【エルサレム 24 日】
20 日に日本を出て、エルサレムに着いたのが
21 日朝 6 時、仮眠して 8 時にパレスチナ自
治区のラマラに行きました。そこでは前夜、アラファト議長が「軟禁」状態にある議長府
にミサイルが撃ち込まれ、建物がひとつ破壊されていました。
前にラマラを訪れてから 1 ヶ月たちます。前回の取材中、1
月 23 日に、私の目前で起こ
った出来事を思い起こしました。
自治政府の議長府があるラマラに、イ
スラエル軍の戦車が侵攻してきました。
それをファタハの地下組織、タンジーム
の男たちが迎え撃ちました。といって
も、彼らの銃では戦車に損害を与えるこ
とはできません。それでも戦車の侵入
を、手をこまねいて許すわけにはいかな
いと、パレスチナ人たちが武器を取って
抵抗したのです。
今から 20 年前、私はレバノンのベイ
ルートでも、同じ光景を見ました。その
時もイスラエル軍戦車がベイルートに入
ってきて、小銃を持った左派民兵たちが
迎え撃ったのです。でも機甲部隊と曲射
砲、空軍までもつイスラエル軍に対して
勝負にならないことは言うまでもありま
せん。瞬く間にベイルートはイスラエル
の支配下に落ちました。でも占領下のベ
イルートでいつまでも散発的な銃声が響
くのを聞いて、兵士たちが今も抵抗し続けているのだと、感慨をもったことを思い出しま
す。
今年 1 月 23 日、私の数メートル先で、タンジームの男たちがイスラエル軍に向かって銃
を撃っていました。顔はマスクで隠しています。ジャーナリストがいるのがわかっていま
したから、撮影されて面が割れて、後にイスラエルに暗殺されることを恐れたためです。
2 人の男が交互に家の石壁から身を乗り出して、銃を撃っていました。私は彼らを撮影し
ていました。突然その 1 人の体が崩れました。何が起こったのか私にはわかりませんでし
た。そして彼の体が地面に倒れた時、私ははじめて彼が撃たれたことを知りました。
彼を貫いたのはイスラエル狙撃兵のたった
1 発の銃弾でした。彼は叫び声を上げること
もなく、静かに崩れ落ち、そしてそのまま息
を引き取りました。
日本に戻ってから、フィルムを現像して、
はじめて私は、彼が崩れる瞬間もシャッター
を押していたと知りました。モータードライ
ブは使用していませんでしたから、何度もシ
ャッターを切っていたことになります。
撮影が終わった後も、私は呆然としていま
した。彼の死が余りに突然過ぎたからです。
打ち砕かれたのは、彼の抵抗の意思でし
た。それもあっけなく、たった 1 発で、彼は
静かに死にました。そこに居合わせた兵士に
も重苦しい沈黙が襲いました。男は、自分の
町に侵入した軍隊に対して小火器で応戦し
て、欧米から「テロリスト」として名指され
たまま、死んで行きました。