テキスト:ルカ17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
17:27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
17:32 ロトの妻を思い出しなさい。
本日は「ロトの妻」という題でメッセージしたいと思います。
ロトの妻が後ろを振り返ったために、塩の柱になったことは有名なできごとです。
いったい彼女の何が悪かったのでしょうか?このことを考えて見たいと思います。
ロトの妻に関しては冒頭のテキストに書かれています。この箇所を順に見たいと思います。
“17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。”
人の子の日、すなわち、主の再臨の厳しいさばきの日はノアの日に起きたことと同じであることが書かれています。どういう意味なのでしょうか?
17:27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
ノアの日の特徴は、洪水であり、洪水で多くの人が滅びることがその特徴です。
洪水はたとえです。水は霊的なことをさすたとえです。それで、
ノアの日とは、教会が霊、悪霊の洪水で滅びる日であると理解できます。
「食べたり、飲んだり」
食べる、飲むは教会用語です。食べるはパンを食べる、聖餐式のパンに通じます。
また飲むは、同じく聖餐式のぶどう酒に通じます。
ですので意味することは教会の聖餐式のパン、ぶどう酒にあずかる人々が滅びる日をさすことばです。
「めとったり、とついだり」
めとり、とつぐは、結婚に関することばです。そして結婚はキリストと教会をさすことばです。
以下のことばのように。
エペソ5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
この聖書箇所がいうように、結婚の奥義の意味合いはキリストと教会をさすものです。
ですので、めとり、とつぎはクリスチャンがキリストの妻としてとつぐ、という意味合いで、教会用語なのです。
「洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」
洪水が来るのは教会であり、滅びるのは背教の教会に属するすべての
人です。
聖書の終末のことばは、基本的にクリスチャンに向けた警告の書であることを理解すべきです。
聖書は仏教徒が読む本でも、神を信じない人が読む本でもありません。
彼らはそもそも聖書を読まないでしょう。しかし、聖書はクリスチャンが読むべく用意された本であり、その警告は第一義的にはクリスチャン向けなのです。他人事だと思い込んではいけません。
17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
さらにその日を説明してその日は、ロトの日にあったことと同様であることが描かれています。
そのロトの日に人々は、「食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていた」ことが書かれています。これらはみな、同じく教会用語です。
食べたり、飲んだりは、先ほどと同じ聖餐式のパン、ぶどう酒に通じます。また、「売ったり、買ったり」も教会用語です。あがないとは、買い取るという意味合いであり、売り買いとはあがないと関係のあることばです。また「植えたり、たてたり」とは教会建築をさすことばです。英語の世界では、教会開拓をchurch planting (教会を植える)といいますが、まさに植えるということばを使うのです。
ですので、ロトに関する記述も背教の教会の滅びに関する警告なのです。
17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
ソドム、ゴモラはその罪のゆえに神が滅ぼされようとしていたのですが、アブラハムのとりなしの中で、
10人の義人が町にいれば、滅びを猶予されていました。
しかし、最後の義人である、ロトたちが町を出たとき、その火の滅びが町を襲いました。これは、
たとえです。終末の日、神の怒りが背教の教会に臨もうとしているのですが、しかし、教会にとどまる少数の義人のゆえにその裁きや罰を神が猶予されているのです。
しかし、いずれこれらの義人が教会から出る日がきます。そしてその日は背教の教会に神の怒りの中で裁きが下る日です。そのさばきは、火と硫黄が天から降ることが書かれています。
火と硫黄は霊的なことのたとえです。ですから、背教の教会は悪霊の洪水で滅びることが強調されているのです。
17:30 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
キリストの再臨の日はこれらのことがらの再現であり、背教の教会が悪霊の洪水で滅びることが語られているのです。
17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
さて、このように背教の教会には裁きと滅びが定まっているのですが、
そのような日に正しいもの、主につくものはどうすべきか、との薦めが語られています。
そのアドバイスの一つは、「屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りては」いけない、というアドバイスです。屋上は以前見たように、仮庵の祭りと関係があることばです。仮庵の祭りには、人々は自分の家の屋上に仮の家を作り、そこに住むことが命じられています。これは地下教会のたとえです。すなわち、地下教会にとどまり、背教の教会に出て行くな、という命令なのです。
「畑にいる者も家に帰ってはいけません。」
畑は種を蒔く場所であり、伝道に従事している人へのアドバイスです。
彼らに対しても家に帰っていはいけません、と背教の教会に戻るべきでないことが語られています。
17:32 ロトの妻を思い出しなさい。
ロトの妻のことが語られています。ロトの妻はせっかく滅びの町ソドムから抜け出したのに後ろを振り返り、町に未練を残し、それが彼女の滅びの原因となりました。
後ろをふりかえることは以下でもつかわれています。
ルカ9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
ここでもイエスに従う、といいながら、なおかつ「家の者にいとまごい」すなわち、未練を残している人には神の国にふさわしくないことが語られているのです。
ですから、ロトの妻の行い、後ろを振り返る、とは単なる行為というより、彼女の滅びの町、罪の町ソドムへの未練をさすことばと理解できます。そして結局彼女は塩の柱となり命をまっとうできなかったのです。
終わりの日に、ソドム化し、同性愛を認める教会に未練を残すもの、
すっぱりと縁を断ち切れないクリスチャンは危ないことがわかります。
後ろを振り返り滅んだ彼女は、これから終末を迎えるすべてのクリスチャンへの警告です。もし私たちがこれらのイエスの警告を本気にせず、話半分と考え、背教の教会との断ち切りを断固として行なわず、未練を残し、関係を持ち続けるなら、結局はその人も滅びるのだ、そのことを語るのです。このことを知りましょう。
終末における主のみこころをおこないましょう。以上