No. 752 主の日とエリヤ
テキスト:イザヤ13:9 見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
13:10 天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。
13:11 わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。
13:12 わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。
13:13 それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。
13:14 追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。
13:15 見つけられた者はみな、刺され、連れて行かれた者はみな、剣に倒れる。
13:16 彼らの幼子たちは目の前で八裂にされ、彼らの家は略奪され、彼らの妻は犯される。
本日は「主の日とエリヤ」という題でメッセージしたいと思います。
聖書の中ではたびたび、主の日ということばが出てきます。以下の通りです。
イザヤ2:12 まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。
イザヤ13:6 泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。
イザヤ13:9 見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
エレミヤ46:10 その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる。
ヨエル 1:15 ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。
アモス 5:18 ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。
この日はとても恐ろしい日のように思えます。いったい、主の日とはどのような日なのかそれを見ていきたいと
思うのです。
主の日とはどのような日なのでしょうか?
その日には何が起きるのでしょうか?いったい誰が主の日に裁かれるのでしょうか?
このことを考えて見ましょう。
さて、主の日を理解するために以下のことばがヒントになるか、と私には思えます。
マラキ4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
ここでは、聖書が主の大いなる恐ろしい日、すなわち主の日が来る前に、「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」ことが書かれています。
ということは、これを逆に考えるなら、エリヤが来れば、その後に主の日が来る、というパターンを聖書が語っていることがわかるのです。 日本では昔からナマズが動くと地震が来る、との言い伝えがあります。その場合、地震とナマズはセットになっているといえます。
同じ意味合いで、エリヤの来臨と主の日はセットになっていると考えられます。
エリヤがまだ来ないなら、当分主の日は来ません。しかし、いざ預言者エリヤが来たなら、もうその主の日は近い、と理解できるのです。
さて、その肝心のエリヤは来たのでしょうか?このことを考えましょう。
福音書の中で主はこのようにいわれています。
マタイ17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
17:11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
17:12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。
この箇所では主はエリヤが既に来ている、来臨していることを語ります。そして聖書はそのエリヤとはバプテスマのヨハネであることを語ります。ですので、バプテスマのヨハネこそ、まさに預言されたエリヤの働きをになう人だったのです。
さて、このように聖書の結論は主の初降臨のとき、まさにエリヤが来ている、ということなのです。
さて、このようにエリヤが確かに主の初降臨のときに、すでに来ていたとすると
もう一つの付随したことがあります。それは、エリヤが来た、ということは主の日もまた到来した、主の初降臨の時代に主の日がすでに来た、といえるということです。それはいったいいつのことなのでしょうか?
いつ主の日は到来し、主の日に関する預言は成就したのでしょうか?
それは簡単に結論をいうなら、イエスの十字架の死から40年後に起きた、ローマ軍による、エルサレム崩壊、それこそ、聖書が語る主の日であると理解できるのです。
その日について主ご自身が預言しています。
ルカ19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
またこのようにも語られました。
ルカ23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。
23:31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」
このように、主はエルサレムに来る災い、主の日の災いに関して預言されました。そして
このことは、実現し、西暦70年、ローマの攻撃によりエルサレムは徹底的に破壊され、その町の最後の一人まで殺されてしまったのです。
まさに主の日に関するあらゆる預言はこの日に成就しました。
しかし、私たちの主の日に関する素朴な疑問は、いったい愛であるはずの神が何故、このような恐ろしい災いを旧約の神の民の中心地であるエルサレムにもたらされたのか、というものです。何故なのでしょう?
しかしその理由は明白です。神はこの旧約の民に昔から、何人も預言者を送り、正しい道に入るよう勧めてきたのです。そして、最後にたったひとりの神のひとり子であるイエスを使わしたのです。しかし、
あろうことか、旧約の民は曲がりきっており、このイエスを捕え、罪びと扱いし、そして裁判で死刑判決を下し、最後にはその命を十字架で奪って殺したのです。
このような背教の民に関して主の日の災いが臨んだのです。それが西暦70年に起きたエルサレム攻撃です。これは主の日に関する預言が成就した日なのです。
さて、これらの実例を通して私たちは聖書に書かれた主の日に関していくつか学べます。すなわち、
1 主の日とは、背教の民に対する神の恐るべき報復の日であること。
2 主の日の前には預言者エリヤが遣わされること
3 主の日は必ず到来し、その実現、成就は恐るべきものとなり、背教の神の民は命を失う
これらのことを学ぶのです。
さてこれらは、旧約の神の民に関する主の日にかかわることがらです。いわば、(こういう言い方はよくないかもしれませんが)予行演習のようなものといえるかもしれません。
本番は新約の神の民、教会時代に起きる主の日、これが本番の主の日と理解できるのです。
教会時代の終わりに主の日が再現するとして、その再現は旧約の神の民に到来した主の日と同じパターンが繰り返されることが想像できるのです。
具体的にはまずエリヤが来て、そのあと、主の日が到来する、というパターンです。
教会時代の終わりにエリヤは再度来臨するのでしょうか?
以下の黙示録の箇所はそれを説明していると思えます。
黙示録11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
ここに2人の預言者が登場します。この預言者に関して多くの聖書解釈者はモーセとエリヤではない、か、と語ります。彼らの行うわざは、モーセやエリヤが行なったわざを再現するものだからです。
確かに、「火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており」というように、火で敵を滅ぼす、天の雨が降らないように祈るなどのわざはまさにエリヤが行ったわざなのです。
ということは黙示録の日とはエリヤが来臨する日ということができることがわかります。
そして、前見たように、エリヤの来臨は主の日とセットになっているので、教会時代の終わり、黙示録の日にも主の日が到来することがわかるのです。
そしてもう一つ、教会時代の終わり、黙示録の時代における新約の神の民の背教が起きることをも我々は想像できます。それは、主の日が到来するのには意味があり、理由があり、それは、
神の民の冒涜に対する神の怒りの表れとして主の日が来るからです。
以下のことばはこの冒涜が終末の日にも再現することを予見するように思えます。
“11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”
黙示録はそのエリヤが来臨するときには、主の十字架が再現し、再度主が神の民により、
十字架につけられる日となることを預言しているのです。
そしてその冒涜の都の中でモーセ、エリヤを彷彿する二人の預言者も殺されることが書かれています。
このことはまさに主の初降臨の日に起きたことの再現です。それは、福音書によれば、エリヤであるバプテスマのヨハネも、キリストもともにエルサレムの都で殺されているからです。
同じことが再現するのです。
さて、このように私たちは終末の日、黙示録の日には、再度エリヤが来臨することを知りました。そして、エリヤが来臨する以上、それとセットで語られる主の日も再度黙示録の日に再現することをも知るのです。
このように黙示録は終末の日において、背教の神の民に再度、主の日が到来する、という恐るべきことがらを語っていることがわかります。その怒りの対象は新約の神の民、背教の神の民なのです。
そして、その実現はかつてのエルサレムの滅びの日の再現となるでしょう。
かつての背教の都エルサレムの都において起きた主の日には最後の一人まで殺されてしまいました。同じことが世の終わりにも再現するでしょう。
主を恐れ、主のことばを恐れ終わりの日への備えを行いましょう。
終末における主のみこころをおこないましょう。以上