テキスト:マタイ19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
本日は「弟子には永遠の命が約束されている」という題でメッセージしたいと思います。
クリスチャン生活の目標、目的、ゴールは何でしょう?
私の理解では永遠の命を獲得することです。
以下の様に主がいわれているからです。
マタイ16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
この世の中で、たとえば、日本で一番の権力者、日本の首相になることは大変難しいです。
まして、一人の人が全世界を手に入れる権力者となるなら、この世ではこれ以上ない大 成功者ということになります。しかし、そんな人でも永遠の命を得る人の成功には比べられません。
であるので、主は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」といわれたのです。
そして他の箇所ではこの永遠の命を得ることが難しく、狭い門狭い道であることをも語っておられます。
マタイ 7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
主は明らかに永遠の命を得ることこそが人にとってもっとも大事なことであると語られています。そして、それだけでなく、その永遠の命に至る門は狭く、道も狭い、見出すものはまれであることをも語られたのです。
しかしだからといってあきらめてよいものか?
一流の大学が狭き門でも、高望みさえしなければ、どこか、学校へ入れるでしょう。
就職だって選ばなければ、どこか入れるところがあるかもしれません。
こんな風にこの世のたいていのことは、何とか妥協がなりたつものですが、しかし、
永遠の命のことだけはあきらめたり、妥協すべきことがらではないように思えます。
何故なら、聖書によるなら、人の死後の世界はたった2択しかないのです。
すなわち、永遠の命かはたまた火の池か、その2択しかないのです。
以下の様に書かれています。
黙示録20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
ここに書かれているように、死後の人の運命は、いのちの書に名前が記され、永遠の命へ入る、そうでなければ、一律に火の池に投げ込まれる、という2択しかないのです。
さて、このように永遠の命を得ることこそ、クリスチャン生活の目標でもあるので、
聖書の中でこのこと、どうすれば、永遠の命を得られるかという質問を行なう人が複数います。
以下の青年もその一人です。
マタイ 19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
この青年は永遠のいのちを得るのに失敗してしまった、と理解できます。
本当に永遠のいのちに至る門は狭く、その道も狭いことがわかるのです。
さて、このように永遠のいのちを得ることは難しいのですが、しかし、例外的に永遠のいのちを保証されている人々がいます。それは誰か?
それが、冒頭のテキストに書いたペテロを初めとした弟子の歩みの人々なのです。この箇所を順に見て行きましょう。
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
このペテロのことばは、上記金持ちの青年の話のすぐあとに続いています。かたや、あまりにもこの世の財産が多く、能力も多いので、それを捨てることができず、去っていった金持ちの青年がいますが、しかし、反面このペテロたちのように、何もかも捨ててキリストに従った人々がいます。
ペテロはそれに関連して、「私たちは何がいただけるでしょうか。」と質問しています。
この世ですべてのものを捨てて従ったその先にどのような報いがあるのか、というしごくもっともな質問を彼はしているのです。
19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
弟子の歩みのひとつの報いは、キリストに従う弟子はキリストが栄光の座につくそのとき、
12の座に着く、すなわち、どうも偉くなる、高くなるようです。
そして、12部族をさばく、今でいえば、新約のイスラエルである教会をさばくような位置につくようです。
個人的には今まで一度も偉い地位についたことも人をさばくような立場にも立ったことがないので、こういう偉い地位や、座などほとんど想像がつきません。ただ、そう書かれているなら、そうなのでしょう。これは、単にペテロたち、12弟子に限らず、ペテロの後に続く弟子の歩みをする人へのことばとも理解できます。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
そして弟子の歩みのゆえに犠牲にした家、兄弟、姉妹、父、母、子さらに畑などがいずれ、戻ってくる、しかもその何倍かの規模で戻ってくることが語られています。そして、最後に永遠の命を受け継ぐようになるのです。
ここで注目すべきことは弟子の歩みのゆえに家、兄弟、姉妹などを失った人は「すべて」その幾倍もを受けると書かれいること、そして弟子の歩みのゆえにそれらを失った人は「すべて」永遠の命を受けると記されていることです。
すなわちキリストの 名のゆえにそれらを捨てたものは例外なく、永遠の命を受けることが約束されているのです。
ですので、私たちはみことばを正しく読み正しく、イエスの約束されていることを理解すべきです。
永遠の命への門は確かに狭く、道も狭いのですが、しかし、弟子の歩みをする人々には、圧倒的な優位があります。そして、キリストの名のゆえに犠牲を払うのは人間的には悲しくつらいことかもしれませんが、しかし、そのように行なうことはその犠牲の何倍かをこの世で受け、さらに永遠の命への道を間違いなく、保証するものであることを知りましょう。ですので私たちがこのこと、永遠の命を得ることを必ず自分のもととしたい、と願うなら弟子の歩みにポイントがあるのです。
個人的なことをいえば、私もキリストの名のゆえにいくつか、犠牲にし、失ったものがあります。でも、
それは確かにこの世で何倍かとして戻ってくるし、さらに永遠の命への確信を与えるものです。
固く主のことばにつくことが大事です。終末における主のみこころをおこないましょう。以上