通算No.5 たとえを理解する
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マルコ4:10~13
”さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず(eido)、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」そして彼らにこう言われた。「このたとえ(this parable)がわからない(eido)のですか。そんなことで、いったいどうしてたとえ(all parables)の理解ができましょう。”
たとえは理解することを求められている
マルコ4:13は日本語訳の聖書では意味がはっきりしません。英語で読むとわかりやすいです。”このたとえ(this parable)”とは種まきのたとえのことです。この節の後のほうにでてくるたとえは英語訳で、all parablesとなっています。すなわち、この節でイエスが述べていることはこういうことです。このたねまきのたとえがわからないなら、聖書に書いてある全てのたとえをどうして理解することができるか。たとえを理解するという訓練がしっかりできていない。しっかりしなさいということです。いわば、この種まきのたとえは弟子達のたとえの理解度をためす試験のようなものだったのでしょうか。
このことばはイエスが種まきのたとえを解説する前にいわれたことばなので、たとえを理解するということは、イエスの種まきのたとえに関する解説をきいてああなるほどということでないことがわかります。それなら誰でもわかるのです。そうではなくて、弟子である彼等はこの種まきのたとえをきいた時点で、イエスの解説なしにはっきりと理解すべきだったのです。
このたとえを理解するという訓練はいやしや悪霊追い出しとともに、イエスの弟子たるものしっかり訓練すべきことなのです。弟子たちが子供にひきつけを起こす霊を追い出せなかったとき、イエスは叱責されました。キリストの弟子とは、悪霊を追い出すべきものなのです。同じようにたとえを理解できなかった弟子達をイエスは叱責されました。キリストの弟子は聖書のたとえを理解できなければいけないのです。
このように、聖書のなかで、キリストは、たとえを理解することを弟子たちに求めています。ヘブル語やギリシャ語に堪能でないから、また聖句を暗記してないからとキリストが弟子達を叱責している箇所はありません。しかしキリストは弟子達がたとえを正しく理解できない時、叱責されているのです。
そもそも、聖書の学びや、読み方、理解の方法についてキリストが何かを弟子達に語っていること自体まれです。それで、このたとえを理解するということには、何か特別に重要なことがらがあるのです。そのような訳で、私たちはキリストがたとえについて語っていることをみことばを通して注意深く学んでいきたいと思います。
「見るには見るがわからず」とイザヤ書から引用された言葉には、イエスが「このたとえがわからないのですか」といわれたことばと同じギリシャ語eidoが使われています。それで、イエスがこれらの節からいわんとしていることはこういうことになります。すなわち”ユダヤ人たちは見るには見てもわからなかった(eido)。そしてあなた達もわからない(eido)。しかし、それでは弟子としてはまずい。”
ユダヤ人が見すごしてしまったこと
このイザヤ書のことばは、直接的にはユダヤ人たちのことを指摘した言葉です。彼等の問題は何でしょう。イザヤ書のこのことばによれば、せっかく自分の目で見ておきながら、理解せず、自分の耳で聞きながら、悟らなかったことです。即ち、彼等には、旧約聖書の全ての預言が与えられており、そこに来るべき方、メシヤについて記されており、彼等はそれを安息日ごとに読みながら、その聖書のことばを悟らず、来るべき方を正しく受けることができなかったのです。(使13:7)
彼等の失敗は何でしょう。ここで、みことばが強調していることは、彼等がたとえを理解することができなかったことです。何故、そう解釈することができるかというとこのイザヤ書の引用がイエスの”たとえ”に関する一連のことばの中で引用されているからです。ですから、ここでイエスが言われているのはこのようなことです。すなわち、聖書を読みながら、そこで語られているたとえを理解しない人は見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らない人だということです。
こういうことでしょうか。全ての人は聖書を読むことができます。しかし、そこに含まれているたとえを理解するかしないかで、区分されてしまうということです。
例えば、イザヤ書の53章。ここには苦難のしもべとしてのメシアの預言が書かれています。ユダヤ人達はこの書を何度も読みながら、ここに書かれているキリストに関する預言、たとえを読み取れなかったのです。
それだけでなく、自分達の聖書理解、解釈に絶対の自信を持ち、安息日に人の病を癒したイエスを、聖書の教えを破る者、異端者として、排斥し、殺してしまったのです。
彼等は聖書の学びには熱心だったかもしれません。しかし、聖書に隠されているたとえ、比喩を理解する点においては劣っていました。
たとえの正しい理解
それで、結果として大きな間違いを犯してしまったのです。そのようなわけで、私たちが聖書のたとえを正しく理解できるかどうかは、私たちのクリスチャンとしての歩みに大きくかかわってきます。
日本のキリスト教会ではほとんどこのたとえを理解することについてはいわれません。しかし、世界的にみればブラザレンの流れのはたらき人、J.N.Darby,ウオッチマン・ニー等はこのたとえを理解するという点で進んでおり、多くのよいはたらきを残しています。
ある本を読もうとする時、その本がどのような本なのか、その本の性質を前もって知っておくことは大切です。例えば”白髪三千丈”という表現がでてきたとします。これが数学の本なら一丈の長さはこれこれだから、これを3000倍してという計算がなりたちます。しかしもしこれが詩の本なら、そのような計算は無意味です。本により読み方を変える必要があります。
聖書はどのような本でしょう。その特徴はなんでしょう。それは(イエスは)”たとえによらないで話されることはなかった”(マルコ4:34)とのことばにも表わされるように、たとえの本だということです。あちこちに思いもかけないたとえが隠されています。それを正しく理解していく時、大きな神の知識、霊的な益を受けます。
また本を読む時、著者の意図を無視して読み進むのは無謀です。そのように読んでも趣旨を間違えやすく、また努力の割には異なった結論に至る危険があります。神がこの聖書をたとえの書として書かれたのなら、私たちはこの書を把握するために、たとえを理解することにポイントを置くべきです。
ただしくたとえを理解して主のはたらきをすすめていきたいと思います。