バナー

未分類

No. 757 上着に座す

投稿日:

テキスト:マルコ11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

 11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。

 11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。

 11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

本日は上着に座す、という題でメッセージしたいと思います。エルサレム入城のとき、人々はイエスの前に上着をしきました。このことの意味合いを見ていきたいと思うのです。

テキストに沿ってみていきたいと思います。

7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

さて、ここで弟子たちはろばの子をイエスのもとへ引いてきました。ろばのたとえの意味合いは

私の理解では聖霊をさすものです。

そして、そのろばの上に自分の上着をかけました。このことの意味合いを考えてみたいとおもうのです。上着をかけた、ことを人間的に考えれば、イエスに敬意を表した、との意味合いがあるのでしょう。

しかし、聖書は神の知恵によって書かれた本なので、また、表にも裏にも文字の書かれた巻物でもあるので、隠れた意味合いがある可能性があります。上着の意味合いは何でしょうか?

このことばは以下の箇所でも使われています。

マタイ9:16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。

 9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

ここで着物と訳されていることばに上記上着と同じ原語が使われています。

この「真新しい布切れと古い着物」のたとえを理解するなら、着物は教会、集まりをさすことばです。

同じく皮袋も教会、集まりをあらわすことばです。新しいぶどう酒すなわち、新しい霊、聖霊が下るなら、そしてそれがユダヤ教の会堂の様に、古い皮袋、集まりなら、その霊は良い影響をもたらすというより、

逆に教会や集まりの分裂、破壊をもたらす、との意味合いのたとえなのです。

事実、新しいぶどう酒、聖霊が下った日に古い皮袋であるユダヤ教の集まりには分裂や、混乱がもたらされました。パウロが古い着物、皮袋であるユダヤ教の会堂に行き、御霊により、語るたびに集会では賛成、反対が入り混じって大混乱、分裂がおきたのです。ですから、新しいぶどう酒は新しい皮袋、集会、すなわち、新約の教会で用いられて初めて

あるべき働きがなされるのです。古い着物も同じく、古い教会をさします。そこで新しい布、新しい教えを語っても実際は受け入れられる、というより、教会の分裂をもたらすだけだ、との意味合いのたとえです。

さて、このように着物、上着と訳されたことばはたとえの意味合いとして教会、をさすものであることを理解できるのです。

「自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。」

するとその上着、教会にイエスが乗られた、との意味合いは何でしょう?

この乗られたとのことばは、以下でも使われています。

ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

ここでは、イエスが神の御座の右に座ることをさす意味合いでこのことばが使われています。

すなわち、このことばは、王座や神の座に座することにも使われることばであることがわかるのです。

これらのことをまとめると聖書のいう、上着の上にイエスが乗られるとの表現のたとえの意味合いは、

イエスが教会の王座に座す、このことをさす表現と理解できるのです。

 11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。

ここでも多くの人が上着を道に敷きました。すなわち、たとえの意味合いとして、イエスこそ教会の王座に座す方、真に教会を治める方であることを語っているのです。

さらに、「木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。」のです、

木はオリーブ、ぶどうなどクリスチャンをさすたとえです。ですから、イエスこそ、クリスチャンを治める真の王であることをこの箇所は表しています。

 11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。

ホザナは救い、という意味合いです。ですので、イエスこそ我々を救う王であり、救い主であると彼らはたたえているのです。

 11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

ここでは人々は父祖であるダビデの王国が今ここに来た、到来したとほめたたえています。

このことを考えて見ましょう。ダビデはイスラエルの歴代の王の中でも代表的な王です。

神に喜ばれる歩みをし、正しくイスラエルを統治しました。そしてダビデはまた王である

キリストの型でもあります。

今の時代の我々の政治形態は民主主義なので、王政とか、王が治めるということに関しては

経験がありません。しかし、かつての時代は王政があり、王が国を治めていたのです。

聖書は教会の王はキリストであり、真に今の教会を治めているのはキリストご自身であることを語ります。私たちはよくも悪くもこのことを知るべきです。

イエスはご自分が王であることを明言しました。以下のとおりです。

マタイ 27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。

さらに黙示録はキリストこそ、教会の王であることを語ります。

黙示録19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。

さて、先ほどの上着の件でもそうですが、聖書は明確にキリストこそ、王であり、神ご自身こそ、真に旧約のイスラエルを治める王であることを語ります。しかし、

残念ながら、旧約の民はその王権を認めず、拒否しました。以下の通りです。

1サムエル8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、

 8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

 8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。

 8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。

 8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

ここで人々は実際にイスラエルを治めている王である神を退け、人を王として選んだのです。

繰り返します。実際に神は王としてこの国を治めているのに、彼らはそれを退け、無視し、認めなかったのです。

さて、ピラトの前で王と宣言したキリストに対して人々はどう反応したでしょうか?以下を見てください。

マタイ27:29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

 27:30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。

彼らは王であるというイエスをからかい、つばきをかけたのです。

マタイ27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。

また、彼らはイエスを王であると語ったその罪のゆえに死刑にしたのです。そのように罪状書きに書いたのです。

マタイ27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

 27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

また、イスラエルの祭司長たちも律法学者、長老たちは、王様なら、十字架から降りてみろとあざけったのです。

そして、このように彼らは彼らを治めていた方、自分たちの王を殺しました。大変な罪を犯したのです。その結果、西暦70年にはエルサレムは神の怒りの中で滅びました。

さて、同じことは教会時代にも繰り返されるでしょう。何故なら、教会時代の終わりを預言する黙示録にはキリストが再度十字架につけられることが預言されているからです。教会時代の終わりに再度、

教会の王であるキリストは殺されるようになるのでしょう。

そのようなわけで私たちは知らなければなりません。聖書がたとえで語っているように今の時代も

真に教会を治め、教会の王として存在しておられる方はたった一人でありそれはイエスキリストなのです。私たちはこの方、目に見えない王を恐れ、この方に仕えることを心がけるべきなのです。

人を王としてはいけません。

私たちがクリスチャンになって起きるあらゆることがらの中には王であるキリストの采配と判断と裁きがあります。一羽のすずめでも偶然には落ちません。私たちのクリスチャン人生で起きるすべてのことは、イエスの采配の下にあるのです。良いことも悪いこともそうなのです。

このことを認め、主の前に歩みをただしていきましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。以上

-未分類

Copyright© エレミヤの部屋 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.