通算No.14 たとえは弟子たちにあかされる
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マタイ13:3 ”イエスは多くのことを彼等に(群衆)たとえで話してきかせた。”
マタイ13:10、11 ”すると弟子たちが近寄って来てイエスにいった。’何故、彼等にたとえでお話しになったのですか。’イエスは答えていわれた。’あなた方には天のみくにの奥義を知ることがゆるされているが、彼等には許されていません。”
マタイ13:34”たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。”
今日は聖書のたとえを理解する上で気をつけねばならないことについて語りたいと思います。
上のいくつかの節から、わかることがあります。それは天のみくにの奥義を知ることが弟子には許され、群衆には許されていないことです。また、その区別はたとえによりなされることです。別のいいかたをすると主の弟子でなければ、多くの聖書のたとえの真の理解はできないということです。ですから、私たちがたとえを理解する時、まず初めに問わなければいけないことがあるわけです。自分が主の弟子かどうか。もし弟子でないなら、弟子になるべきです。そうでなく、群衆(弟子以外のもの)にとどまるなら、天のみくにの奥義を知ることはあきらめなければなりません。
イエスの時代にも主の弟子がいました。今の時代にも主の弟子とまたそうでない人達、群衆もいます。イエスの時代からもう2000年近く経ち、多くの情報が手軽に入手できる時代になりました。キリスト教会でもあらゆる種類の聖書の解説書、専門書が手に入るようになりました。このような時代になったのですから、誰でもどのようなことでも知ることができるのではないでしょうか。
そうではありません。世の中は情報の時代になったかもしれません。しかし、イエスのいわれた”彼等(群衆)には許されていません。”というみことばが変わるはずもありません。
イエスの時代に神が群衆に神の国の奥義を知ることを許さなかったものを、今の時代になったからといって、許されるわけはありません。
弟子と群衆はイエスの時代、たとえで区分されましたが、実は今でもそうなのです。
今は昔に比べれば多くの聖書の解説書、学びの書があります。しかしそれでも一つはっきりしていることがあります。それはイエスは弟子達にたとえをときあかされ、群衆はたとえにより天のみくにの奥義から離されているのです。彼等はたとえの向こう側にいるのです。
多くの人が多くのことを聖書のたとえについて書きます。多くの注解書、解説書が出されています。しかし一つはっきりしていることがあります。それは弟子にはたとえがとき明かされ、群衆にはあかされないのです。
たとえを解説する人がどれほど学問のある人であっても主の弟子でないなら、この原則は変わりあるはずもありません。
逆に今の時代にはこのような危険さえあるかもしれません。すなわち、主の弟子でない人達が聖書のたとえを解く、聖書、みくにの奥義を解説する。もしそうなるなら、それこそ聖書のいう”盲人を手引きする盲人”ということになり、”二人とも穴に落ち込む”ーすなわち、解説する人も、それを聞く人も二人とも聖書の正しい真理をとらえることができないことになります
ですから、全てのことに吟味が必要なのです。
イエスの時代、パリサイ人、律法学者はイエスのたとえを理解せず、”見てはいるが見えず、聞いてはいるが、聞かず、また悟ることもしなかった”のですが、しかし、彼等は自分が悟っていないということも知らなかったのです。彼等は自分達の正しさに絶対の確信を持っていたのです。今、同じことがないとどうしていえるでしょう。
だから、解説書により聖書のたとえを理解しょうとする時、それを書く人もそして読む人もその人が主の弟子なのか、どうかということが大きなポイントです。吟味して正しければ受ければよいのです。
多くの解説書を読めばどのようなクリスチャンでも聖書のたとえ、預言、奥義がわかるという考えがあるかもしれません。しかし、その人が弟子でないなら、それは幻想に過ぎません。何故なら、主がはっきりと語られたからです。”(群衆には)天のみくにの奥義を知ることが許されていない”。
このことをとらえ、さらに主にあってみくにの奥義を求めていきましょう。
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