終末の預言解釈

Room of Jeremiah / Interpretation of End days
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 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれ
か。主の御口が語られたことを告げ知らせることので
きる者はだれか。(エレミヤ書9:12)

エレミヤの部屋へようこそ

通算No.44 バビロンの知者

テキスト:
ダニエル2:1ー11
1 ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。
2 そこで王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた。彼らが来て王の前に立つと、
3 王は彼らに言った。「私は夢を見たが、その夢を解きたくて私の心は騒いでいる。」
4 カルデヤ人たちは王に告げて言った。アラム語で。「王よ。永遠に生きられますように。どうぞその夢をしもべたちにお話しください。そうすれば、私たちはその解き明かしをいたしましょう。」
5 王は答えてカルデヤ人たちに言った。「私の言うことにまちがいはない。もし、あなたがたがその夢とその解き明かしとを私に知らせることができなければ、あなたがたの手足を切り離させ、あなたがたの家を滅ぼしてごみの山とさせる。
6 しかし、もし夢と説き明かしとを知らせたら、贈り物と報酬と大きな光栄とを私から受けよう。だから、夢と説き明かしとを私に知らせよ。」
7 彼らは再び答えて言った。「王よ。しもべたちにその夢をお話しください。そうすれば、解き明かしてごらんにいれます。」
8 王は答えて言った。「私には、はっきりわかっている。あなたがたは私の言うことにまちがいはないのを見てとって、時をかせごうとしているのだ。
9 もしあなたがたがその夢を私に知らせないなら、あなたがたへの判決はただ一つ。あなたがたは時が移り変わるまで、偽りと欺きのことばを私の前に述べようと決めてかかっている。だから、どんな夢かを私に話せ。そうすれば、あなたがたがその解き明かしを私に示せるかどうか、私にわかるだろう。」
10 カルデヤ人たちは王の前に答えて言った。「この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデヤ人に尋ねたことはかつてありません。
11 王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」

本日はバビロンの知者という題でメッセージをします。
ダニエル書の一つの特徴はその中で夢や啓示が与えられ、そのときあかしが難しいということ、それをどうやって解くかという話が多いことです。しかもその夢は終末にかかわるものが多いのです。

ここでも王は夢をみました。この夢は世界の終末に至るまでの重要な夢ですが、それを解きあかす知者がバビロンには誰もいなかったのです。

このダニエル書の中にも神はたとえを置かれたと私は理解しています。バビロン国は終末に現われる淫婦バビロンー終末の教会ーの一つの型です。ダニエルを始め、迫害にあうユダヤ人達はこのような状態の中におかれても真に神に仕えることを求める神の民の型です。特にダニエルは終末の預言を神の知恵により解いていくしもべ、教師の型です。バビロンの知者、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人、星占い達はダニエルと同じような位置に置かれています。彼等も夢の解き明かしをするべき人々だからです。知者は神の知恵とは書いていないから、人の知恵に頼る人々でしょう。原語をみると呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人ということばのいくつかは占星術と関係あるようです。また、星占いも当然関係あります。彼等は太陽、月、星すなわち、天体に伺うものです。太陽、月、星等の天の万象は神の器達です。だから、霊的に理解するなら、器の力で終末の預言を理解しょうとする者たちです。聖書解釈者の力量、能力、知恵で夢の説き明かしをしょうとする者たちなのです。

そして、彼等に共通する特色があります。彼等はバビロンの人々なのです。
決してダニエル達のように、ユダヤ人でありながらバビロンに仮に住んでいる人ではないのです。彼等はバビロンに属する者達であり、ユダヤ人とは民族が違うのです。これは全くバビロン化されたクリスチャンのことを例えているのではないかと私は思っています。

終末には教会がバビロンという名前で呼ばれます。同じようにここにバビロンに属する人々がいるのです。

彼等の人数は多くても正しい解釈は出てきません。バビロンの多くの知者にはこの夢のときあかしができなかったことに注目して下さい。終末にも多くの聖書学者が出るでしょうが彼等の多くは正しい結論に行きつきません。

なぜバビロンの知者にはとけなかったのか。逆にダニエル シャデラク、メシャク、アベデネゴ達にはこの夢が解きあかされたのか。その違いを考えることは大事です。

ダニエル2:17、18
17 それから、ダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナヌヤ(神が喜ぶ者)、ミシャエル(神がおられる者)、アザルヤ(神が助ける)にこのことを知らせた。
18 彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。

これらの節を見てください。これは、ダニエルの問題なのに、聖書はわざわざハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤ達を登場させています。彼等はこの夢の説き明かしに、それ程役にたったとも思えないのですが、とにかく登場しているのです。このことを通して聖書は何をいわんとしているのでしょうか。

