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No. 764 神に仕える者と仕えない者との違い

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テキスト: マラキ  3:13 「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」

 3:14 あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

 3:15 今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。

 3:16 そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

 3:17 「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

 3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

本日は「神に仕える者と仕えない者との違い」という題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿ってみていきたいと思います。

 3:13 「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」

ここで神は人々のいうことばはかたくななことばであると語られています。

何がかたくななことばなのでしょうか?

 3:14 あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

人々の考えは、「神に仕えるのはむなしいことだ。」というものです。教会の中で献身だとか、主の奉仕だとか、自分の人生までささげてしまう人もいるけどあれはやりすぎだ、神に仕えて、自分の大事な人生を無駄にしてなんになるのか、神を信じるのはよいとしても適度に行なうべきだ、神に仕える人生など、あまり恵まれたものとは思えない。むなしい人生になるし、報われるとは限らない、とそういっているのでしょう。

「神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。」

さらに、こんな風に人々は考えているのでしょう。神の戒めが色々あるし、十戒もあるけど、

あまりそんなことにとらわれるのもどうか、まじめに守っている人も守らない人も何も変わりはないように見える。適当にすれば、見えるところだけはやっておけばよいのではないか、そう思っているのでしょうか。また、神がすべてを見ているように思えない、見えない神の前で罪を悔い、悲しい顔をして歩んでも空しい、気にせずに歩んだって結局何も変わらないじゃないか、そんな考えかもしれません。

 3:15 今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。

だから神の前でも結局はやったもの勝ちなのだ、教会でも気弱そうな相手には居丈高にどなりつければ、いうことを聞く、下手にしたてに出ると威張られてしまう。言いたいことをいい、マウントをとったものの勝ちなんだ。たとえ教会の中でもこの世の論理が働く、やったもの勝ちだ、少しくらいはめを外しても何の罰も起きはしない、これが常識だ、そんな考えを人々はしているのでしょうか。

 3:16 そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

これらの不信仰な人々と対照的に主を恐れる人々がいます。彼らの声に主は耳を傾け、聞かれ、そしてそのことばは主の前の記憶の書に記され、記録されます。

ですので私たちは自分の周りでどのように、不信仰な声、不敬虔な声を聞いたとしてもそれに影響されず、主を恐れ、主に仕えていくことにポイントがあるのです。正しく主の前にとどまり続けるものの声は記憶の書に記されます。

 3:17 「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

このような人々、主を恐れる人々が主のもとのなります。また、「わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」となるように、主の働きがなされる日にそれをになうようになるのです。

「人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」というように、主に仕えその働きをになうものは主にあわれまれるようになります。

 3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

主は我々が再び、「正しい人と悪者」との違いを見るようになると語られます。

正しいものとは義なる人という意味です。すなわち、神の律法を行う人のことです。

すなわち、ここでは、「神の律法を行う人とそうでない人との違い」を我々は見るようになると語られているのです。

質問ですが、我々にあってはどうでしょうか?「神の律法を行う人とそうでない人との違い」を我々は見ているでしょうか?

私個人のことをいうなら、私はここ10年、20年と「神の律法を行う人とそうでない人との違い

を見てきました。それは、個人的ないいかたですが、私にとっては明々白々であり、間違えようのないものです。真にまた真剣に神の律法を行う人は祝福され、その歩みも、働きも祝福されます。そうでなく、

まともに神の戒めを行わないクリスチャンはあまり祝されず、逆に困難や、災いを見るようになります。

これは、理屈でなく、実際に私が見た現実です。

「神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」

さて、このことばですが、神に仕えるものと仕えないものとの歩みや、祝福は大いに異なります。

無理やり神に仕える生活に入れと強制するつもりはありませんが、その違いを語ることは必要か、と思うので記します。私はどちらの生活も経験してきました。具体的にはクリスチャンになったのはまだ十代のことだったのですが、ずっと信徒として特に神に仕えることのない生活を40代くらいまで続けてきました。そのあと、神に仕える生活に入ったので、自分個人の歩みを通して自分で比較ができるのです。

簡単に結論をいえば、神に仕える生活のほうがその恵みといい、クリスチャンとしての深さやら、知恵、啓示のことをいっても神に仕えない頃の生活と比較して100倍も祝福されています。

比較にならないほど、神に仕える生活は祝福されているのです。

また、私個人のことをいうなら、もし私が神に仕える生活を選ばなかったなら、天国への道を選びそこなった、永遠の後悔をしてしまったかもしれない、と思っています。

今はどのような時代でしょう?今はもしかするとかつての主の初降臨のときのように、

律法学者やパリサイ人が白く塗られた墓のように外見はよくても内側が罪や貪欲に満ちて、偽善的な歩みになっている、神の働き人が偽善的になっている時代かもしれません。

それで、神に仕えることも仕えないことも何の区分もない時代かもしれませんが、

しかし、真に主に仕える人はその違いを見るようになります。

終末における主のみこころをおこないましょう。以上

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