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No.767 聖書も神の力も知らない

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テキスト: マルコ12 :18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

 12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

 12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

本日は聖書も神の力も知らない、という題でメッセージをします。

テキストに沿ってみていきます。

12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

サドカイ人は、ユダヤ教の一派です。彼らは、復活を否定し、霊魂不滅を否定し、霊や御使いの存在を否定していた人々である、ということです。

今の時代でもこんな人々、クリスチャンはいます。キリストの復活を否定する神学校も、教師も多く存在しています。そういう意味ではこの箇所は彼らへの教え、警告を語る箇所でもあります。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

彼らは自分たちのたちば、復活を否定する立場から聖書を見ています。そして、復活などという教理は非聖書的、非理性的であるとして、その例としてこの7人の男の妻となった女の話を持ってきたわけです。このような理不尽なことがらが起きる復活などという教理はやはり、おかしな教理であり、聖書とは矛盾した教えではないのか、ということが彼らの主張なのです。

一見、何か的をついていて、理論的、説得力がある話のようにも見えるのです。彼らはこの質問には近頃評判のナザレのイエスもさすがに答えられないだろうと自信をもって質問したのかもしれません。

 12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

さて、結論をいえば、彼らは見当違い、思い違いをしていました。

復活は実際あるし、聖書はそれを語っていたのです。そして、復活した人においてはもう結婚制度もないし、また、結婚して子供を生む必要もなくなるのです。それで、天使のようになるのです。

さて、このことは主の言われたとおりであり、簡単な結論を言えば、キリストのほうがよく聖書を知っていて、サドカイ人はあまり、知らない、やっぱりキリストはえらい、という結論になってしまうのですが、それだけの箇所ではないように思えます。

主がいわれていることは、サドカイ人のように、自分たちは教師であると自認したとしても、ろくに聖書を読まないなら、とんでもない的外れになる可能性がある、という問題です。

そして、それは現代にも通じるのです。いや、現代のようにクリスチャンがまた、牧師でさえ、ろくに聖書を読まず安直にアンチョコに頼る、注解書に頼る時代にこそ、大事なことばと思えるのです。

はっきりと理解しなければならないのはこのことです。ここで問題になっている、キーポイントになっているのは、

キリストのみに特別な智識があり、他の一般人、たとえば、サドカイ人には、そんなものはない、という問題ではないのです。もし、そうなら、ただの一般人に過ぎない我々には何の方法もないからです。そうなら、

我々にはこの箇所は何の益にもなりません。しかし、

そうではなく、ここでは、「聖書を・・知らない」という問題なのです。

聖書を正しく読み、求め、時間をかけて求めていけば、ある意味誰でも得られる結論を彼ら、サドカイ人は怠った、それで、彼らは聖書的な真理、復活は確かにある、という真理に至ることができなかったという問題なのです。

イエスもサドカイ人も、どちらも同じ人間であり、一日は同じ24時間の時間しかないのですが、しかし、一方は聖書を読み、熟読をし、限られた人間の頭脳、体、時間の中で、真理に至った、一方はそれを怠り、その結果、聖書とはかけ離れた結論を自分たちでつかんでとくとくと自慢している、そのような区分があるのです。

イエスは子供のときから、聖書を読み、その読解力、集中力は大人顔負けのものがあったようです。以下の様に書かれています。

ルカ2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

 2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

この箇所からわかるように、イエスは子供のときから聖書を読み、また、自分の考えでそのことばを思い巡らし、そして聖書から神を知り、聖書から人々に語ったのです。イエスの語られたメッセージの中に詩篇や、イザヤ書などの聖書の引用が色々あるようにイエスはご自分の時間を割き、自分の目で聖書を読み、自分の心で判断し、聖書から神に関することを知っていたのです。それは我々と同じ方法であり、イエスのみ何か超人的な方法で特別な智識を得たわけではありません。我々と同じように、自分の手に入る、聖書を読み、聞くという方法で得るべき必要な知識を得たのです。そしてサドカイ人の誤りはそのなすべき当然のこと、正しく時間をかけて自分の目で聖書を読むこと、知ることを怠った、それで間違えた結論に至ってしまった、ということなのです。

そしてこのこと、クリスチャンが聖書を知らず、教会の牧師が聖書を知らないことが今の時代、大きな問題になっています。

今の時代は聖書を読まず、そのため、真の意味で聖書を知らない時代なのです。

たとえば、マタイ24章で主は終末に関連してこのように語りました。

マタイ24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

 24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

この箇所を理解するのに、あまり聖書を知らない、イエスのことばによれば、「聖書も神の力も知らない人々」は、ただ、単純に物理的な宮、神殿が崩壊する、ということしか頭に浮かびません。

