだけが備えというのなら、
愚かな話です。何故なら、
私達は誰でも例外なく、死後すぐに神の前に出て、裁かれ、そして、
その後、それぞれの場所、慰めの場所か、もしくは金持ちが苦しんだハデス
かに行くのです。

千の風ではありませんが、いくら立派な墓を作っても「そこに私はいません」ということになるのです。
そこにいなくて、どこにいるのかというと、勿論千の風になるのでもなく、聖書のいう通り、
慰めの場所か、金持ちが苦しんだハデスかどちらかに入るのです。

その為に我々は用意すべきであって、立派な墓ができたから大丈夫だなんて、全く無知なことばです。

”28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。”

この日、アブラハムを父と呼ぶ、旧約の神の民、イスラエル民族の独りであったこの金持ちは、
裁きに会い、ハデスで火の苦しみに会いました。
神の民でも裁かれるのです。
そしてこのことは、明らかに新約の神の民、クリスチャンも、もし、みことばを行わないなら、
裁かれる、もっとはっきりいえば、火の裁きに入ることを語っていると理解できます。
こんなことをいったら、異端になるのか、はたまた、カルトといわれるのかもしれません。

しかし、明らかに神のことばが語っていることを語らないわけにはいきません。
私達は神を恐れるべきであり、人から悪く言われることや、異端呼ばわりなどを恐れるべきではありません。

私達クリスチャンはこの金持ちの言葉を軽視せず、自分の身を顧みるべきなのです。

”29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』”

死後、慰めの場所へ入る人とはたまた、ハデスで火の苦しみを受ける人との差は何なのでしょう?
この箇所からわかること、それは、明らかに「モーセと預言者」に聞くかどうかの差なのです。
、モーセと預言者はもうこの時代、イエスの時代にはいません。ですから、ここでいわんとしていることは、モーセという個人と言うより、モーセで代表される律法、また預言者の預言書、そしてこれらからなる、聖書のことを言っているのです。いわんとしていることは、
みことばに聞くかどうかがその人の死後をきめると言うことを言っているのです。

新約の私達にとっては、旧約聖書に限らず、聖書のみことばが語っていることを聞くかどうかが、
後の命がどうなるかを決定するといえるでしょう。

今はどういう時代でしょう?
今は神の民があらゆるへ理屈や理由を述べて神のことばを行わずみことばにきかなくなっている時です。
ある人々は、福音の総合理解だののヨタ理論を作り上げ、合法的に(?)、神のことばを行う必要なしと
公言します。
そのヨタ教理とは?たとえば、こんなあんばいです。

1. 良きサマリヤ人の話では、良きサマリヤ人のことを述べた後、キリストは、
「あなたも行って同じ様にしなさい」と述べている。

2.しかし、今はやりの教理、福音の総合理解によれば、そうは書かれていても
我々クリスチャンは決してイエスのこの命令を守る必要はない。

3.何故なら、我々クリスチャンは、神のすばらしい恵みと恩寵のゆえに
あらゆる行いから解放されているからである。

4.我々は個々のみことばで一喜一憂するのではなく、神はあらゆる行いから、
我々を解放し、あらゆる罪からでも救うという無尽蔵の神の愛、
びっくり仰天、ひっくりかえる程、果てしもつかない程、どこまでもしつこく
許すという我々の贈像を超えた愛のみのお方、というこの「福音の総合理解」の
下で、あらゆるみことばを見直し吟味すべきである。

5.そして、この良きサマリヤ人の話の様に、「あなたも言って行いなさい」とのことばが
あってもすぐ行いに目がいくようでは、まだまだ修行が足りず、
神の愛を正しく理解していない。

6.福音の総合理解に基づき、こんなみことばは無視し、軽視し、
行いなど何ら気にする必要はない。
——

福音の総合理解とは、この様に神の果てしない愛と福音の底なしの許しに基づき、すべての
ことばを見直すと言う、すばらしい画期的な教えです。
そして、恐らく金持ちと同じ運命をたどるクリスチャンが好んで、賞賛する教えでもあります…。

この様な愚かな教理を真に受ける人もいるということで情けない限りではありますが、
しかし、惑わされようとなかろうと、私達の死後の裁きは、モーセと預言者にきくかどうか、
すなわち、神のことばを行うかどうかで行われることを覚えましょう。

繰り返していいますが、アブラハムの子孫であるこの金持ちはモーセと預言者にきかず、
神のことばを行わず、結果、火の裁きにあったのです。同じくアブラハムの霊的子孫である、我々クリスチャンもみことばを行わないなら、金持ちと同じ裁きに会う可能性は大いにあるのです。

この様に論旨展開することは、合理的であり、聖書的です。そうではあっても、
今ドキの背教教会には、受け入れられないかも知れませんが、しかし、
この箇所について私はこう書きます。後の判断は自己責任ということになります。


30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』”

死んだ者が生き返って警告に行くなら、彼らも悔い改めるに違いないと
金持ちはいいます。しかし、アブラハムの答えは、以下の様につれないものです。


31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”

この件に関してどちらが正しいかというと、アブラハムのことばが正しいのです。
何故そういえるのか?

この貧乏人の名前、ラザロと同じ名前は新約聖書の中で、死人から蘇った人として、
使われています。
すなわち、ラザロこそ、ここでいわれている、死人から生き返った人なのですが、
しかし、残念ながら、この当時の人々は彼に聞き、悔い改めることはしませんでした。
少しは悔い改めた人がいたかもしれませんが、しかし、全ての人ではありません。
同じことは、主イエスの復活の時にもありました。蘇ったキリストのことを聞いても、
しかし、全ての人々が悔い改めはしなかったのです。

まとめますが、聖書は明らかにアブラハムを父と呼ぶ、旧約のイスラエルの民の一人である
金持ちも神のことばを行わない時、死後火の裁きに入ったことを述べます。

同じく、新約のイスラエルの民である、クリスチャンも神のことばを
行わないなら、待っているのは火のさばきなのです。

このことを恐れましょう。

終末における主のみこころを行いましょう。

ー以上ー

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