<パレスチナ人が故郷を去った訳>

 

パレスチナ難民は、自分の土地や家に住めない人々である。
彼らが何故、自分の家に住めないのか、自分の土地に住めないのか、
そのことを調べる事は、彼ら、すなわち以前パレスチナ人が住んでいた
土地に今住む民族、イスラエル(ユダヤ)人の真の姿を知ることに通じる。

この件に関して2つの相反する声を聞いていこう。
その内の一つは、いわゆる「親イスラエル:一般的なキリスト教会の見解」というものである。
簡単にいえば、「イスラエル建国は神の御旨、だから、イスラエルのすることは全て正しい」
という意見だろうか。
もう一つは逆に「親パレスチナ:パレスチナ人を追い出し、虐殺するのは、非人道的」
という考えだろうか。

以下に2つの意見を代表する(と思われる)記事を掲載します。どちらが、人道的、
そして、聖書的、また神のみこころに反しているのかは自ずから明らかになるでしょう。

これ以降の構成は以下のようになっています。

1.イスラエル寄りの「パレスチナ人が故郷を去った理由」(公式見解?):
2.パレスチナへの直接の取材により判明した「パレスチナ人が故郷を去った理由」:
3.結論
4.補足

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1.イスラエル寄りの意見:「パレスチナ人が故郷を去った理由」:

以下のキリスト教メルマガに示される意見は、イスラエル
人、すなわち、この地を奪った人々のよく聞く言い分を代表しているように思えます。
またこれは、クリスチャンの代表的な理解でもあるようです。

ー引用始めー
 
 

*親イスラエルめるまがの26号 より引用
 

【戦火の中で】
 この独立戦争では大量のアラブ難民が出た。6月5日の時点でイスラエルの
国境の内外において、何と総計33万5千人以上の人々が住み慣れた我が家を
追われた。ハイファやティベリア、ヤッフォ、エルサレムからもたくさんのア
ラブ人達が村々、町々を捨てていった。

 これに伴いイスラエル側は、ただちにユダヤ人移住者達を入植させるため、
その居住地の建設の準備に取り掛かった。このようにして、放棄された村落や
町々にはユダヤ国民金庫の援助でユダヤ人の住む所が建造されていくのである。

 6月7日、エルサレムは極めて困難な状況に追い込まれていた。エルサレム
からもアラブ人居住者達が逃げ去って行っているとは言え、アラブ軍の攻撃が
止んだわけではないのだ。

*同30号

「イスラエル側は、逃亡したアラブ人達がイスラエルの地に帰還することには
反対であったが、この戦争が終わった後、アラブ諸国と協定を結ぶことには基
本的に賛成だった。」
 

*同39号

【アラブの策略】
 三つ目はパレスチナの避難民の問題だった。シェルトック外相は、イスラエ
ルが戦争が続く中で、避難民を受け入れる意志が全くないことを示唆した。こ
う書くと、まるでイスラエルが血も涙もない、残酷極まりない民族に思えるか
もしれないが、そうではない。

 大体において、国連の分割案を受け入れなかったのはアラブ側であり、難民
問題はその結果起こっているのである。事実アラブ側の指導者達は、「この戦
争はもう間もなく終わるから、それまで住んでいる地域を一時離れていなさい
。」とパレスチナに住んでいたアラブ人達に勧めた。

 多くの者達は、ほんの数日で我が家に帰れるだろうと本当に思っていたのだ。
しかし、ことが長期化すると、周りのアラブ諸国はパレスチナの同胞達を自分
達の国に受け入れようとはしなかった。パレスチナの難民問題は国連の手に任
され、国際社会はむしろイスラエルを避難(非難の間違え?:「角笛」注)
した。これはアラブ側の策略としか
言いようがない。パレスチナ問題が、彼らの望むように動いていかない限り、
難民問題が解決してしまっては困るからである。アラブにとってパレスチナの
難民問題は、イスラエルを国際批難に追いやる恰好の道具と言えるのだ。

ー引用終わりー

上記親イスラエル、もしくは「日本のクリスチャンの常識」をまとめると、

*パレスチナ人は勝手に自分の土地、家を捨てて出ていった。

*彼らは勝手に出て行ったのであり、イスラエルには非がない。
それなのに、国際社会はこのことを理由に「いわれのない」非難をイスラエル
に向ける。

そんなところでしょうか。
しかし、このような「日本のクリスチャンの常識」が実はほとんど、
事実と懸け離れた、妄想や「嘘の盲信」、非常識な認識であることを以下で見ていきましょう。