それで、終末には、エルサレムに第3神殿ができる、それが崩壊するときが世の終わりだ、などと

的外れな解釈になるのです。彼らの解釈には何の知恵も悟りも啓示もありません。

しかし、真に我々が聖書に親しみ、よく読み、聖書のみことばを黙想し、その意味合いを真に求める習慣をつけているなら、いくつか宮の崩壊に関して思い出すことがあるはずです。

たとえば、たとえに関することばです。聖書はイエスがたとえによらないで語ることはなかった、と語ります。以下のとおりです。

“マルコ 4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。”

それで、この宮の崩壊の記事も文字通りの宮の崩壊ではなく、たとえの意味合いがあるかもしれない、との考えに至るのです。その人が聖書を知っている人なら、よく聖書に時間をかけているひとならです。しかし、週刊誌や新聞は読むけど、ろくに聖書を読まない「聖書も神の力も知らない」人々は

物理的な宮から頭や考えが一歩も動くことはありません。

宮のたとえ、神殿のたとえは何でしょう。聖書をよく知り、神の力を知っている人は、以下のことばを思い出すでしょう。

ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

 2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

 2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

ここでは、主のいわれた神殿とはイエスのからだのことであることがわかります。そして、もう一つ加えるなら、イエスのみからだとは、教会をさすのです。もし、人が聖書も神の力も知る人なら、これらのことばを思い起こすはずです。しかし、「聖書も神の力も知らない」人々はどこまでも第3神殿のことしか、頭にありません。

さらに「神殿の崩壊」とは、聖書的に深刻な意味合いがあることを聖書も神の力も知っている人は気づくはずです。それは、何回か聖書を読む中で自然と認識することです。たとえば、最初の第一神殿の建設のあと、神はソロモンにこういわれました。

2歴7:19 しかし、もし、あなたがたがそむいて、あなたがたに授けたわたしのおきてとわたしの命令とを捨て去り、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、

 7:20 わたしが彼らに与えた地から、彼らを根こぎにし、わたしがわたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨て、これをすべての国々の民の間で、物笑いとし、なぶりものとする。

 7:21 かつては並びもなく高かったこの宮も、そのときには、そのそばを通り過ぎる者がみな、驚いて、『どういうわけで、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。

 7:22 すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から連れ出した彼らの父祖の神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ。』と言うようになる。」

ここでは、宮が投げ捨てられることと民の背教とが密接に関係することが書かれています。

ですので、聖書も神の力も知っている人々は、主が宮の崩壊の預言をしたとき、それは背教と関係あることだと悟るはずなのです。しかし、「聖書も神の力も知らない」人々は宮の崩壊の話を聞いても第3神殿で頭がストップしてしまい、何も想像がわきません。ろくに聖書も読んでいないし、そもそも神のことばを真剣に学ぶつもりもないから、しかたがないといえばしかたがないのですが。

さらに聖書も神の力も知っている人々は宮の崩壊に関連して以下の言葉も日々の聖書の読み込みの中で思い出すはずです。

エペソ書2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

 2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

 2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

ここでは、神の宮、神殿に関して説明し、それは、他でもない教会であり、その土台とは使徒、預言者、また隅のかしら石はキリストご自身であることが語られています。先ほどの神殿とはキリストの体、教会であるとのことばと符合します。

このようなわけで、主がマタイ24章で預言された、宮の崩壊とは、またその聖書的な意味合いとは、

他でもない終末の日に教会が背教し、その神の神殿であるはずの教会の使徒、預言者、さらにかしら石であるキリストの教えさえ投げ捨てられ、他の石の上に残らない、徹底した崩壊を預言することばであることが、聖書も神の力も知っている人々にはわかります。

しかし、聖書も神の力も知らない人々は、ただ第3神殿、第3神殿と、○○のひとつ覚えのように繰り返すしか能がありません。このように、今の時代、聖書の解釈やら、説明は、聖書も神の力も知らない人々によって行われていることを我々はしるべきです。

彼らが大変な間違いを犯し、見当はずれな解説をしているのは、単にこの宮の崩壊の記事だけではありません。これは一例に過ぎません。多くの教理が聖書も神の力も知らない人々により、

ずらされており、見当はずれな教えが今の教会ではまかり通っている、このことを知りましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。以上

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