終末のキーワード by エレミヤ

 

終末に関連するいくつかのキーワードを通して終末を理解する。

福音を伝えたために逮捕されるアメリカクリスチャン:今は終末であり、

艱難時代は迫っている!!!!!!


<7つの封印>

 

終末のみことば、教理に関して始めに知らなければならないことは、それが、「封印」されている、ということである。以下の様に書かれている。

 

黙示録5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

 

 5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。

 

 5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。

 

終末のみことばは、7つの封印で封じられている。従って、その巻物を開くことも見ることもできない。それは実は、今でもそうなのである。

終末の黙示録に関連してあらゆる種類の教理があり、解説がある。何故こんなにみなのいうことが違うのか?何故このように、色々な説があり、異なる教理があるのか?その理由はこの封印が今でも開けていない、そのためである。誰も彼も封印が開けていないのに、自分の想像や憶測で、教理を語っている、それが、多くの教理が終末に関して存在する理由である。

それでは、黙示録は終末のみことばは、何故封印されているのか?

それは、神ご自身がこの終末の奥義をすべての人に開こうとは、そもそも

思っておられないからである。

封印は部屋の鍵の様なものである。何故我々は自宅を出て行くとき、玄関の鍵を締めるのか?それは、誰でも彼でも入ってこられては困るからである。

鍵を締めずに、泥棒や見知らぬ怪しい人に家に入り込まれては困るからである。しかし、家族は入れるように鍵が渡されている。封印も鍵と同じ意味あいで使われている。神はそもそも終末のみことばをすべての人に開こうと思っておられないのである。逆に、

神が認めた正しい歩みの人のみに封印を開こうと思っておられる。

ダニエル書に書いてあるように、悪人には封印は開かれず、誰も悟るものはない。

それで、私たちが真に封印が開かれることを主に求めるつもりがあるなら、私たち自身の

歩みをただす必要がある。

 

7つの封印



封印された預言

 

悪人は一人も悟らない

ダニエルの知恵

バビロンの知者

 

 

<御国の奥義>

 

聖書には主のみこころを行う弟子にしか理解できない、「御国の奥義」と呼ばれる

奥義が含まれている。そして、それは、弟子以外には理解することは許されていない。以下のことばの通りである。

 

マタイ 13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

 

 13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

 

 13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

 

 13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

 

ここには、御国の奥義は弟子には、知ることが許されているが、そうでないもの、群集には、許されていないことが書かれている。さらにその奥義と関連してたとえが使われていることが書かれている。

 

このことは、現在であっても真理であり、現在でも御国の奥義は弟子の歩みをしていないものには、開かれない、特に終末のみことばは、奥義の中の奥義なので、開かれない。

黙示録はまさに終末の奥義に関する書物であり、多くのたとえに満ちている。

しかし、その人に奥義が開かれるか否かは、その人の歩みによる。学問があるから、聖書を何度も読んだから、ギリシャ語がわかるから、といって、弟子の歩みもしていない人に奥義が開かれることはない。

現在キリスト教会に広がっている終末教理すなわち、艱難前携挙説。2段階携挙説やら、エルサレムの第3神殿建設の教理などは、御国の奥義でも何でもなく、群集の論理、考えに過ぎない。

また、レフトビハインドを始めとした終末教理は、奥義とは何の関係もない、群集の妄想に過ぎない。彼らは御国の奥義、終末の奥義の一部をも知らない。

しかし、主につくもの、弟子として仕えていくものにはこれらの奥義は開かれる。

御国の奥義

 

 

<私的解釈(そのテキストからのみの解釈)をしないこと>

 

終末のみことばを理解しようとするとき、気をつけるべき注意点は私的解釈をしないことである。以下の様に書かれている。

 

2ペテロ 1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

 

 1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

 

この「私的解釈」との日本語の訳には少し問題がある。原語のニュアンスは「そのテキストからのみ解釈するな(他の聖書箇所も参照しろ)」という意味合いだからである。

 

