終末の預言解釈

Room of Jeremiah / Interpretation of End days
prophecies.   English (click)

 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれ
か。主の御口が語られたことを告げ知らせることので
きる者はだれか。(エレミヤ書9:12)

エレミヤの部屋へようこそ

通算No.15 十字架を負う歩みー預言者の十字架

テキスト:
エレミヤ20:7ー9
”主よあなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、もの笑いとなり、みなが私をあざけります。私は語るごとに、わめき、”暴虐だ、暴行だ”と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑い草となったのです。私は’主のことばを述べ伝えまい。もう主の名で語るまい’と思いましたが、主のみことばは私の心の内で、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに、疲れて耐えられません。”

今日はエレミヤ書を通して、預言者の十字架を負う歩みについて学んでいきたいと思います。
私たちが旧約聖書を読み、イスラエル王朝の歴史について学んで行く時、わかることがあります。それは王が神の前における歩みを間違えたときには、必ず神の預言者が出てくることです。預言者が出て、その間違いを指摘するのです。

その現われはみごとなものです。多くの例がありますが、たとえば、ダビデ王の時です。ダビデはキリストの系図に”アブラハムの子、ダビデの子”と書かれているように、イスラエルの代表的な王です。その歩みと聞き従いは、他の王と比べても別格のものがあります。

しかし、彼はその生涯に例外的に大きな過ちを犯してしまいます。それは他でもない。バテシバの件です。誰も気付くはずもないのに、突然、預言者ナタンが立ちあがります。そして、王の権威も威光も恐れず、明確にダビデの罪を指摘したのです。神は預言者ナタンに語り、預言者ナタンは出て行って王に語り、ダビデはそのことばで悔い改めたのです。

この、神ー預言者ー王というパターンは度々旧約聖書で繰り返されています。

この時はダビデは悔い改めたので、神との正しい関係にもう一度戻ることができました。勿論、預言者に語 られた多くの王達の中には悔い改めず、怒り出す王もいました。むしろそのような王や民が多かったのです。

しかし、どのような王が相手でも預言者のするべき仕事、働きははっきりしています。それは神が語ったなら、出て行って王に、また民に伝えることです。

こう見ていくと、預言者の仕事というのは、あまり楽しい仕事、割に合う仕事でもなさそうです。しかし、旧約の預言者の働きはこのようなものだったのです。

これらの王についてはこういうことがいえます。それぞれの王が個人的に問題だというだけでなく(勿論、個人的にも問題はあるのですが)、王はその時のイスラエル国なり、ユダ国なりの霊的状態を代表、象徴しているのです。王が偶像礼拝に走るとき、その国全体も走ってしまうのです。

時代が変われば状況も変わるように、それぞれの王の時代ごとにその神への歩みは異なっています。ある王の時代は主に忠実、熱心であるかもしれませんが、他の王の時代には偶像崇拝に走り、律法をないがしろにしたりします。しかし、その時代の王、民の歩みがずれた時、神がそのまま何もいわず、放っておくということはありません。必ず、王、民に預言者を遣わし、警告を与えます。彼等はその声を聞かないかもしれませんが、しかし神は預言者を遣わすのです。

彼等はその預言者のことばを聞かず、追放したり、迫害したり、殺したりするかもしれませんが、それがそのまま彼等への裁きとなります。神は必ず、少なくとも一度は預言者をおくられるのです。

さて、これはみな旧約の話ですが、今の時代の我々に語りかけてくるものがあります。いや、聖書は今の私たちのために書かれたものなので、確かに語ることがあるのです。

福音書の中で、イエスはパリサイ人、律法学者達にこう語っています。”だから、私が預言者、知者、律法学者達をつかわすと..”マタイ23:34これは新約の預言、教会時代への預言です。主は教会時代にも預言者をおくられると言われているのです。

現在、旧約聖書でいわれるような意味の預言者はいません。また神の民を支配するアハブやダビデのような王もいません。しかし、彼等は聖書における型なのです。

IIペテロ2章のみことばをみると、旧約の預言者は現在の教師に相当するようです。王は神の民、今のキリスト教会の指導者達に相当するでしょうか。

もし、旧約のパターン、神ー預言者ー王 というパターンが神のパターン、原則であるなら、今も神はそのパターンで語られるはずです。そして、実際、神は新訳の時代でもそのように語られているのです。神の民、王がその道から外れた時、主はその預言者ー神のしもべを遣わして警告を与えています。

いわく、ルター、カルビン、ウエスレーその他の神のしもべです。神が確かに彼等に語られたので彼等は立ちました。そして、彼等の語ったメッセージは確かにその時代に対して、神が与えたことばでした。そして、また彼等は預言者が受ける取扱いー迫害をも受けたのでした。神の民の王ー指導者には喜ばれなかったのです。

今の時代でも、もし神が語ることがあるなら、神は預言者ー神のしもべに語ります。神に語られた時、預言者には葛藤があります。人間的には自分を守りたい、いやなことをいわれたくない、人間であれば当然かっとうがあるわけです。このエレミヤ書を読むとき、預言者の心のかっとうがそのままあらわれており、心を打つものがあります。

私達は全ての者がこのような預言者の働きに召されているわけではありません。逆に主が語っていないのに自分から語り始めてはいけないのです。

しかし、もし主が確かに語ったのなら、その時は語らなければならないのです。相手が家族の人でも友人でも、また教会でも。そしてそれが預言者の十字架を負う歩みなのです。

ますます主のみこころをさらに行っていきたいと思います。

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