パレスチナ問題は、今のイスラエル(ユダヤ)人がこのパレスチナ人の地に来るまでは存在しませんでした。この地は穏やかな地だったのです。また、彼らユダヤ人がそれ以前の歴史において、居留する各
ヨーロッパの国において、問題を起こし、それに耐えられなくなった各国の人々により、
イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、ロシア、それこそあらゆる国から「追放」されたことを
覚えておきましょう。彼らユダヤ人はいわば、「あちこちの会社で首になった経歴のある人」です。
そのような人が「パレスチナ」という新しい会社に入り、「やっぱり」という感じで起したのが、
この会社の騒動「パレスチナ問題」です。
今まで過去に彼を雇った会社(ヨーロッパの国々)は彼を追い出し、首にすることにより、何とか問題を解決できたのですが、このパレスチナ会社の悲劇は、彼を追い出すことができず、彼に逆に乗っ取られてしまったということなのです。

日本人クリスチャンが吟味もなく盲信している「彼らユダヤ人は神の民だから迫害された」との
理由は要再吟味と思われます。

またパレスチナ問題を簡単に例を用いていえば、ある日を境に突然、日本のある県に(例えば新潟県とします)北のある国から船で大量の外国人がやってきて、その県に住む人々の土地や家を奪った、
そんな風に表現できます。
奪われた県の人は「こんな理不尽なことがまかりとおるのか!」と怒るのですが、
不思議なことには、追い出されて難民になった人の言い分は取り上げられず、
いつまでも奪われた家や土地も戻って来ず、最近は、この「外国人」による難民殺し
が頻繁に起きるのですが、政府もマスコミもきちんと対応して
くれないので、問題の解決がない、そんな出口のない人々と
パレスチナ人は同じです。

更に困ったことには、この「外国人シンパ」と称する変な宗教の人々が
やってきて、この外国人に援助金を渡したり、彼らのプロパガンダみたいなことを始めるようになり、
「この外国人はこの地に戻るように貴い神様の思し召しがあったのだ」などと
勘違いな応援をする始末です。「(神様の思し召しだから)あなた達難民は黙って殺されなさい」
とでも言いたいかのような言動は困ったものです。

ちょっとキツイ言い方で失礼かもしれませんが、上記記述のように、片方だけの意見(侵略者の意見)、しかも真偽が確認されていない情報だけを流していくクリスチャンは、同じような「宗教的思い込みの激しい人々」と世間の人から思われてもしかたがないのではないでしょうか。
 
 

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2.パレスチナへの直接の取材により判明した「パレスチナ人が故郷を去った理由」

その 1.「広河隆一」氏の証言:

「広河隆一」さんは、パレスチナに関する写真を何十年も撮り続けている
写真家です。パレスチナの写真家などと聞くと、反イスラエルか?などと
身構えてしまうクリスチャンがいるかもしれませんが、それは早計です。
彼はそもそもイスラエル、キブツの理想に共鳴して、イスラエルの地に出かけ、
住むようになった、いわゆる「親イスラエル」の人です。また、彼のお子さんも
その地で生まれ、イスラエルの国籍を持っています。

しかし、彼は実際にそのイスラエルの地に住んだがゆえに、
この地の偽り、欺瞞に気付いてしまったのです。以下は、彼が述べる
「何故パレスチナ難民が発生したのか」の理由です。

ー以下引用ー
 
 

広河隆一「パレスチナ」岩波新書より

パレスチナ難民はなぜ発生したのか
 

パレスチナ難民はなぜ発生したのか。イスラエルにいるとき、私は何度も人々に
この質問をした。イスラエルのユダヤ人の説明はいつも同じだった。それは、エ
ルサレムを追放されていたアラブ最高委員会議長ア−ソ・フセイニーがパレスチナ人に、アラ
ブ軍の作戦が終るまで自分の村を離れろ、と「退避命令」を放送したから、パレスチナ人が村
を出たというものである。世界もそれを信じている。責任はパレスチナ人側にあり、ユダヤ人
側にはないというわけだ。

 そののちこの「退避命令」の放送について、多くの人々が調査を行なったことを知った。
B BCやアメリカ政府が、当時のパレスチナにおける放送をすべて傍受し録音していたが、それ
を調べた人々はそのような放送の記録を見つけることができなかった。イスラエルもこの証拠
を提出することができていない。その反対に、パレスチナ人に村に留まるように呼びかけたア
ラブ側の放送の記録は多数ある。

