バナー

未分類

No. 759火によって、塩けをつけられる

投稿日:

テキスト:マルコ 9:47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 9:48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。

 9:49 すべては、火によって、塩けをつけられるのです。

 9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

本日は、火によって塩けをつけられる、との題でメッセージしたいと思います。

テキストに沿ってみていきます。

“もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。”

前のメッセージでみたように、塩気は聖さをさし、腐敗を防ぐ、聖い歩みをさすと理解できます。

さて、この箇所では、聖さと関連して厳しいことが描かれています。

すなわち、私たちの目がつまずきを起こすなら、えぐりだすように語られているのです。

目がつまずきを起こす、罪にいざなうとは、どのような罪でしょうか?男だったら、絶世の美女だとか、セクシーな女性が思いに浮かびます。

そのようないざないや罪と関連して、聖書は目がつまずきを起こすなら、それをえぐりだせと厳しいことばを語ります。目を捨てるのは躊躇がありますが、しかし、聖書の言う聖さの基準、ということが理解できます。そして、もし、我々、特に男性がそのような罪にもし、とらわれているなら、目を捨てることはできないとしても、捨てるべきあらゆることは捨てていくべき、と理解できます。

映画が罪にいざなうなら、その映画に行くことを断念すべきですし、雑誌が、またテレビがいざなうなら、テレビなど失っても罪から開放されるべきです。

今の時代、インターネットもあるので、色々むずかしいのですが、何はともあれ、原則は切り捨てることになるでしょう。

「両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」

目にかかわる罪であってもゲヘナ、地獄へ入る可能性がありますので、私たちはこの面でも聖さを求めていきましょう。

この箇所にはたとえの意味合いもあります。教会すなわち、キリストの体、肢体の中で、目の役割を行う人が罪を行なうなら、そしてそれによって、体全体、教会全体が滅びへ入るくらいならその器官を

えぐりだし、追放せよとの意味合いもあります。

正しい方向を見る目の働きをになう牧師が惑わされて罪も聖なるものも混同するようになったら、

その器官は追放すべし、厳しいですがそのような意味合いもあります。

9:48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。

ここではゲヘナ、地獄のリアリテイ、実際に存在することが強調されて語られています。

また、地獄の罰である、うじや火についても語られています。

人間の世界でもうじと共存する生活などうんざりです。ましてラザロと金持ちの話のように、

火に投げ入れられてはあつくてたまりません、そんな生活などうんざりです。しかし、聖書が繰り返して地獄に関して、そのような表現を語るのは実際にリアルに地獄は存在しているので、そう語るのです。私たちはあとで、後悔しないよう、今の時代に聖さを求めていくべきです。

 9:49 すべては、火によって、塩けをつけられるのです。

さて、その肝心な聖さ、塩気はどうしたら、私たちの身につくのでしょうか?ここで答えが書かれています。「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」とのことばが答えです。

実際の料理も野菜に塩をまぶして火にかけたりして塩気をつけます。

これは、たとえであり、火は、聖霊の火のたとえです。

ですので、私たちが塩気をつけたい、聖さを保ちたい、と願うなら、その場合、火、聖霊の火を求める必要があります。

聖霊の火といってもおかしなリバイバル集会へ出かけて、ベニーヒンなどの怪しい器から悪霊の火を受けることを薦めているわけではありません。

わざわざそんな危ないところへでかけなくても自分の家で祈りのときを持てば聖霊は下り、火は与えられます。火で塩気をつけられる、このことは個人的にもよく体験することです。

私自身、生まれも育ちも俗的なものですが、それでも祈りの時間を必ず持つ、結構長い時間持つようにしてるのですが、するとだんだん、神の聖さに触れたり、思いや考えが聖められていくのを感じます。

逆に祈りもなく、神に触れることもなく、奉仕をしてもろくなことにはなりません。

 9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

繰り返しますが、クリスチャンや教会の存在理由の一つは、塩気であり、この腐敗した世界が腐り、堕落するのを防ぐのです。しかし、肝心の聖かるべき、クリスチャンが塩気をなくしたら、この世はどこで塩気が得られるでしょう?そのようなわけで塩気のないクリスチャンは、泳げない水泳コーチみたいなもので、まったく神の前に役にたたないのです。

であるので、私たちは、神の前に人の前に塩気を保つべきです。そして、繰り返すようですが塩気は火からくるものであり、聖霊からくるのです。そして、祈る人は聖霊に触れるのです。ろくに祈らないで

人間的な歩みをしているクリスチャンは塩気をなくし、神の前にも人の前にも役に立たなくなる、このことをしりましょう。終末における主のみこころをおこないましょう。以上

-未分類

Copyright© エレミヤの部屋 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.