したがって、このことばの意味合いから考えると終末の預言を解釈、理解しようとするとき、その該当の箇所のみでなく、関連したほかの聖書箇所をも参照すべきことがわかる。

たとえば、黙示録に出てくる7つの頭と10本の角を持つ獣に関して解釈するなら、

この黙示録の箇所のみでなく、関連しているダニエル書の獣に関する箇所をも参照すべきなのである。

 

今のキリスト教会の終末教理はこのみことばを無視し、私的解釈(そのテキストのみからの解釈)に陥り、多くの間違いや誤解を生じている。

 

 

このみことばによるならば、黙示録は黙示録のみのテキストから解釈すべきではない。

たとえば、以下の様な黙示録の「獣の刻印」のみことばを解釈しようとするとき、黙示録のみから

解釈すべきでない。

 

 

黙示録 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

ここには、獣の刻印が右の手か、額につけられることが描かれている。

この意味合いは、以下の申命記の記述を見るとき理解できてくる。

 

申命記6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

 

この箇所は、神のみことばに関連してそれを「手」に結びつけ、「額」の上に置くよう、神の民に対して命じる箇所である。

 

この箇所を基点に考えるなら、黙示録13章の「右手か額」かにつけられる、

獣の刻印とは神との契約に関連したものであり、そして、それは、未信者ではなく、

神の民であるクリスチャンを対象としている可能性があることがわかってくるのである。

しかし、残念ながら、今の教師は私的解釈に陥り、そのテキストのみから解釈をしようとし、他のテキストを参照しようとしない。結果、この黙示録の刻印がクリスチャンをターゲットとしたものであることを理解できない。



私的解釈に関して

 

<表にも裏にも文字の書いてある巻物>

 

この終末のことばは、表だけでなく、裏にも文字が書いてある。

以下のことばの通りである。

 

 

黙示録5:1 またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。(新共同訳)

 

この終末のことばは、表に文字が書いてある。したがって、文字通りに読んだり、第一義的な解釈をすることは可能である。しかし、裏にも文字が書いてある。従って、この書物は単純な表の意味合いだけにとどまらず、たとえや謎を理解するつもりでないとその本当に意味することは解釈できない。

そのことが、語られているのである。

しかるに、今の時代の教会も教師も盲目となり、霊的解釈はよくない、などとうそぶき、この書のたとえを理解することも謎を解くこともしない。彼らがこの書を何一つ理解できず、的外れな解釈を行っていることも当然である。

 

表にも裏にも文字の書かれた巻物

 

<耳ざわりの良い空想話>

聖書は終末の日に多くのクリスチャンが真理を離れ、耳ざわりの良い空想話に流れていく日が来ることを預言している。

 

2テモテ 4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

 

 4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 

今がその時代であり、多くのクリスチャンは、聖書のみことばから、かけ離れた空想話、艱難前携挙説を喜んで受入れている。この教理によれば、教会もクリスチャンも艱難に会わずその前に天に挙げられるということなので、結構毛だらけ、大変耳ざわりの良い話なのである。

しかし、この様な耳ざわりの良い話こそ、かねてから、警告されていた真理から 離れた空想話であり、

こんな偽り教理を喜んで受入れるような人々に終末の真理が開かれるはずはない。

 

 

 

耳ざわりの良い話に多くの人は集まる

 

 

 

<よくできた作り話>

 

キリストの来臨、再臨に関連してペテロはよくできた作り話に関して述べている。

以下の通りである。

 

2ペテロ 1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。

 

この節からキリストの来臨と「うまく考え出した作り話」が関係することが理解できる。

そして、このことばはそのとおりに実現しており、今のキリスト教会は、終末に関連して、ペテロやパウロ、また、

初代教会時代、さらにルターの頃の教理を捨て去り、「聖徒にひとたび伝えられた信仰

」ユダ1:3を捨て去っている。代わりに19世紀にJ.N. ダービーが作成した「うまく考え出した作り話」

を全面的に採用している。ダービーのいわゆるデイスペンセーション主義、艱難前携挙説とは、まさに「うまく考え出した作り話」であり、聖書に基づかない、意図的な嘘の教えであるが、しかし、みなすっかり

