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No. 765 70週の終わりに、洪水が起きる

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テキスト:ダニエル 9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。(70人訳:

25 そしてあなたは知りそして悟る、答えとしてエルサレムを建設せよとの命令が発せられてから、君であるキリストまで7週と62週が定められている; そしてそれから時は戻る、そして通りそして壁が建てられる、そして時は果てる。)

 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。( 62週のあとで、油注がれたものは殺される、そして彼には何の裁きもない:そして彼は来るべき君主とともに町と聖所を破壊する: 彼らは洪水により絶たれる、そして終わりまで戦いが続き、それはすみやかに成され、彼は町を荒廃すべく定める:70人訳)

 9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

( そして一週間の間、多くのものと契約を結ぶ: そして週の半ばで、私のささげものと飲むささげ物とは取り去られる:そして神殿の上に憎むべき荒らすものが; そして終わりの時には終わりは荒廃となる:70人訳)

本日は「70週の終わりに、洪水が起きる」という題でこの件に関してみていきたいと思います。

テキストに沿ってみます。

9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

70週の意味合いは何でしょうか?70週とは正確には70の7という意味合いです。そして新約聖書の中にも70の7という表現があります。以下です。

マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

ここで「七度を七十倍」すなわち70の7が描かれているのです。

この箇所は兄弟を許す限度に関してペテロがイエスに聞いている箇所です。

それに対する主の答えが70の7という数字なのです。仏の顔も三度まで、ということばがありますが、

ここでは、主の許しは70の7であることが描かれているのです。決して無限に許す、というあいまいなことを語っているのではなく、しかし、明確な期限として70の7という数字が語られているのです。

ですので、もし、我々がこの70の7という数字や限度を超えて罪を犯し続けるなら、忍耐深い神の怒りをかってしまう、ということをもさす箇所なのです。

ですから、ダニエル書で書かれている70週の隠れた意味合いは神の忍耐の期間が70週続くという意味合いです。しかし、神の民がその間に悔い改めないなら、裁きや罰が下る、という秘めた意味合いもあるのです。このことをも理解しましょう。

「それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」

神が70週を定めたその理由は、上記の様に「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐため」なのです。そして、神はその目的のために何人もの預言者を送り、そして最後には愛する一人子さえ、旧約の神の民に送りました。それで、

目的が達成され、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」ことができたかというと、そうはいかないといえます。

イエスを迎えた旧約の民はそむきもやめず、罪も終わらせず、咎のあがないのため来たイエスも拒否し、永遠の義も受けなかったからです。

 9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。(70人訳:そしてあなたは知りそして悟る、答えとしてエルサレムを建設せよとの命令が発せられてから、君であるキリストまで7週と62週が定められている; そしてそれから時は戻る、そして通りそして壁が建てられる、そして時は果てる。)

さて、ここで「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令」が出るときが70週の預言成就の一つのスタート地点のように語られています。

このような命令が地上の王から出たことは確かであり、そしてその時を基点に、メシア、君主である

キリストが来られるときまでの期間が預言されていることも事実です。そしてその預言どおり、キリストはこられたのですが…この箇所はそれだけでなく、もう一つのことをも語っているように思います。

それは、聖書の中で、エルサレムが建てられる、こわされる、ということは民の信仰や背教を象徴的にあらわすものとして語られているからです。

ですので、エルサレムの再建の意味合いは単なる都を再度立て直す、直さない以上の意味合いがあるのです。たとえば、以下を見て見ましょう。

2歴36:12 彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。

 36:13 彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

 36:14 そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

 36:15 彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

 36:16 ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。

 36:17 そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。

 36:18 彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。

 36:19 彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。

ここに書かれているように、民や王が神の命令を捨て去り、離れ去るとき、このエルサレムも

崩壊したのです。このようにエルサレムが崩壊することと民の背教とは密接に関係するのです。

そしてもうひとつのことがあります。それは、このエルサレム再建を命じたのは具体的には地上の王ですが、しかし、それは神の命令でもあったということです。そしてその命を受けて、メシヤ、キリストは

エルサレムへ来た、とそう理解できます。

「そして道と壁は建てられる、そして時は尽きるだろう。」

そしてメシヤ、キリストが来て、道と壁が建てられることが書かれています。しかし、素朴な疑問として、キリストは大工の職業ではあっても、しかし、道路工事や、壁工事をおこなったわけではありません。そういう意味で、この箇所はたとえと理解できます。

すなわち、道の立て直しをキリストは行い、命の至る狭い道を建て直し、まっすぐにして人々に伝え、回復させたと理解できます。同じく壁の建て直しもたとえです。エルサレムは壁に囲まれた町です。

