テキスト:マルコ11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
本日は「枯れたいちじく」という題でメッセージをしたいと思います。
テキストに沿ってみていきたいと思います。
11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
イエスは空腹を覚えられました。もちろん人間なら誰でも空腹を覚えるのですが、しかし主が
空腹を覚えた、というとき、単なる人がおなかがすいた、という意味より、深い意味合いがあると思われます。キリストに関して聖書は「見えない神のかたち」と表現しています。
ですので、キリストが空腹を覚えるとはすなわち、神が空腹を覚える、という意味合いで理解できるのです。
そして、その空腹はたとえであり、神は「実」を求めており、それを得ることに空腹を覚えている、と
理解できるのです。それは、この箇所がいちじくが実を結ぶか、結ばないかを語る箇所だからです。
この箇所の問題点は、しかるべきときにいちじくが実を結んでいなかった、という問題です。
実はたとえであり、以下に記されている御霊の実をさすと理解できます。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
私たちは御霊の実を結ぶべくクリスチャン生活の歩みの中で真剣に求めていくべきです。
何故なら、御霊の実ならぬ肉の実を結ぶ人には以下の様に厳しいことばが語られているからです。
ガラテヤ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
ここに書かれているように、肉の実を結び、御霊に逆らう歩みをしている人々に対して、
パウロは、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」と明言し、
断言しているのです。
ですので、私たちが死後のことなどどうでもよい、天国へ行こうといくまいと、神の国を継ごうと、地獄の火へ投げ入れられようとどうでもよい、と思わない限り、
真剣に肉の歩みから離れ、御霊の実をむすぶべく、求めていくべきです。
このこと、御霊の実を結ぶことはできたらそうしたほうがよい(しかしなくても差し支えない)というオプションではなく、mustと理解できるからです。
この考え、良い実をむすばない、いちじくは神の前に呪われる、ということは以下のエレミヤ書の中に描かれています。
エレミヤ24:1 バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕え移し、バビロンに連れて行って後、主は私に示された。見ると、主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。
24:2 一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。」
24:3 そのとき、主が私に、「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」
24:4 すると、私に次のような主のことばがあった。
24:5 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。
24:6 わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。
24:7 また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。
24:8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、――まことに主はこう仰せられる。――わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とを、このようにする。
24:9 わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。
24:10 わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」
ここでは、悪い実をむすぶいちじくである人々が神ののろいの下で災いを受けることが描かれています。
24:9 わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。
すなわち、今の時代の我々でもクリスチャンであっても悪い実を結ぶ歩みをするなら、「地のすべての王国のおののき、悩みと」される可能性があります。なんていう災いだ、あんなクリスチャンにはなりたくない、と思われるような歩みに入ってしまうのです。さらに、「わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。」とも書いてあります。尊ばれたり、尊敬されるクリスチャンではなく、誰からもそしられ、物笑いの種、なぶりもの、のろいとなってしまうのです。
さて、テキストに戻ります。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
ここで主はいちじくに実を期待して近づいたのですが、そこには実はなく、ただ葉があるだけでした。
神が期待し、イエスも期待した実、すなわち、御霊の実はいちじく、すなわち、
この国の神の民にはありませんでした。ただ、葉のみがあったのです。葉の意味合いは何でしょう。これは私の
あて推量ですが、言葉ということばがあるので、口先だけで実がないことでしょうか。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
実を結んでおらず、結果、キリストが実を食べることができなかったいちじくを主は呪われました。
「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と。
そのあと、いちじくは枯れてしまい、二度と実を結ぶことはなくなってしまいました。
これは、人間的に考えれば、八つ当たりのようにも見えますが、そうではなく、神が実を結ばない、御 霊の実を結ばないクリスチャンをのろう、ということをあらわすものです。
そのようなわけで、我々はこのいちじくのことを他人事とせず、必要な教訓や戒めを受けていくべきだと思われます。
我々が知るべきことはこのことです。
神はそして、聖霊は我々に対して、すなわちもとは肉の実を結んでおり、悪い実を結んでいた我々に恵みの雨をもたらし、
また、土地を整えてよい実を結ぶ環境を与えてくださったのです。
しかし、私たちがどこまでも何年も何年も聖霊の声に耳を傾けず、ただただ、肉の歩みをし、
神の恵みを無にして歩むなら、いずれ、神の忍耐が切れ、いちじくが放棄され、枯れるようになる、ということなのです。
多くのクリスチャンは勘違いをし、偽りの教理を信じ込んで、無限に許す神、ということを語りますが、私が読む限り、聖書は明らかに神の忍耐には限りがあり、定まった期間があることを述べます。
その期間に実を結べばよし、そうでないなら、木が切られ足り,枯れたりしてしまうのです。
以下の様に聖書は明らかに神の忍耐には定まった期間があることを語ります。
ルカ13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
ここでもいちじくの実に関して語られています。そして3年間も実を結ばないいちじくに対してあと
一年の猶予が与えられることが描かれているのです。
ですので、神の忍耐も合計4年ほどということになります。
私たちは自分の理想やら希望に基づいて勝手な教理を打ち立てるのでなく、どこまでも神のことばを尊重するべきです。明らかに神のことばはいちじく、実を結ばないいちじくに対して神は忍耐するが、しかし、それは永遠ではなく、定まった期間があることを述べるのです。
ですので、我々がするべきことは定まった期間の間に何とか、御霊の実を結ぶべく、求め、
歩むことなのです。いつまでも神の忍耐を軽んじて、どこまでも語られる聖霊の声を無視した歩みをすべきではありません。
11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
さて、このようにイエスが呪われたいちじくはそのあと、実際に枯れてしまいました。
このことを通して我々が知るべきなのは、神を恐れることです。ここで明らかに聖書が語っているのは、しかるべきときまで実を結ばないクリスチャンは神により、イエスにより、呪われる、そしてイエスに呪われるなら、もういちじくが二度と実を結ぶことなく、あとは枯れて終わってしまう、ということなのです。
クリスチャンに置き換えて言うなら、もし我々が主の忍耐やあわれみの期間を無視して歩み、肉や、罪の実を結び、御 霊の実を結ばない歩みをしているなら、いずれ、イエスにより呪われ、そして
2度と実を結べないように、かれてしまう、ということを語るのです。
さらに枯れる、ということを考えてみましょう。枯れるとは、KJVでは、
ドライ、乾燥した、とのことばが遣われています。すなわち、水がないことです。
水は御霊の水に通じます。 すなわち、聖書が語っていることは私たちがどこまでも肉の歩みをして何らの御霊の実をも結ばない歩みをしているとき、神の忍耐は切れ、水すなわち、御霊は、その人を離れてしまうこと、結果、彼はかれてしまい、滅びていくようになる、ということなのです。
繰り返しますが、水、すなわち、御霊は彼を離れていくということを聖書は語るのです。神を恐れましょう。神の忍耐を軽く考えず、恵みの日、救いの日にふさわしい歩みをしましょう。
終末における主のみこころをおこないましょう。以上