信じ込み、聖書に背き、偽りを受け入れるようになっている。

レフトビハインド:うまく考え出した作り話




うまく考え出した作り話


作り話

 

 

 

<悪霊の教理>

 

聖書は終末の日になると、人々が悪霊の教え(教理)に心を奪われるようになることを預言する。以下の通りである。

 

1テモテ4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

 

 

艱難の前に挙げられる、という19世紀に突然キリスト教会に入ってきた艱難前携挙説はまさに

悪霊の教えである。何故なら、この教えは、聖書が根拠になった教えでなく、マーガレットマグドナルドという霊媒女性の見た「艱難の前に聖徒が挙げられる」という幻を基にダービーが作った教理だからである。そして、このマーガレットマグドナルドもダービーもともにフリーメーソン、悪魔礼拝者なのである。

艱難前携挙説を持ち込んだJ.N.ダービーはフリーメーソン、悪魔礼拝者。

この教えは悪霊由来の教えである。




ダービーのおかしな教理

 

以下はメッセージのサイトから

 

悪霊の教え

悪霊の知恵

 

 

<俗悪な年寄り女の空想話>

 

さらに聖書は終末の日に俗悪な年寄り女がするような空想話が起きることを預言する。

以下の通りである。

 

1テモテ4:7 俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。

 

今のキリスト教会に伝わっている終末教理、艱難に会わないとする艱難前携挙説、2段階携挙説は聖書に基づく真理というより、聖書から

かけ離れた空想話と思える。

 

聖書において主は明らかにクリスチャンが終末の艱難を通過すること、そのための備えをすることを述べている。以下の通りである。

 

マタイ24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

24:19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。

 

 24:20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。

 

 24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。

 

 24:22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

 

主はここで、最後まで耐え忍ぶものは救われますと語り、明らかにクリスチャンが艱難を通ること、それを最後まで耐え忍ぶことを語っている。しかし、終末の空想話である艱難前携挙説は、このような主のことばを否定し、

教会は艱難に会わない、として、真理とかけ離れた空想をクリスチャンに述べる。

このような教理を受入れるとは、

確かに教会は俗的になり、空想話にうつつを抜かしている。

このような今の背教の教会が終末の真理を理解することはない、と思える。

 

 

俗悪な年寄り女の空想話

 

空想話

 

 

空想話(2)

 

 

<盲人教師>

 

終末の日の大きな災いは、終末の日の教師たちが盲目となり、終末の真理を見ることができないこと、結果、盲人を導く盲人となり、ともに穴に落ち込むようになることである。

以下の様に主はいわれた。

 

マタイ 15:12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」

 

 15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。

 

 15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

 

今の時代の牧師、教師は艱難の前に挙げられるなどとのヨタ教理をすっかり受入れており、まさに盲人教師である。彼らに従い、盲従し、天の御国に入れるとはとうてい思えない。

むしろ共に穴に、すなわちゲヘナ、地獄の穴に落ち込むようになる、と思われる。

 

盲人を導く盲人



書記の偽りの筆

 

牧師、偽預言者の間違えについて

 

終末の偽教師

終末の偽預言者

蛇について

律法学者とゲヘナ

 

律法学者とゲヘナ(2)

 

律法学者とゲヘナ(3)

 

女と蛇

 

女の子孫

 

年を経た蛇

 

<虐殺の剣>

 

何故、終末のインチキ教理が今の時代のクリスチャンに大いに受入れられるのか?

その一つの理由は神の怒りのゆえである。神が、終末の日の神の民の背教に対して

怒りをもち、彼らを虐殺の剣に渡すようになることが預言されている。

以下の通りである。

 

イザヤ21:2 「人の子よ。顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。

 

 21:3 イスラエルの地に言え。『主はこう仰せられる。今、わたしはあなたに立ち向かう。わたしは剣をさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼす。

 

 21:4 わたしがあなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼすために、わたしの剣はさやを離れて、ネゲブから北まですべての者に立ち向かう。

 

 21:5 このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。』

 

 21:6 人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。

 

