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No.751 主の日

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テキスト:ゼカリヤ 14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。

 14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。

 14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。

 14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

 14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。

 14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 14:8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。

 14:9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。

 14:10 全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。

 14:11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。

 14:12 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。

 14:14 ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。

 14:15 馬、騾馬、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜のこうむる災害は、先の災害と同じである。

 14:16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

 14:17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。

 14:18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。

 14:19 これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。

 14:20 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。

 14:21 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

本日は主の日という題でメッセージをしたいと思います。

この世の終わりに主の日、という恐るべき日が来ることは聖書が繰り返し語ることです。

その主の日とはどのような日なのでしょうか?その日、裁かれ、罰せられるのはどのような人なのでしょうか?そもそも私たちがその主の日の災いを逃れるためにはどのようにするべきなのでしょうか?

それらを考えてみたいと思うのです。

テキストに沿ってみていきます。

1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。

冒頭から恐縮ですが、この日本語の訳は不適切です。

KJVでは、「あなたの獲物があなたの中でわけられる」と訳されています。

いわんとしていることは、主の日は正しいものと不正なものとの分捕り合戦のようなことだということでしょうか。 正しいものは終わりの日に攻撃され、略奪され、敵に奪い取られていきます。

 14:2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。

さて、よくも悪くも主の日、また終わりの日は正しいクリスチャンにとり、かつてなく、今後もない艱難の日です。しかし、残念ながら、多くのクリスチャンはその艱難がどのような種類の艱難なのか正しく理解していません。その艱難は、エルサレムが近隣の町や国から攻められるように、クリスチャンの身近な人から攻撃されることを暗示しているのです。終末のクリスチャンのまさに、兄弟や姉妹、教会の兄弟姉妹また、信仰の父母である牧師、教師から攻撃が来るのです。

そのことを理解しなければなりません。

「すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。」

このことばを今の教会用語で語るなら、すべての教団、教派が一丸となり、その日、正しく真理に立つクリスチャンを攻撃し、異端呼ばわりするといいかえることができます。

「町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。」

この艱難時代の迫害、そして昨日まで同じ教会に集っていた兄弟姉妹からの非難に負け、妥協して多くの教団、教会のクリスチャンが、偽りの教理に略奪され、妥協し、真理を捨て去ることになるでしょう。

「町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。」

このような異端呼ばわり、集団ヒステリー、決め付け、仲間はずれ、そのような迫害の中でも残りのものとして残る人々にみこころがあります。

艱難時代の意味合いは金を精錬する炉のように、正しい金の信仰者を残し、そうでない不純な信仰者は排除することが目的です。すべての人がこの試練を通過し、そして残るものは主に見える、このことを知りましょう。艱難前だののヨタ話を本気にしてはいけません。

 14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。

 14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。

これはイエスキリストの再臨をさす表現です。ここでも、艱難の後に正しい人々を救うために来られる主の姿が描かれています。ですので、聖書は繰り返し、艱難の後に再臨が来ることを述べているのです。

非聖書的な艱難前説のヨタ話を本気にしてはいけないのです。

彼らのいう秘密の再臨、秘密の携挙などを支持する聖書箇所はありません。

14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

地震は揺るがしや迫害をさすたとえです。迫害をさけて逃げることが語られています。

しばらくすれば、ここで主の再臨があります。

「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」とは以下の再臨の日を表現するものです。

1テサ4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

テキストに戻ります。

 14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。

 14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

主の日とはイエスの再臨の日であり、それはたった一つの日です。

それで、我々が正しく理解しなければならないことは、主の日にすべてクリスチャンと名がつく人々にとり、祝福の日となるとは限らない、逆に真理にさからう、教師、牧師、クリスチャンにとっては災いの日となることです。

 14:10 全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。

 14:11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。

ここでは、エルサレムがもとのところにある、そのまま残ることが描かれています。

このことにポイントがあります。「もとのところにある、そのまま残る」とは要するに真理からずらされたり、それたり、命の狭い道から動かされたり、移されたり、移動されたり、捕囚されたりしない、ということを意味します。

多くの教団、クリスチャンが2000年もの長い教会時代のあとに変質し、移動し、動かされていきます。

かつてはタブーだった、刺青も同性愛も教会では認められつつあります。

これは教会が進歩したわけでも、広い心になったわけでなく、ただ、背教したに過ぎず、動き、変質したのに過ぎません。エルサレムは地理的にも世界の中心にあります。そういう意味でみこころの中心を歩む民をたとえで、エルサレムと呼んでいるように思われます。

罪の事をギリシャ語で、的外れといいますが、まさに罪を犯す民は的外れになり、ずれていき、動いていきますが、最後まで忠実に神のことばにとどまる人々にポイントがあります。

 14:12 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。

このように正しく主の前にとどまるエルサレム、忠実な人々を多くの惑わされた教団、クリスチャンが攻撃、非難、カルト扱い、非難するわけですが、それに対して主ご自身からの報復があります。

 14:13 その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。

その日、正しいクリスチャンを迫害する教団の間で恐慌や争いや仲たがいがおきます。そして、お互いに訴えあうようになります。

 14:14 ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。

ユダは神に愛された南のユダ王朝なのですが、しかし、その日、背教して、正しいエルサレムを攻撃します。同じく、終末の日には神に愛されてきたプロテスタントも背教し、正しいクリスチャンをカルト扱いするようになるでしょう。

14:16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

 14:17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。

 14:18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。

 14:19 これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。

さてここでは仮庵の祭りがとりあげられています。仮庵の祭りは以前見たように地下教会をさす表現です。ですので、ここでは地下教会に参加しない教団、クリスチャンをさして、

「仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民」とたとえで表現しているのです。

その日には公の教会はみな背教化するので、地下教会にポイントがあります。ですので、

仮庵の祭りと表現される地下教会に加わらない教会には災いが下ることが描かれているのです。

ゼカリヤ書は主の日について書いてありますが、そのポイントは、主の日とはまさにキリストの再臨の日であること、そして、終わりの時には正しいクリスチャンは艱難に会うが背教のクリスチャンは必ずしも艱難に会うとは限らないこと、逆に正しいクリスチャンを迫害すること、しかし、

主の再臨の日にはそれらの背教クリスチャンには災いが臨むこと、これらを理解しましょう。

終末における主のみこころをおこないましょう。以上

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