そして壁により、外界と区分され、敵の侵入から守られます。エルサレム、教会を守る壁は、キリストの建てた12使徒です。以下の様に書かれています。

黙示録 21:14 また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。

都の城壁の土台は12使徒であり、その城壁、土台である12使徒は確かにメシア、キリストの来臨と訓練の中で築かれたのです。

「時は尽きるだろう。」

時は尽きるの意味合いは何でしょう?70週の時と関係あると思われます。忍耐の70週がつき、神の忍耐も尽きつつあることを語っているのでしょう。

次を見ます。 

「62週のあとで、油注がれたものは殺される、そして彼には何の裁きもない:そして彼は来るべき君主とともに町と聖所を破壊する: 彼らは洪水により絶たれる、そして終わりまで戦いが続き、それはすみやかに成され、彼は町を荒廃すべく定める:70人訳)」

さて、このように神の命令に従い、エルサレムを再建すべく、神のもとに正しく戻すべく来られたキリストなのですが、その結果、結末は悲劇的なものとなります。

「油注がれたものは殺される」と書かれているように、油注がれたキリストは殺されて終わってしまうのです。それのみでなく、その殺人、冒涜に関して、「そして彼には何の裁きもない」、何の裁きもこの正しい人の殺人に関して行われなかったのです。

それで、70の7の間、忍耐をもって耐え忍んだ神の怒りが燃え上がるようになります。時もつき、忍耐のときも尽きたのです。

「そして彼は来るべき君主とともに町と聖所を破壊する:」

神の怒りの中で、来るべきローマの君主によるAD70年のエルサレム攻撃の中で、町であるエルサレム、そして聖所である神殿も破壊されました。預言どおりのことがらが起きたのです。

「そして終わりまで戦いが続き、それはすみやかに成され、彼は町を荒廃すべく定める」

冒涜の町、神からの命令に従い、町を再建せよ、信仰の歩み、を建て直すべく来られたキリストを反対に捕らえて殺してしまったこの町に、神の怒りの中で報復が起こりました。その結果、エルサレムはローマに囲まれ「終わりまで戦いが続き」

そして、神の怒りの器として用いられたローマの軍隊を通して、「町を荒廃すべく定め」られたのです。このようにして、ここまでで旧約の神の民に関する70週の預言は終わっているといえます。そして、最後は残念なことですが、神の民の冒涜とそれに対する、神の報復という事がらでこの70週の預言は(旧約の神に関しては)終了しているのです。そして最後の1週は、世の終わり、教会時代の終りに実現するようになります。

( そして一週間の間、多くのものと契約を結ぶ: そして週の半ばで、私のささげものと飲むささげ物とは取り去られる:そして神殿の上に憎むべき荒らすものが; そして終わりの時には終わりは荒廃となる:70人訳)

さて、ここで70週の最後の1週に関して、書かれています。

ですから、我々がこの70週の預言に関して、教会時代に起きることがらを学ぼうとするなら、厳密に言うとこの1節のみから学ばなければならないことになります。

しかし、何故そうなのでしょう?なぜ教会への預言は一節のみなのでしょう?明らかに新約のクリスチャンの数のほうが旧約のイスラエルより多くの人々がいるのに、何故神様は肝心なところで、失礼ながら、新約のわれわれに対しては手をぬいたような預言を用意したのでしょうか?

その理由として察すること、思い浮かぶことは、この70週の預言は2重の預言だということです。この70週の預言は、旧約のイスラエルにも適用、実現するが、しかし、それのみでなく、新約のイスラエル、教会のクリスチャンの歴史にも再現する、だから

一つの記述のみ書かれている、そう理解できます。おそらく、

最後の1週の記述以外は旧約のイスラエル、さらに新約のイスラエルである我々クリスチャンにもあてはまる預言が記述されている、そう理解できるのです。

そういう意味合いで新約の教会の視点で再度70週の預言を見て見ましょう。

“あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。”

この70週は旧約のイスラエルにあてた預言というのみでなく、新約のイスラエルである教会やクリスチャンにもあてられた預言です。そして、今の私たちはこの70週の預言の結末を見ています。旧約のイスラエルが前もってこのような警告を与えられ、そしてキリストの来臨を語られていながら、その不信と背教のゆえに、キリストを殺し、そのあと、エルサレムの都は神の報復の中でローマにより、最後の一人まで殺されたのです。新約のイスラエルである私たちもこれらの警告を正しく受けないなら、同じような悲劇的な結末に至る可能性は大いにあるのです。神はこの時代においても、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもた」らすためにそのしもべを遣わしていますが、我々がその声に耳を傾けないなら、厳しいさばきが待ち受けているのです。

“25 そしてあなたは知りそして悟る、答えとしてエルサレムを建設せよとの命令が発せられてから、君であるキリストまで7週と62週が定められている; そしてそれから時は戻る、そして通りそして壁が建てられる、そして時は果てる。”

かつての日、キリストは来られ、またバプテスマのヨハネも来て、主のために道を備え、通りを備え、また壁を作りました。しかし、エルサレムはヨハネを殺し、イエスも十字架で殺したのです。同じことが終末の背教の教会で起きようとしています。以下のことばをそれを預言しています。

黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

ここには、終末の背教の教会、都のなかで、2人の預言者も殺され、また彼らの主も十字架につけられることが預言されています。この預言者はエリヤすなわち、バプテスマのヨハネを髣髴させるような存在です。彼らは道を壁を建て直す働きをするのでしょうが、その報いは迫害と殉教です。そして、このような罪に対して、神の忍耐が尽きようとしています。70週も終わろうとし、忍耐のときが尽き果てつつあるのです。