 21:7 彼らがあなたに、『なぜあなたは嘆くのか。』と言うなら、そのとき、あなたは言え。『この知らせのためだ。それが来ると、すべての者は心がしなえ、すべての者は気力を失い、みな意気消沈し、だれのひざも震える。今、それが来る。それは実現する。――神である主の御告げ。――』」

 

 21:8 ついで、私に次のような主のことばがあった。

 

 21:9 「人の子よ。預言して言え。主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。

 

 21:10 虐殺のために研がれ、いなずまのようにそれはみがかれた。われわれはそれを喜ぼうか。わたしの子の杖も、すべての木のように、退けられる。

 

 21:11 その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。

 

 21:12 叫べ。泣きわめけ。人の子よ。それはわたしの民の上に下り、イスラエルのすべての君主たちの上に下るからだ。剣への恐れがわたしの民に起こる。それゆえ、あなたはももを打って嘆け。

 

 21:13 ためされるとき、杖まで退けられたなら、いったいどうなることだろう。――神である主の御告げ。――

 

 21:14 人の子よ。預言して手を打ち鳴らせ。剣を二倍にし、三倍にして、人を刺し殺す剣とし、大いに人を刺し殺す剣として、彼らを取り囲め。

 

 21:15 彼らの心が震えおののくように、彼らのすべての門に、つまずきをふやせ。ああ、わたしは剣の先をいなずまのようにして、虐殺のためにみがきをかける。

 

 21:16 あなたの顔の向くところ、右に向け、左に向けて切りまくれ。

 

 21:17 わたしもまた、手を打ち鳴らし、わたしの憤りを静めよう。主であるわたしが語るのだ。」

 

ここに書かれていることは、たとえを通して理解するべきである。

「御霊の剣、すなわち神のことば」と書いてあるように、剣は、神のことばや、教理に関するたとえである。従って上記、エゼキエル書の虐殺の剣とは終末の日に神の民を惑わし、永遠の命を奪う、インチキ教理に関する預言である。

具体的には、今の時代のクリスチャンをすっかり、とりこにしている

艱難前携挙説を始めとした、一連のインチキ終末教理である。

多くのクリスチャンにとり、このインチキ教理が真理に見えるその理由は、彼らがすでに

神により、偽りに渡されており、虐殺の剣に渡されているからである。

これらの教理を軽く見てはいけない。それは、虐殺の剣である。戦いの日の剣はピンポンのラケットの様に人畜無害なものでない。逆に、人の命を奪う武具であり、命に関わるものである。同じように終末のインチキ教理は虐殺の剣であり、この教理に惑わされることは命に関わることであり、永遠の命を失うことに通じることを知るべきである。

 

 

 

 

虐殺の剣

 

虐殺の剣 

 

<たとえを理解する>

 

 

今の時代の教師がもし、盲目であるとして、また、真理からかけ離れた偽りの教えに

狂奔しているとして、我々はどのようにして、正しい終末教理を知ることができるのだろうか?

その件に関連して聖書はたとえを理解することを語っていることを思い出すべきである。

 

マルコ 4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。

 

主はここで、たとえを理解できない弟子たちをしかっている。

従って、我々はたとえを理解することを求めていくべきである。

黙示録を始めとした終末の預言書はたとえに満ちているので、たとえを理解しようとしないなら、何ひとつ悟ることはできない。

 

たとえを理解する

 

たとえを理解する

たとえは弟子にあかされる

聖書の真理はたとえの中であかされる
 たとえによる弟子と群集の区分

たとえを聞き取る

たとえで成就する預言


たとえの連鎖

 

 

 

<再臨がわからない>

 

終末の日の偽りの教理に惑わされたクリスチャンは、キリストがいつ再臨されるのか、

その日を理解できず、悟らない。以下のことばの通りである。

 

黙示録3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

 

サルデスの人々に対して、この再臨の日において、目をさまさず、悔い改めないなら、

主の再臨が決してわからないことを主が語られている。

であるので、終末の日、惑わされた教会において、主の再臨に正しく対応できず、

いつ主が来られるのかもわからない、ということが起きることが理解できる。

 

キリストの再臨がいつか理解できない

 

サルデスへのことば

 

あなたには決してわからない

 