実はここで、神は対比をしているのです。2種類の人々がいます。どちらも同じバビロンの国の中にいます。かたや、真のユダヤ人達、すなわち、”神が喜ぶ者、臨在する者、助ける者達”。かたやバビロンの知者達、この2種類の人々を対比させ、どちらにこの夢のときあかしが与えられるかを見るように神は我々に語っているのです。この書の中で、夢や謎を解く時、必ず2種類の人々が出てくることに注目して下さい。そして、一方の人達ーバビロンの知者達には、神の啓示が決して解けなかったことを覚えてください。

バビロンの知者とダニエル達とは属している民族が違います。そしてそれが決定的な区分なのです。人が終末の預言の説き明かしを求めるとき、神はその民のよって立つ位置に目をとめられます。学問があれば、頭がよければ終末の預言を理解できるというものではありません。私たちが聖書を学ぶとき、自分がどういうものか、ダニエルの様に真のユダヤ人として立っているか、それとも知者たちのようにバビロンに属する者なのかを顧みることは大事です、それによって開かれることは違ってくるからです。

神は終末において二つのことを定めています。それは、終末の預言を真の神のしもべに開くこと、そして”バビロンの知者たちをことごとく滅ぼす”ことです。

何故終末の預言はこんなに難解なのでしょう。もう少しわかりやすく書いてくれれば理解できるのに、そうすれば誰でも間違えずに読みとれるのにと思わないでしょうか。
誰でもそう思うでしょう。しかし、私は最近少し違った語りかけを受けています。神は必ずしも全ての人にこれらの預言を理解させようとは思っていないのではないかと教えられるのです。
よく有名大学の入試問題が難しい、あれは難問奇問だといわれます。たしかにその通りです。しかし、これらの問題には意図があります。すなわち、これらの入試は全ての人を合格させることを意図していません。だから、問題は全ての人が解けることを想定していないのです。解けない人がいて当り前なのです。

同じことが終末の預言にもいえると思えます。これらの預言は全ての人に正しく解釈されることを意図していないのです。逆に真の神のしもべにはわかるようになっているのです。悪いいいかたをすればわなのようなものです。”その日はわなのようにのぞむ”と書いてあります。

このテキストの節に書かれている場面はそのまま終末の場面に適用できます。王はバビロン中の知者達を集め、そこで終末にかかわる夢とその解釈を明かすよう彼等に求めています。

終末にも全く同じ状況がおきます。神はバビロン化された教会の知者達、すなわち聖書解釈者、教師達にこのように命じておられます。聖書に示された終末に関わる預言とその正しい解釈を述べよ。

この解釈が正しくできるかどうかで知者達の結果はまるで違ったものになります。正しく解ければ、王からの大きな誉れと財宝。もし正しく解けないなら、大きな罰と命を失うこと。

終末の時代に終末の預言を解釈する立場の解釈者、教師はバビロンの知者達と全く同じ立場に立っていることを気付かなければなりません。すなわち、正しく解釈し、民を正しく教えられるなら、多くの誉れと宝を神から受けるでしょう。しかし、もし間違った解釈を語り、間違った歩みをするなら、民も自分も滅ぶでしょう。また裁きにあうでしょう。目の前に二つの可能性があり、その結果は大きく異なるのです。

”バビロンの知者達をことごとく滅ぼせ”ということばが神の命令です。この終末には、あらゆる種類の聖書解釈、多くの間違った預言解釈があります。間違った解釈がなされても、神はそのことに今は何もいっていないかのようです。しかし、その日に知者達は滅ぼされてしまうのではないでしょうか。彼等のことばが正しいかどうかは終りの日にはっきりとわかるでしょう。

”夢及びその解き明かし”を示せといわれていることに注目して下さい。解き明かすだけでなく、夢そのものを示すこと、このことはバビロンの知者達にはとても難しかったのです。”王よ。しもべたちにその夢をお話しください。そうすれば、解き明かしてごらんにいれます。”これが彼等の反応でした。
しかし、王は”だから、どんな夢かを私に話せ。そうすれば、あなたがたがその解き明かしを私に示せるかどうか、私にわかるだろう。”といわれます。
ここで、神は特に夢を示すことについて語っていることがわかります。これは何を意味しているのでしょう。単に説き明かしだけでなく、夢を示せということで何を神は語られているのでしょう。

個人的な見解ですが、私は夢とは聖書に隠されている終末の啓示のことではないかと思っています。
この夢は神が王に与えた終末に関する夢です。しかし、知者達にとってはそれを示すこと、このことが難しいのです。何がその夢であり、啓示なのかを見い出すのが難しいのです。

今の私たちの立場に置き換えるなら、こういうことではないかと私は思っています。神の与えた聖書は私たちの目の前にある。しかし、難しいのはいったいこの厚い聖書のどこが終末の預言であり、どこがそうでないのかを示すこと。これが難しいのです。

王はどんな夢かを知者達が示すことができれば、彼等が本当にその解き明かしができるかどうか判断できるといいました。これは聖書の預言においても同じです。難しいのはその預言を示すことです。

”ダニエル2:27、28
27 ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。
28 しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。”