“62週のあとで、油注がれたものは殺される、そして彼には何の裁きもない:そして彼は来るべき君主とともに町と聖所を破壊する: 彼らは洪水により絶たれる、そして終わりまで戦いが続き、それはすみやかに成され、彼は町を荒廃すべく定める:70人訳)”

このことば、油注がれたものは殺されるとは上述のように黙示録11章で預言されたように終末の日に再現します。そして、「62週のあとで、油注がれたものは殺される、そして彼には何の裁きもない:そして彼は来るべき君主とともに町と聖所を破壊する: 彼らは洪水により絶たれる、そして終わりまで戦いが続き、それはすみやかに成され、彼は町を荒廃すべく定める:70人訳)

」のことばどおり、その罪への裁きはこの世でも教会でも下されません。

「そして彼は来るべき君主とともに町と聖所を破壊する:」

このことばは2重の預言です。最初の成就は西暦70年、ローマの提督により、エルサレムが破壊されたとき、成就しました。しかし、再度この預言は成就し以下の通り、反キリストにより、町と聖所は破壊されます。

2テサロニケ2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

この日、反キリストすなわち、不法の人、すなわち滅びの子が宮の真ん中すなわち、神の宮である教会の中心の座にすわり、自分こそ神であるというのです。すなわち、教会の神がキリストから反キリストへと交代するのです。そのとき、物質的な宮の崩壊はないかもしれませんが、神の宮としては崩壊、また信仰の土台石も崩されるようになります。

「彼らは洪水により絶たれる」

洪水はたとえであり、悪霊の洪水をさすと理解できます。御霊の声に聞き従わない人々は、悪霊の洪水で倒されていきます。

「そして終わりまで戦いが続き、それはすみやかに成され、彼は町を荒廃すべく定める」

背教の教会に対する神の怒りはすさまじく、反キリストによる攻撃、教会破壊、また聖い教会へ罪を持ち込むことが許され、結果として教会は荒廃するようになるでしょう。

“ そして一週間の間、多くのものと契約を結ぶ: そして週の半ばで、私のささげものと飲むささげ物とは取り去られる:そして神殿の上に憎むべき荒らすものが; そして終わりの時には終わりは荒廃となる:”

「一週間の間、多くのものと契約を結ぶ」とは7年間の中東の和平条約などではありません。この契約との言葉はアブラハムが神と永遠の契約を結んだときに使われたことばとおなじです。具体的にはクリスチャンが神と結ぶ、永遠の契約と関係するのです。

背教のクリスチャンが反キリストと契約を結ぶ7年間があることが記されているのです。そして、この契約を反キリストと結ぶとき、神やキリストと我々の間に結ばれた永遠の命の契約は破棄されます。

「そして週の半ばで、私のささげものと飲むささげ物とは取り去られる」

週のなかば、すなわち3年半の艱難時代の中で、神へのささべものと飲むささげものとが取り去られることが描かれています。「神へのささべものと飲むささげもの」とは

新約でいうなら、聖餐式のパンとぶどう酒のことであり、それは、パン、みことばのメッセージ、そしてぶどう酒、聖霊をたとえたものです。すなわち、反キリストの横暴の中で、教会ではキリストが救い主だとか、罪の許しなどのメッセージは語られなくなる、逆に、我々にはそのような救い主は必要ない、みな始めからきよいとか、罪の許しなど必要ない、そのままで誰でも天国へ入れる、神は愛の神だなどとの、浅薄な理論が広がるように、また強制されるようになるのでしょう。そしてお調子者というか、偽善クリスチャンはそれは良いことを聞いた、とすっかり同調するようになるのでしょう。

また飲み物、すなわち、聖霊のぶどう酒は禁止され、悪霊のリバイバルがもてはやされるようになるでしょう。すでに悪霊も聖霊も区分のつかないクリスチャンが多々いるようですが、その日は彼らにとっては楽しい日なのでしょう。

「そして神殿の上に憎むべき荒らすものが; そして終わりの時には終わりは荒廃となる」

神殿の上に憎むべき荒らすものとは、どこまでもたとえを理解できない人にはわからない箇所です。彼らは物理的な神殿しか見えずいまだに第3神殿がどうのこうのと、的外れなことを語っています。神殿は神の宮である教会をさすたとえです。そして教会の神の座に荒らす憎むべきもの反キリストが座すようになる、教会はキリストの代わりに反キリストを神としてあがめるよう、強制されるようになることがかたられているのです。

以上が、70週に関して神が警告されていることがらです。これらは軽視すべきではありません。かつての日、旧約の神の民に対して、70週の預言は一つもはずれることなく、成就し、彼らは預言されたとおり、来られた油塗られたもの、キリストを絶ち、その罪の報いを得ました。神の怒りはすさまじかったのです。同じことが再度同じ形で再現しようとしています。神を恐れ、歩みをただしましょう。終末における主のみこころをおこないましょう。以上

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