 

 

 

<貞潔を失う>

 

パウロは、キリストの花嫁たるクリスチャンが花婿であるキリストにめとられるため、

貞潔を失うことのないことを警告している。以下のとおりである。

 

2コリント11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

 

 11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

 

 11:4 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。

 

終末の日の教会が貞潔を失うとは具体的には上記テキストにあるように、

別のイエスに関する教理を受入れたり、神以外の霊を受入れることである。そして、

それは、残念ながら今世界の教会でさかんに行われていることである。

 

黙示録に書かれている多くの災い、それは、背教の教会、貞潔を失った教会への裁きとしておこなわれるものなのである。

貞潔を失う

 

 

貞潔を失う
貞潔を失う(2)

貞潔を失う(3)

 

<背教>

 

背教とは読んで字のごとし、キリストの教会がキリストに背き、

その教えから外れていくことである。

そのようなことは望ましくないが、しかし、必ず教会に背教が起きることは以下の様に

聖書に預言されている。

 

2テサロニケ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

そして、その背教のゆえに教会に起きる多くの災いを記した記述、それが、黙示録の記述なのである。


背教に関して


背教

 

背教(2)

 

 

<宮の崩壊>

 

主が終末に関する預言をマタイ24章で行われたとき、その話は、

まず「宮の崩壊」から始まっていることは注目すべきことである。

 

マタイ24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

 

 24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 

 24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

この肝心の宮は終末である現在にはもうエルサレムに存在していない。影も形もない。

そして、建ってもいない、存在もしていない宮が崩壊することはありえない。

したがって、宮の崩壊の預言を考えるとき、物理的な宮について考えたり、いつのことかわからない第3神殿の建設について考えるより、聖書の言うたとえの理解をするべきと思われる。

たとえに注目するなら、宮は礼拝する場所としての教会のたとえである。

そして、宮である教会の土台は、使徒や預言者さらに隅のかしら石であるキリストである。

以下のことばの通りである。

 

エペソ2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

 

 2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

 

 2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 

 

したがって、宮が崩れ、一つの石も他の石の上に残らない、とは

使徒や、預言者さらにキリストの教えさえ、崩され、崩壊するという

教会の大崩壊を預言したことばなのである。

 

しかるに、耳ざわりの良い空想話しか受けつけなくなった、今の背教の教会は、

これらの明確な教会崩壊の日に関する警告を受け付けない。

宮の崩壊

 


宮の崩壊

 

<都が異邦人に踏み荒らされる>

 

主は終末の日にエルサレムが異邦人に踏み荒らされることを語られた。

 

ルカ 21:24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。

 

このことは終末の日にたとえにおいて成就する。

 

 

ローマ兵はエルサレムを荒らした

 

 


自分の子のために泣く

 

 

異邦人がエルサレムを踏み荒らす

 


異邦人がエルサレムを踏み荒らす(2)

 

 

 

<獣の国>

 

終末の日には、正しいクリスチャンが迫害される時である艱難時代が起きる、さらに

キリスト教会は背教に向かう、などの一連の特殊なことがらが起きる非常に特別な時である。そして、その災いはただ漠然と理由も無く起きるのではない。逆に、その災いや艱難を計画、工作、推進し、悲惨を増幅、加速する「獣」というあるひとつの特別な国が登場することを聖書は預言する。以下のとおりである。

 

黙示録13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。

 

 13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

 

 13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、

 

 13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。

 

 13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。

 

 13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。

 

 13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

 

 13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

 

 13:9 耳のある者は聞きなさい。

 

 13:10 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。

 

 

この国を理解することが終末の重要なポイントである。

 

 

獣の国

 

7つの頭と10本の角を持つ獣

終末の一つの国

獣と10本の角

獣との戦い

獣との戦い(2)

復活する獣の国アメリカ

7つの頭を持つ獣


獣となる国

レビヤタン

レビヤタン(2)


レビヤタン(3)

 

成就するダニエルの像に関する預言

 

 


 

<この民に御怒りが臨む>

主は終末の日に「この民に御怒りがのぞむ」ことを語られた。以下の通りである。

 

ルカ21:23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。

 

この民とは何か?どの民に神の怒りが臨むのか?