多くの人はどんな預言でもよくみことばを研究すればわかると思っています。しかし、そうではありません。特に終末の預言に関しては我々肉なる人にはわからないと思ったほうがよいのです。イエスの時代にも聖書は手にもっていたものの、キリストの到来に気づかず、ほろびを招いてしまった人がたくさんいたのです。恐らく終末にも同じ様なことがおこるでしょう。

正しい解釈は神のうちにあります。ダニエル書にはバビロンにダニエルが現われて、誰も解けなかった夢を解いたことを語っています。同じように、終末の教会ーバビロンにおいても、少数ではあるが、正しく解釈する人達が現われてくると思われます。しかし、その場合でも強調点はあくまで、神が示すということ、神の知恵によるということです。
主はこの終末に民を区分しょうとしています。同じ終末の預言を民に与えているが、しかし、それをとくものと、理解できないものとの区分です。南の女王のようにキリストの知恵を求めたいと思います。

ダニエル5:12
”王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。”

この節に注目して下さい。ダニエルは終末の時代に正しく神の啓示を解釈する教師の型です。
ここで書かれているダニエルを形容することばに注目して下さい。これらのことばはダニエルを個人崇拝するために書かれたものではなく、その教師の資質を説明するために我々のために書かれたものなのです。

これらを見ていきたいと思います。

<すぐれた霊>
正しい聖書の解釈は聖霊が与えられるものです。そのためには、われわれの霊が悪い霊でなく、良い霊、すぐれた霊であることが大事です。

<知識>
知識を求めるということを怠ってはいけません。聖書には多くのたとえ、謎が隠されていますが、それらは無秩序に語られているのではなく、神の秩序、方法で語られています。また、聖書の中であちこちに解釈の定義が語られています。”麦”は何をさすか、”家”は何をさすか、また”イエスはたとえによらないで語ることはなかった”ということばによってです。それを正しく”知識”として自分のものとしないと、たとえや謎を読み取ることはできないのです。”みことばに仕える”ことはできないのです。

<夢の説き明かし、なぞをとくこと、難問を解く理解力>
正しい解釈をすることです。聖書の多くの箇所には謎がかけられていますが、その謎をとくこと、そしていくつかの箇所は非常に難しいのですが、それを理解することができることです。

以上の資質を求め、その上で訓練がないと終末の預言は開かれてきません。

ダニエル5:5
”すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき”
5:16
”しかし、あなたは解き明かしができ、難問を解くことができると聞いた。今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう。」”

前の章では夢とその説き明かしについて語られています。そこでは大きな強調点がその夢を解釈することに置かれていました。さて、この章では、人の手が壁に出てきて、人々には理解できない文字が書かれました。ここでも誰一人この文字を読むことも、理解することもできませんでした。神の知恵の宿る人、ダニエルによって初めてこの文字を読むことができたのです。

夢の時と同じように、この箇所を通しても神が我々に語っていることがあります。それは神が書いた文字を私たちが読み、正しく解釈できるかどうかという問題です。

この文字とは何でしょう。ここに現われた手は人の手だと書かれています。しかし、またそれは神から送られたのだとも書かれています。この手の指(複数)と文字は何をたとえているのでしょう。これは、実は聖書をたとえているのです。聖書は確かに人の手により書かれた本です。しかし、同時にこれは神から、送られ、与えられたものなのです。それが聖書の不思議なところです。

そして、”その文字を読み、その解き明かしを私に知らせるなら”と書いてあります。
ネブカデネザル王が夢及びその解き明かしを求めたように、ここでもこの文字を読むこと、及びその説き明かしを求めています。

夢を示すことと文字を読むこととは同位置に置かれています。これは同じことをさしているのです。聖書を読む時、難しいのはそれを読みとることです。例えばアブラハムがイサクを捧げるという記事、これを普通に読むならただ、神に真実に従い、自分の子さえ捧げた信仰者の姿があるのみです。アブラハムはりっぱな信仰者だなあということで終わります。勿論それもすばらしいのですが、しかし、これだけでは”その文字を読”んだことにはなりません。ここには、一人子さえ惜しまなかった父なる神がたとえとして、隠されているのです。それを読みとらなければ、真に”その文字を読”んだことにはなりません。終末の預言も聖書のあちこちに書かれています。思いもかけないところに隠されたような形で記されています。しかし、それを読み取ること、どこに何が書かれているのか”その文字を読む”こと、これが難しいのです。そして、それを読めたなら、解釈は続きます。

聖書には終末に関する多くの記事が隠されていますが、人の力では理解不能です。我々はそれを読んでいるようですが、実は読んでいないのです。読むことも理解することもできないといった方が正しいのです。しかし、神の知恵にある時、これを理解することができるのです。このことをこのできごとは語っているのです。

どうぞ、神が繰り返し、繰り返し、語っていることに目をとめてください。人の知恵では、終末の預言、夢、謎は解くことができないのです。人の力ではこれらのことは理解できないのです。
しかし、神の知恵により正しく解くことができるのです。

ますます終末にあって主に仕えていきましょう。

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