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No. 758 塩気をなくす

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テキスト:マタイ5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

 5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

 5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。

 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

本日は塩気をなくすという題でメッセージしたいと思います。聖書で言う塩の意味合いを見ていきたいと思うのです。テキストに沿ってみます。

“あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。”

ここで主は私たちに対して、我々は地の塩であることを語ります。ところでというか、地の塩とはどういう意味なのでしょうか?あらためて考えて見ましょう。私の理解では塩はパンと関係があり、パンとたとえの連鎖があります。

塩はパンの腐敗をふせぎます。日本人が好きなご飯も塩をつけると腐るのを防止できます。おにぎりに塩をまぶしたり、炊いたご飯に塩のある梅干をいれたりすると、腐りにくくなります。

地の塩というとき、地は天ではなく、この世についた部分です。しかし、塩であるクリスチャンの存在により、腐敗やら、罪やら、汚れた行いから守られるのです。

そのことばの通り、地の塩となり、この世の腐敗を防ぐクリスチャンは多いです。

そのようなクリスチャンに感化され、道をただした人も多いのです。

クリスチャンに感化され、刑務所の中で救われ、クリスチャンや牧師になった人もいますし、

また、作家の三浦綾子さんのように、クリスチャンの婚約者を通して、自暴自棄だった歩みから、

正しい歩みに戻る人もいます。また、敵味方関係なしに傷ついた人を助けたナイチンゲールのように、

戦争という憎しみの只中でも塩のような働きをし、この世の罪や憎しみを和らげるクリスチャンもいたのです。アメリカでは同性愛の集会や働きに聖書的な立場から反対する、また 堕胎に反対するクリスチャンもいます。これらの罪に対抗しているのです。このように、多くのクリスチャンが地の塩の働きを果たし、この世の腐敗、罪に対抗したのです。

「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。」

しかし、もし、その塩であるクリスチャンが間違え、勘違いをし、人間的な考えに感化され、

自分でその塩のききめを失なったらどうなるでしょうか?

具体的には、姦淫の罪を犯すな、どころか、自分が隠れてそんな罪にふけるようになる、

また、聖書で明白に同性愛を禁じているのに、この世の風潮に迎合して、特に反対も異論も唱えず、むしろ、ものわかりのいい人の顔をしてそのような人の罪を擁護したり、迎合してしまったらどうなるのでしょうか?

いったい神のことばをあずかり、そのことばや教えを語るべき存在である教会やクリスチャンがそのような罪に迎合したなら、どこで、人々は神の前の善悪や、罪に入る、はいらないを理解すべきなのでしょうか?数学の塾は数学を正しく教えることを特長として塾として存在します。

2+3=6などと間違えたことを教える塾には誰も金を払ってまでいきません。

神が教会やクリスチャンをこの世の腐敗を防ぐ塩としておいたのに、自ら率先して罪に入り、悔い改めもせず、それどころか、勝手に聖書を引用して自分の罪にあふれた生活を擁護、自己弁護している人を神が用いるでしょうか?早晩、お役ごめんとなり、神から見捨てられないでしょうか?

「もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」

役に立たないとはそのように塩気をなくした塩のように、自分の中に清さや、この世との聖別もなく、

むしろ自分で罪も聖いものも区別できない、人々のことです。そのような働き人もクリスチャンも

神の前に役立たずである、と聖書は語ります。私に役立たずといわれたら、みな怒るでしょうが、しかし、聖書がそう語っているものは誰も反論はできません。

神に役立たずと決められたなら、神から何の奉仕も来ず、意味のない、何の働きもないクリスチャン生活になる可能性があります。

「ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」

聖さも持たず、むしろ率先して罪にいそしむような塩気を失ったクリスチャンは結果として、

外に捨てられ、神の奉仕から外される可能性があります。そしてそれだけでなく、

「人々にふみつけられるだけである。」とのことばのように、他人から踏みつけられたり、悪い悪評が広がり、その中で、クリスチャン生活を終える可能性があります。

カソリック神父のスキャンダルのように、確かに「ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」とのことばは今、成就しています。

 5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。“

世の光とはどのような意味合いのことばなのでしょうか?光に関してエペソ書はこう語ります。

エペソ5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい

 5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――

 5:10 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。

 5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。

 5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。

 5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。

この箇所では光はやみのわざや、隠れた罪と対照的な存在として語られています。

ですので、光とはキリストから与えられる聖い行ない、聖い思い、歩みをさすと理解できます。

ですから、上記ことば、「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない」とは、

神は教会をクリスチャンをこの世の光、神にある正しさ、聖さ、罪から 離れることを語る光として

置いておられる、そんなニュアンスであると理解できます。

そして、我々はいかに世の中の罪が増してもその罪を指摘し、この世に対して神の望む、神の怒りを受けない歩みとはどのようなものかを語る存在としておかれた、そのような山の上にある町としておかれたのであって、

都合が悪いからといって、隠れることはできない、いかに世論が同性愛に味方しても、山の上の町として語るべき責任がある、との意味合いと理解できます。

 5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。

ここでも「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない」と、光を隠し、神が我々に与えた正しい光や、神の正しい教えを隠すべきでないことが語られています。

ですので、逆に考えるなら、教会の問題とは、神が与えた光をこの世に迎合して隠してしまう、という罪や問題だと理解できます。

 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

ですので、私たちクリスチャンは、「あなたがたの光を人々の前に輝かし、」と書いてあるように、

神の聖い教え、歩みをこの世の人に積極的に語り、示すべきなのです。

そして、単に語るだけでなく、隣人愛やら、ナイチンゲールの様な、よい行いを行ない、そして人々が

「天にいますあなたがたの父をあがめるように」することにポイントがあります。間違ってもクリスチャンが率先して塩気を捨て去り、罪にまい進してはいけないのです。終末における主のみこころをおこないましょう。以上

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