この預言の最初の成就の日、すなわち、AD70年のエルサレム攻撃の日に

神の怒りの中で滅んだのは神の民であるエルサレムの住民であり、ユダヤ人だった。

彼らは神の一人子イエスキリストを受入れず、拒絶し、信ぜず、逆に彼を 捕らえ、有罪とし、十字架で命を奪った。その冒涜と背信の当然の報いとして、神の怒りの中でエルサレムの民は滅ぼされたのである。これが、旧約の神の民の最後だった。

さて、この預言は2重の預言であり、終末の日においても「この民に御怒りが臨む」

その「この民」とは誰か?

終末とは長い教会時代の終わりの日々なので、その日、神の怒りをかうのは、

背教に陥った教会であり、背教の道を歩む新約の神の民であるクリスチャンなのである。

巷間いわれているように、ユダヤ人ではない。

このことは当たり前の話であり、終末に背教するのは教会であり、よって、教会が裁きを受けるのである。

この終末の日における基本の基本を知るべきである。

神の怒り

 


書かれた全てのことが成就する報復の日

 

 

<再び十字架につけられる主>

 

キリストの十字架は終末の日に再現する。以下のことばどおりである。

 

黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

この日、十字架につけられる主とは誰か?

黙示録の日、未来の日に再度十字架につけられる主とは誰か?

それは、肉体をもたれた主イエスのことではない。そうではなく、

主の霊である、聖霊に関することがらである。

再び十字架につけられる主

 

 

再び十字架につけられる主

 

聖霊の型としてのイエス

 

聖霊とイエス


取り除かれる聖霊

 

荒らす憎むべき者

 

霊を汚す罪

 

再び十字架につけられる主

 

70週の終わりの王殺し

 

バラバ

王殺し

王殺し(2)

 

イエスを罪人の一人と数える

 

 離婚を憎む

 

 

<ソドムやエジプトと呼ばれる都>

 

終末の教会は背教に陥り、神の前にはソドムやエジプトと呼ばれるようになる。

 

以下のことばの通りである。

 

 

黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

ソドムやエジプトと呼ばれる都


エジプトと呼ばれる都

 

エジプトと呼ばれる都(2)


エジプトへの裁き

エジプトへの裁き(2)

モーセとエジプト

エジプトと神の民

 

血に変わる海

 

 

<2人の預言者>

 

終末の日の艱難時代には、エリヤや、モーセの様な2人の預言者が登場する。

以下のことばの通りである。

 

黙示録11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」

 

 11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

 

 11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。

 

 11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。

 

 11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。

 

 

この2人の証人とはだれか?

2人の預言者とは?

 

2人の証人

 

<民族は民族と争う>

 

主はその終わりの日に民族は民族と分かれ、争う日が来ることを

預言された。以下の通りである。

 

 

 マタイ24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 

 24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 

その日は、キリスト教の各教団、教派が分かれて争う日である。


民族は民族と敵対する

<4匹の馬>

 

黙示録に描かれている4匹の馬とは何か?

 

黙示録6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。

 

 6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

 

 6:3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。

 

 6:4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

 

 6:5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。

 

 6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

 

 6:7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。

 

 6:8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

 

それは、黙示録の時代に起きることがらを象徴的に、たとえを通して語ったものである。

 

始めに来る白い馬はキリストの福音の勝利であろうか、

しかし、その後の赤い馬は明らかに霊のぶつかり合いによる、キリスト教会の争い、分裂を示す。その後、黒い馬すなわち、罪や死、そして青い馬、みことばのききんがやってくる。

4匹の馬

 

4匹の馬

 

 

<2億の軍隊>

 

黙示録は終末の日に2億の軍勢が起きることを語る。

以下のとおりである。

 

黙示録 9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」

 

 9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。

 

 9:16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。

 

 9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。

 

 9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。

 

 9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。

 

この2億の軍隊とは何か?