 イスラエルの当時の軍関係者の証言によると、武力、策略、うその約束、虐殺に続くパニッ
クなどによって難民が発生したと考えてよいようである。ギルモアの報告では、のちのイスラ
エル首相イツハツク ラビソは「住民を十数キロから二十数キロも歩かせるには、カを行使し
たり、警告発砲せざるをえなかった」と述べ、のちの外相イーガル・アロンは、ガリラヤ地方
の村々を焼き払うと脅したと証言している。別のイスラエル兵は、録音した泣き叫ぷ声や、逃
げろという声を村の中で聞かせ、パニックを引き起こしたと証言している。あるキリスト教宣
教師は、エルサレムでシオニストの宣伝カーが、ラウドスピーカーで「立ち退かなければ、デ
イル・ヤーシーンと同じ目に会うぞ」と脅した、と証言した。

虐殺テロと パニック

これらの脅しを効果的にしたのは、一連の凄じい虐殺テロである。
最大のものは四月九日のデイル・ヤーシーン村住民二五四人の虐殺で、無抵抗の
    村民が殺され、生き残った者は血だらけの服のままエルサレムで「勝利の行進」
をさせられた。この村はハガナも認めたとおり、戦争に中立を表明し、アラブ解放軍の駄留も
認めなかった村で、中立の村でさえこんな目に会うと知った他の村々は、パニックに陥ったの
である。
 
最初は右派によるパレスチナ人虐殺を非難していたシオニスト主流派も、虐殺が効果をあげ
てパニックを引き起こせるのを見て、追認するようになっていった。
ギルモアによれば、アイン・アッゼイトネ村では、三七人の少年がユダヤ人の軍隊に引き立
てられ た まま消えた。サフサの村では、四人の少女が強姦され、七〇人が目隠しされて射殺さ
れた。ドワイマ村では女子供を含む八〇〜一〇〇人が、こん棒で頭を割られて処刑された。
ユダヤ人側は、四月一四日以前は計画的にパニックを引き起こして、逃亡させるよう仕向け、
それ以降は、なりふりかまわぬ武力によって追放していった。すべてダーレット計画に沿って
実行された。

ユダヤ人の著名な作家イツハルは、作品『ヒルバト・ヒツァ(アラブ村の名)』のなかで、次
のように書いている。 「われわれはここに来て、銃を射ち、焼き、破壊し、圧力を加え、追い立てたのだ。一体わ れわれはこの場所で何をしたのだ。

 モシェ〔主人公の友人〕は言った。『ここで君はもう一度新しく生まれ変わるんだ』」
実際、パレスチナ難民を引き起こしたユダヤ人移民たちは、この問題には目をつぶり、「新
しく生まれ変わ」った気持ですべてを忘れて、占領した村々の土地を耕し、そこに住み始めた
のである。

 土地・財 産の没収

イスラエルが建国されたあと、ダーレット計画の完成のため、パレスチナ住民の追 放と村の破壊が「合法的」に開始された。これは現在まで延々と続いている。

ー引用終わりー

ここで書かれていることは、上記キリスト教メルマガに書かれている
ことがら、すなわち、日本のクリスチャンが盲信していることとは、
全く反対のことがらです。

*すなわち、上記キリスト教メルマガに書かれている、
アラブ指導者のパレスチナ人への「退避命令」は出されていないことが判明したのです。
「B BCやアメリカ政府が、当時のパレスチナにおける放送をすべて傍受し録音していたが、それ
を調べた人々はそのような放送の記録を見つけることができなかった。」のです。

また、それが真実なら、イスラエル自身が証拠を提出すればよいのでしょうが、
「イスラエルもこの証拠
を提出することができていない。」のです。あれば急いで出すでしょうが何もないのです。

要するに全ての記録、証拠は、イスラエルの主張「パレスチナ人指導者が
出ていくよう命令した。彼らは勝手に出ていったのだ」との主張が嘘に過ぎないことを証言するのです。
事実は彼ら「イスラエル人」がパレスチナ人を殺し、追い出し、土地を奪ったのです。
そして、愚かな日本人クリスチャンはいわば、泥棒の肩を持っているのです。

すなわち、上記メルマガには、嘘をたくみにする「某民族」と彼らのいうことなら、
何でも吟味することなく、受け入れ、「圧迫されているパレスチナ人」の意見など
顧みようとも、聞こうともしない「思い込みの激しい」クリスチャン
の姿があるだけです。

