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No. 766 したようにされる

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オバデヤ1:11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。

 1:12 あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。

 1:13 彼らのわざわいの日に、あなたは、私の民の門に、はいるな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。

 1:14 そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。

 1:15 主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。

本日は「したようにされる」という題でメッセージしていきたい、と思います。

私たちがたとえば、学校に入るとその学校の校則があります。

その学校へ通い、落第したり、退学にされないためには、私たちはその校則を守る必要があります。

昼休みに外へパンを買いに行ってはいけない、という校則があれば、少し理不尽だと思っても、

やはり従わなければ、なりません。そうでないと先生に怒られたり、つるし上げられたり色々ややこしいことになります。これは少し自分の経験も含めて語っています。

さて、学校の校則はともかく、我々はクリスチャンとして生きていき、クリスチャンとして神の祝福を得たいと思うとき、そのときに神の方法、聖書の方法ということを理解し、それを尊重して歩むべきです。

聖書の一つの法則、方法は、我々が「したようにされる」という原則です。上記テキストにこう書かれています。

 1:15 主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。

私たちが良いことでも悪いことでも我々が他の人にしたように、自分自身にされる、このような

原則が聖書にあり、すべての人の命の息をにない、クリスチャンの歩みをになう、神にあることを知りましょう。

一羽の雀さえ、天の父の許しなしに落ちません。私たちの歩みに起きるすべてのことは偶然ということはなく、神の御手に握られているのです。自分のしたことがよければ、良いのですが、悪いこと、人を傷つけることなどを行なうといつか忘れたころに帰ってくることがあります。

あまりよい例ではないのですが何か具体的なことを書いたほうがよいでしょう。

恥ずかしながら自分のことを書きます。

いつだか、私はこんなことがありました。私が住んでいる市に公の図書館があります。市の外れの緑が多い場所にあるその小さな図書館を私は気にいって、よく訪ねていました。広いソファがあるので、そこに腰を深く腰掛けて足を組んでリラックスしながら新聞などを読むのが私のその頃のお気に入りの時間でした。もっともたいていしばらくすると、眠くなってしまうのですが。

その日もうつらうつらしてしまいました。しばらくすると誰か、私の足を振り払うようにする人がいました。

何だ人の足を、と思い、目が覚めた私はその人、足を振り払った相手を見ていました。

相手は私の似たような年の男、体は私より、体格がよさそうです。無礼なやつだ、と私は相手をにらみつけていたのですが、どうも彼の言い方をさっするに、こんな図書館の受付の人が通るところで

足を組んで投げ出していると他の人に迷惑だ、そんなニュアンスのようです。

しばらく私がにらんでいると彼もどこかへいってしまいました。大喧嘩が起きたわけでも殴りあったわけでもないのですが、やはり、私もクリスチャンなので少し考えさせられました。何でこのようなことになったのか、小さな小競り合いでもやはり、神様が許して起こしたように思えたのです。

何でと思った私の心にこの施設で私が数年前に行ったことが思い出されました。ずっと忘れていたのですが。詳細は避けますが、私はこの施設で、数年前警備員の人を怒鳴った記憶があるのです。

原因はささいなことです。また何か私に分があるか、というとほとんどありません。ただ、やつあたりのように怒鳴った記憶があります。このことは私自身も忘れていたのですが、やはり、神の前によくないこととして記憶され記録されていたように思われます。

何年か前人の心を傷つけた自分が何年かあとに同じ施設で人から嫌な目にあって傷つけられる、このことは偶然でないように私には思えたのです。

さて、役に立つか立たないかわからないことを書きましたが、我々はこの今の時代においても自分が人や相手に何か正しくないことを行なうなら、思いもかけないとき、場合によっては自分が忘れてしまったときでも自分が「したようにされる」ことを知るべきです。神は明らかに「あなたがしたように、あなたにもされる。」と語られているからです。