それは、明らかに霊的な軍隊であり、具体的には、惑わしの霊にやられた

ペンテ系のクリスチャンと思われる。


2億の軍隊

 

 

 

<兄弟が兄弟を訴える日>

 

終末の一つの特徴、それは兄弟が兄弟を訴えて死に至らしめる日であることである。

以下の様に書かれている。

 

マタイ 10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

 

 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

 

兄弟とはたとえであり、教会の兄弟姉妹を指す。すなわち、

教会の中でクリスチャンが訴えあったり、密告しあい、死に至らしめる日がくることが預言されているのである。

 

 

兄弟に売られるヨセフ

 

兄弟に裏切られることのたとえ

兄弟を殺すこと
殺すものが神に仕えていると思う日

<キリストの名のゆえにすべての人に憎まれる>

 

終末の日の特徴、それは、キリストの名のゆえにすべての人から憎まれるようになる、

ということである。以下の様に書かれている。

 

マタイ 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 

我々はこの世の人々から、キリストの 名のゆえに憎まれるようになるだろう。

しかし、それだけではなく、堕落し、背教し、反キリストを拝むようになった、

教会の民からも憎まれるようになるだろう。

 

みなの者に憎まれる

 

 

人々の手に渡される

 

<反キリスト>

 

終末の日の一つの大きな特徴の一つは、それは、教会に反キリストが立つようになることである。以下の様に書かれている。

 

2テサロニケ2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

 2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

 2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。

 

 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

 

 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とのことばには、

たとえが使われている。要するに反キリストは、神の宮、教会の中に座を設け、具体的には、

キリストを追い出し、今までキリストが占めていた主の座を奪い取り、その上で、

自分こそ、神である、キリスト以上のものである、と宣言するわけである。

恐るべき背教と冒涜の日が預言されている。

 

反キリスト

 

反キリスト

獣の像

反キリスト

反キリスト(2)

自分こそ神であると宣言する

金の像を拝む

金の像を拝む(2)

金の像を拝む(3)

 

 

<666の刻印>

 

終末の日は、背教の教会において、反キリストが席巻し、

そこにとどまる背教のクリスチャンに666の刻印がつけられる日である。以下の様に

書かれている。

 

 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 

 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

 13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

 

獣のしるし

 


 

<ノアのとき>

 

主は終末の日はノアのようである、と語られた。以下のことばの通りである。

 

マタイ 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 

 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

 24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

ノアのときとは、洪水により、多くの人が滅んだ日である。

 

洪水の水は霊的なことのたとえと理解できる。終末の日の

背教の教会は洪水、惑わしの霊の洪水の中で滅んでいくと理解できる。

 

 

ノアの日の洪水


ノアの時


めとりとつぎ

 

ノアの日、ロトの日

 

山へ逃げる

 

 

<仮庵の祭り>

 

主は終末に関連して仮庵の祭りに関して言及しておられる。

 

マタイ24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

上記屋上とは以下の仮庵の祭りと関係のあることばなのである。

 

ネヘミヤ8:14 こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。

 

 8:15 これを聞くと、彼らは、自分たちのすべての町々とエルサレムに、次のようなおふれを出した。「山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、また、枝の茂った木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作りなさい。」

 

 8:16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。

 

 8:17 捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。

 

上記、家の屋根の上こそ、主のいわれた屋上のことなのである。

そして、それは、すなわち、地下教会のたとえである。

仮庵の祭り


家に入らないことのたとえ

仮庵の祭り

7の月の仮庵の祭り

 

<北の王は侵入する(カソリックの侵攻)>

 

ダニエル書は終末の日における北の国からの災いに関して預言する。以下のとおりである。

ダニエル11:40 終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。

 

 11:41 彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。

 

 11:42 彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。

 

 11:43 彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。

 

 

この侵入する北の国とは何か?

我々の理解では、これは、プロテスタントを侵食するカソリックの災いである。

終末の日、プロテスタントは背教に陥り、結果、カソリックのあらゆる、

惑わしの教理に席巻されていく。

カソリックの災いは席巻する

 

北の国

北の国

マゴグの地のゴグ

パンを食べず水を飲まないこと

兄弟の妻

 

<ハルマゲドンの戦い>

 

終末の日にハルマゲドンで戦いが起きることを聖書は預言する。

以下の通りである。

黙示録 16:12 第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

 

 16:13 また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 

 16:14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。

 

 16:15 ――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――

 

 16:16 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。

 

ハルマゲドンの戦いとは何か?