*”ユダヤ人の著名な作家イツハルは、作品『ヒルバト・ヒツァ(アラブ村の名)』のなかで、次
のように書いている。 「われわれはここに来て、銃を射ち、焼き、破壊し、圧力を加え、追い立てたのだ。一体わ れわれはこの場所で何をしたのだ。 」”と書いたとのことです。
ユダヤ人作家自身が「ここに来て、銃を射ち、焼き、破壊し、圧力を加え、追い立てた」ことを
認めているのですが、「思い込みの激しい」クリスチャンには、それさえ目に見えないのかも
しれません。
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その2.「秋元健治」氏の証言:

秋元健治さんは、大学の先生です。
彼は実際にパレスチナの地へ出かけ、その地で彼らの実情を見て、
インタービユーを行いました。そのパレスチナ人マンソール、かつてヤッファに住み、
その地を追われた彼とのインタビューの中には、イスラエル人がどのようにして
パレスチナ人を追い出したのかが明確に示されています。

北朝鮮により拉致され、長い間その国で暮らしていた本人の声は、実際に行われた「拉致の真相」に関しては、誰の意見よりも信ぴょう性があります。
「拉致はない」などとこの間迄、嘘をついていた北朝鮮の金正日や、北朝鮮ひいきの
日本某政党の人々の偏見に満ちた意見より正しいのです。

同じ意味あいで、<パレスチナ人が故郷を去った訳>に関しては、追い出したイスラエル側の一方的な言い分や、それを吟味もなく、うのみにし、宣伝する愚かな人々より、追い出された当のパレスチナ難民のことばの方がよっぽど信ぴょう性があるのではないでしょうか。

以下はその引用。

ー引用始めー
 
 
 

「帰らざる祖国」第一書林 秋元健治著より

難民マンソールの証言:
 

イスラム教墓地近くの奥まった路地裏に、アプドウルの家はあった。彼の母が紅茶を運んでくると、この家の家族も皆、集まって来た。アプドウルの家族は全部て五人で、彼は長男である。アプドウル・ジャマはナプルスでアフビア文学を専攻する大学生だが、彼の妹、ラダもまた同じ大学で歴史学を学んでいる。占領下にあるパレスチナ人の大学は、抵抗運動が激しくなった一九八七年末からイスラエル当局の命令により四年の長きにわたって閉鎖され、再開されたのはついニカ月ほど前のことである。この家族、ジャマ家の両親は一九四八年、第一次中東戦争のとき、地中海沿岸の都市ヤッファからここバラータキャンプに戦火を逃れて来た。それがら今年でもう四三年もの歳月が流れた。アプドウルやラダ、未の弟はこの難民キャンプで生まれ育った。
「ヤッファはとても美しい町だった。緑があふれていた。私の家はその土地を何代にもわたって耕してきた農家だった」アブドウルの父、マンソールは懐かしそうな眼差しでそう回想する。「しかし、私たちの土地にいつの頃からかユダヤ人がやって来るようになった。

港に着くョーロッパからの船は、大勢のユダヤ人を運んできた。彼らのほとんどはひどく貧乏だった。そしてユダヤ人たちは町の周辺に粗末な家を建てて住み始めたが、その様子を私たちパレスチナ人は非常に複雑な気持ちで眺めていた。それは彼らに対する憐潤の情や、また逆に自分たちの生活や土地が脅かされるのではないかという不安だった。そうしているうちに街のあちらこちらで殺し合いが始まっていた。それはとても醜い争いごとで、何人ものパレスチナ人、ユダヤ人が死んだ。私たちは互いに憎しみ合い、軽蔑し合った一しかしそんなことをいったい誰が始めたのか、どちらが悪いのか今でもよくわからない」