そのような例、「あなたがしたように、あなたにもされる」という例は私の記憶ではいくつか聖書に記述があります。その一つは以下です。

 士師1:6 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り取った。

 1:7 すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。

ここでは、他の王たちの手足の指を切り取った、アドニ・ベゼクが、今度は自分が捕らえられ、自分の手足の親指を切り取られたことが描かれています。まさに自分がしたとまったく同じことが自分の身にふりかかってきたのです。そしてこれは、

アドニ・ベゼクのいうように、神がなされたことなのです。

そのようなわけで、我々は一つの教訓を学ぶべきと思います。それは、

我々は無秩序の世界、自由奔放な世界を生きているのではなく、そうではなく、我々の歩みの一挙手一投足をも覚えておられる神の前を歩み生活している、ということです。

誰も見ていない、誰もしらない、ということは我々の認識違いに過ぎず、すべては記録され記憶されているのです。そしてこのアドニ・ベゼクの例のように、来るべきときがきたら、我々が行なったことが我々の頭上に帰ってくる可能性が高い、ということです。

この世の人、場合によってはクリスチャンもこのような原則、自分がしたように、自分にもされる、ということをまじめに考慮していないようです。

しかし、神が語られ、聖書に記された原則は必ず成就することを知りましょう。

さて、せっかくテキストを引用したので、この箇所を順に見て行きましょう。

 1:11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。

このオバデヤ書はエドム、俗悪なクリスチャンに対する記述が書かれている箇所です。そして、ここでいう「他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日」とは終末の日、まさに艱難時代をさす表現です。その日、エルサレム、神の御心の中心の民は、艱難時代の中で、敵の攻撃、惑わしの中で、宝である信仰や忠実を失います。

「あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。」

すなわち、同じクリスチャンでありながら、主のために迫害にあっている正しいクリスチャンたちをエドム、この世につくクリスチャンは、他人事のように見ており、助けも同情もしないということです。

他の箇所で羊と山羊の箇所にあるように、彼らに水一杯の助けも与えなかったのです。

 1:12 あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。

ユダの子らの滅びの日とは信仰のゆえに艱難時代の迫害にあうプロテスタントをさすことばです。

その日、エドム、この世についた俗悪なクリスチャンは他人事と思い何の弁護もせず、ただ傍観するようになるのでしょう。それどころか、彼らの逮捕や投獄を、過激な信仰者が逮捕された、これは良識に基づく、素晴らしい英断だなどと、喜んだり、大口で偉そうに述べるのでしょう。しかし、それは、

この箇所で預言されているように神のみこころからずれた歩み行いです。

 1:13 彼らのわざわいの日に、あなたは、私の民の門に、はいるな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。

彼ら正しいクリスチャンが迫害にあうその日に彼ら俗悪なクリスチャンは、彼らの門に入り、密告したり、非難するようになるのでしょう。 「そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。

」とは、財宝である金の信仰に手を伸ばし、キリストの再臨など起きるはずがない、常識を持てなどと信仰的な人々を覆したり、ゆるがすことなのでしょう。これらは神に敵対する行いです。

 1:14 そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。

その迫害を逃れるものをエドム、俗悪なクリスチャンは、道に立ちふさがり、逃がさないよう、逮捕するよう、通報するようになるのでしょう。また、彼ら過激な信仰のもの、再臨を文字通り信じている人々を密告して逮捕、投獄するよう手助けをするようになるのでしょう。しかし、それは、兄弟を売り渡す行為であり、神の怒りをかう行いです。

 1:15 主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。

主の日はすべての国々すなわち、すべての種類のキリスト教派、クリスチャンが裁かれる日です。その日、エドム、俗悪なクリスチャンも神の前に裁かれるようになります。彼らが犯した罪、自分の兄弟姉妹を見捨てた罪に関して彼らが行ったように彼らに報いがきます。

さて、このように私たちは神の前に自分がしたことに関してそれが正しくない行いなら、いずれ、同じことが自分の上に帰ってくる、そのような原則がクリスチャン生活にはあることを知りましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。以上

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