それは、「しるしを行なう悪霊どもに惑わされた、全世界の王たち」すなわち、

キリスト教会の指導者たちが他ならぬ神ご自身、キリストへ反抗し、戦いを挑む日のことである。

 

ハルマゲドンの戦い

 

ハルマゲドンの戦い

エキュメニカルとハルマゲドン

 

<子羊の様な2本の角を持つ獣:エキュメニカル>

 

黙示録は終末の日に子羊の様な2本の角を持つ獣に関して述べる。以下の通りである。

 

黙示録 13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。

 

 13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。

 

 13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。

 

この獣とは何か?

子羊はキリストであり、キリストに似ているのだから、この獣はキリスト教会である。

しかし、この日の教会は、もう人ではなく、獣となり変質している。

2本の角はキリスト教会の2大勢力、カソリックとプロテスタントと理解できる。

 

子羊の様な2本の角を持つ獣

 

子羊の様な2本の角を持つ獣

獣となった神の民

<地に住むもの>

 

黙示録には、地に住むものが災いであることが描かれている。以下の通りである。

 

黙示録 6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

 

 6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

地に住むものとは誰か?何故彼らは災いに入るのか?

地に住む(定住する)ものとは、この世の旅人、寄留者であったアブラハムとは異なり、

この世に定住し、住み着いているクリスチャンのことである。この世のトレンドを受入れ、この世の考え方を喜んで受入れているクリスチャンである。彼らは、この世につき、

終末の日において、正しいクリスチャンを迫害する側に立つ。

アブラハムはこの世において旅人、寄留者だった

地に住むものたち

 

 

<ユダヤ人だと嘘をつく悪魔礼拝者たち>

 

黙示録はユダヤ人だと嘘をついている悪魔礼拝者に関して語る。以下の通りである。

 

黙示録 3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。

 

黙示録はこのように、ユダヤ人だと嘘をついている悪魔礼拝者に関して語るので、

彼らに関して正しく理解できないのなら、黙示録やら、終末の真髄は理解できない。

何故終末の日に獣の国が台頭し、キリスト教が崩壊し、正しいクリスチャンが迫害したり、殉教するのか?

その大きな理由は彼らであり、彼らのキリスト教やクリスチャンへの憎しみである。

彼らこそ、獣の国アメリカの中枢を支配するものたちであり、キリスト教崩壊を画策するものであり、さらに正しいクリスチャンを迫害するための収容所を用意するものたちだからである。

 

ユダヤ人であると嘘をついている悪魔礼拝者

 


悪魔礼拝者は世界を支配する

ユダヤ人だと嘘をついている者たち

偽ユダヤ人の冒涜

 

 

<封印を開くユダ族の獅子>

 

黙示録は終末の日に日の上がる方、すなわち、世界の東の地域で、

イスラエル12部族が回復されることを述べる。以下のとおりである。

 

黙示録7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 

 7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。

 

 7:3 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

 

 7:4 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

 

 7:5 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、

 

このように、イスラエル12部族は日の上がるほう、すなわち、世界の東から回復する。

すなわち、イスラエル12部族は終末の日においては、中東ではなく、世界の東である

アジアに存在していることが暗示されているのである。そして、12部族の筆頭部族としてユダが記載されている。世界の東はアジアであり、そのもっとも東は我らが日本である。

日本こそ、真のユダ族の子孫であり、日本の回復こそ聖書の預言するイスラエル12部族の回復をもたらし、世界に益をもたらすものである。

 

ユダ族の獅子

 

 

東亜の天使

東向きの門

ユダ族の獅子日本

ベツレヘムの支配者

エルサレムから主のことばが出る

島国にエホバの栄光おそるべし

島国にエホバの栄光恐るべし(2)

 

イスラエル12部族の回復

戦場の馬

王権はユダを離れず

 

ー以上ー

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