「一九四八年の第一次中東戦争当時のことを話してくれませんか」私は言った。
 

「ユダヤ人とアラプ諸国との間に戦争が始まったというニュースが流れてきたとき、私はまだ一六歳だった。私の家には両親の他に三人の兄妹がいた。父は近所の寄り合いから家に戻ってくると、すぐこの土地から避難するように家族全員に命じた。『武器を持ったヤフード(ユダヤ人)がやって来て皆殺しにされる』父はそう言った。私たちはその言葉をひどく恐ろしい気持ちで聞いた。なぜなら近隣の村や町で、ユダヤ人の一団が銃や斧でパレスチナ人を殺しているという噂が広がっていたからだ。私たち家族は近くの住人たちと一緒に、古いトラックに乗って東へ向かった。とにかくユダヤ人のいない場所へ一刻も早く逃げねばと誰しもが考えていた。歩いて東へ避難する人々もたくさんいた。そういった人たちの幾人かをトラックに乗せてあげると、すぐに荷台はいっぱいになってしまった。それでも乗せてくれと人々が懇願してきたが、もうひとりとして乗せることはできなかった。路上には生きているのか死んでいるのか、横たわっている人が何人もいて、私はとてもかなしくて涙をぼろぼろ流して泣いた。」

「あなたはなぜ、ここバラータ難民キャンプへ来たのですか?」

「あの当時、私たちはどこへ行けばいいのか、いったいどこが安全な場所なのか全くわからなかった。確かな情報などどこにもなかったからだ。皆で話し合っても結論など出ようはずもない。結局、大勢の人々が向かっている方向へ一緒に行くよりほかなかった。途中、ョルダンの軍隊が西へ移動しているのに遭った。私たちの故郷はすでに戦場になっていると、兵士から聞かされた。ョルダン川を渡ってさらに東ヘ逃れる人々もいたが、私たちは自分の土地からあまり遠くへは行きたくはなかった。ナプルスの町の周りに避難民の集まる場所ができていた。そのひとつがここバラータ難民キャンブだつた」
 

「戦争直後の難民キャンプの様子はどうでしたか?」

「そこは最悪だった。私たちの多くは、国際赤十字から支給されたテントで暮らすことになった。キャンプの中は非常に過密し、衛生状態はひどく伝染病が蔓延して死ぬ人が何人もでた。そして私たちはいつも飢えていた。とても十分ではなかったが、国連の機関から食粗の配給があった。食糧を積んだ国連のトラックがキャンプにやって来ると、私たちは先を争うように車の周りに押しかけた。人々は互いに怒鳴り合い、罵りあって食べ物を求めた。男たちも女たちも誰もそんなことなどしたくはなかった。だけど家族のために子供たちのために、そうしなくては生きていけなかった。惨めだったが、しかし私たちには希望があった」

「希望?」
「それはもちろん、生まれ故郷へ帰れるという望みだ。私たちは戦争が終わってしばらくして世の中が落ち着いたら、自分たちの村や町へ戻ることができると考えていた。ここでの苦しい生活は、そんなに長く続くわけはないと皆が信じていた。ところがユダヤ人は、彼らの新しい国家イスラエルはそれを許さなかった。故郷へ通じるすべての道にはイスラエル軍の検問所ができていて、そこをパレスチナ人は通過することが禁じられた。私たちにとってこれは非常な驚きだった。何百年も代々受け継いできた土地に、もう私たちは永久に戻ることができないのだと彼らは言うのだ。こんな不条理なことが認められるはずがない。私たちの誰もがそう考え、世界の国々にこの問題の解決を期待した。国連はこれまでにもう何度も、パレスチナ人が故郷の地へ帰る権利を認め、イスラエルの政策を非難してきた。しかし現実は何ひとつ変わらなかった。一九六七年に再ぴ大きな戦争、第三次中東戦争が起こった。この戦争でもアラプ側は敗北し、状況はさらに悪くなった。私たちは完全にイスラエルの占領下に置かれること
になつた」

「故郷への望みは、まだ続いていますか」
「もちろんだ。パレスチナヘの希望は今では私たちの生そのものだ。諦めることなどできない」

ー引用終わりー

ここに書かれているのは、今、自分の地を追われ、難民として
暮らすパレスチナ難民本人のありのままの証言です。
何故彼らは自分がせっかく持っていた土地や畑、家を
離れ、わざわざ難民暮らしをしているのか?
その疑問に対する明確な答えがここに書かれており、要するに
『武器を持ったヤフード(ユダヤ人)がやって来て皆殺しにされる』、すなわち、
命の危険があったので、彼らはその地を逃げ出して来たのです。

このように<パレスチナ人が故郷を去った理由>は明確なのですが、
思い込みの激しい人々の耳には入らないようです。

迫害される人々、追われる弱者、奪われ、殺される人の
声には、耳を傾けず、ろくに調べもせず一方的な宣伝を繰り返す
上記キリスト教メルマガはどうみても「公平」とは思えないのですが、
どうでしょう。

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その 3.「広瀬隆」氏の証言:
 

広瀬隆氏もまた、イスラエル、パレスチナの地を訪れたことのある人です。
彼も上述の
広河隆一氏、また秋元健治氏と同じように、平均的日本人として、特別どちらかに肩入れしているわけではない、しかし、中東の実情を知るに従い、理不尽なイスラエルの暴虐は
許せないと思うようになった人のようです。彼は中東の実情を見た上で、「すでにここに住みついていたアラブ人(パレスチナ人)を追放した侵賂者はまぎれもなくユダヤ人であった。」と単純に
結論づけています。

ー以下引用ー
 

「赤い盾」集英社

広瀬隆

しかしイスラェルの建国は、全世界のユダヤ人がここに戻って来た、というような美しいドラマではない。現代の話をするなら、すでにここに住みついていたアラブ人(パレスチナ人)を追放した侵賂者はまぎれもなくユダヤ人であった。イスラエルに入った人は、この土地がかつては荒れ果てた砂漠であって、これを緑に変えたのはユダヤ人である、という話を百回も聞かされる。あちこちで出版されている書物から、すでに出発前にその〃歴史〃なるものを読み、洗脳されているのである。ところが自分の足でイスラエルを歩いてみると、どこにでもアラブ人が住み、畑を持っている。北部ガリラヤの野辺は、キリストが山上の教訓を垂れた丘一帯にひろがる緑が、何千年もの歴史を物語っている。ァラブ人が畑で働いている。こうしてイスラエルという国家に懐疑的になる。時代は変り、パレスチナ問題が多くの人にも理解されるようになり、数々のジャー

ナリストが正確な中東情報を伝えるようになってきた。これに危機感を抱き、パレスチナ人の絶減によって問題の消減をはかろうとしているのが、今日のユダヤ人国家イスラエルである。闘争の責任者はアラブとイスラエルのいずれにあるのか、という議論を交わす者がほとんどであるが、これは、議論の出発点を誤ったものである。イスラム教とユダヤ教の対立、あるいはアラブ民族とユダヤ民族の死闘、これはそのあとに生まれた結果であり、中東紛争の原因ではない。熱烈なシオニズムがイスラェルを建国したと言うが、そのシオニズムを動かしたユダヤ人の主な協会や機関を調査してみると、次のようなリストができあがる。ヒルシュ男爵財団−−設立者モーリス・ヒルシュ男爵、理事長マイヤー・アィザックス、副理事長ジェィコプ・シフ、理事ロパート・モルゲンソー、ヴィクター・ロスチャイルド(全員ロスチャイルドー族)

ー引用終わりー
 

3. 結論:

以上、2種類の意見を羅列しました。
いわゆる「パレスチナ問題」には
多くのことがらが含まれますが、今回は、たった一つの
ことがら、すなわち、「パレスチナ人が故郷を去った理由」のみを取り上げてみました。
この一つのことがらを見ただけでもいわゆる「クリスチャンの常識」がいかに実情と懸け離れた
ものであるか、その一端を理解いただけると思います。
 

時間がとれればいつかそれ以外のことがらに関しても見ていきたいと思っています。
 

4. 参考資料

以下は今回のことがらに関係する、理解を助けると思われる資料:
 

 * パレスチナ、ジェニンの虐殺
日本女性、塾講師、森沢典子さんが、実際にパレスチナの地に出かけ、
確認してきたパレスチナの地の実情。
 

 *ジェニンの虐殺(1)
 ジェニンの虐殺(2)
 ジェニンの虐殺(3)
写真家広河隆一さんが、実際に調査、確認した「ジェニンの虐殺」の実情。
キリスト教新聞、雑誌等が伝えるものと異なる。
 

  倒れた「テロリスト」
自分の家、町を守るため、たちあがり、銃で応戦した彼は
一発の敵の銃弾で倒れる。そして、欧米、日本の新聞は
彼の死を「テロリスト」が倒されたと報じる....。

 自爆したスパイ
イスラエルにスパイになることを
強制されていた青年の自爆死。
人の国を奪い、家を奪い、そして
拷問によりスパイになることまで、強制する
彼らは「約束の民?」

 シャロンは戦争犯罪者
イスラエル首相シャロンは
その虐殺の罪によりベルギー法廷に
告訴されている「犯罪者」。
「血を流す殺人者に加担する」ことを
聖書の「自分勝手な教理」をもとに
クリスチャンに強いるべきではない。

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